
サントドミンゴの戦いで戦う反乱軍。ヤン・スホドルスキ画、1845年。ワルシャワ・ポーランド陸軍博物館所蔵/WIKIMEDIA COMMONS
奴隷たちは、いつも自由を与えられるのを待っていたわけではない。サントドミンゴ(現在のハイチ)では、彼らは自らの手で自由を勝ち取ったのである。
18世紀末、イスパニョーラ島の西半分に位置するこの地域は、フランス植民地の中で最も繁栄しており、住民約60万人のうち実に50万人が奴隷だった。しかしフランス革命の勃発は、入植者、「有色自由人」――数世代前に解放された元奴隷で、富を築いた者も少なくなかった――そして奴隷という三者の間に、緊張に満ちた空気をもたらした。
1791年、大規模な蜂起の夜
緊張はついに一触即発の状態に達する。1791年8月22日夜から23日にかけて、「マルーン」と呼ばれる逃亡奴隷たち――プランテーションを脱走し、森林に身を潜めていた奴隷たち――が、奴隷制廃止を求めて大規模な武装蜂起を起こしたのである。数十のプランテーションが焼き払われ、数百人規模の白人が犠牲となった。
指導者トゥーサン・ルーヴェルチュールの登場
プランテーションと数名の奴隷を所有する「有色自由人」だったフランソワ・トゥーサンは、瞬く間に反乱軍の指導的立場に躍り出た。戦いにおいて敵の弱点を見抜く卓越した才能により、まもなく彼は「ルーヴェルチュール(開口部)」という有名なあだ名で呼ばれるようになる。
フランス共和国は反乱鎮圧のため遠征軍を派遣した。しかし、もはや事態の収拾は不可能だと悟った共和政府委員ソントナックスは、「黒人の友の会」の一員でもあった経緯もあり、1793年8月、サン=ドマングにおける全奴隷の解放を宣言するという決断を下した。これに対抗して白人プランターたちはイギリスに支援を求め、イギリスは島の奪取を目論んで軍隊を送り込んだ。
イギリス軍を撃破し、島の実力者へ
すでにフランス革命派に加わり、将軍に任じられていたトゥーサン・ルーヴェルチュールは、イギリス軍への抵抗の先頭に立った。1798年、彼はイギリス軍を完全に撃破し、島の最有力者の座に就く。さらに1801年には島の自治を宣言し、自らを終身総督と定めた。
これは第一統領ボナパルトにとって到底許容できるものではなかった。本国への反逆と見なしたボナパルトは、3万人の兵士を島へ差し向けたのである。
1804年、ハイチ独立宣言
トゥーサン・ルーヴェルチュールは待ち伏せによって捕らえられた。しかし、奴隷制復活の知らせ――実際にはサン=ドマングには適用されなかったものの――によって急進化した蜂起を前に、フランス軍はついに優位を確立できなかった。
フランスはほどなく植民地からの撤退を余儀なくされる。こうして史上初の「黒人の共和国」は、1804年1月1日、正式に独立を宣言した。以後、この国は「ハイチ」と呼ばれることになる。それは、ヨーロッパ人による「発見」以前に、イスパニョーラ島が本来持っていた名前なのである。