古代の歴史

ジェーン・デューラフォイ――男装のままペルシアを駆けた女考古学者

ジェーン・デューラフォイ――男装のままペルシアを駆けた女考古学者

ウジェーヌ・ピルー撮影、ジェーン・デューラフォイの肖像(WIKIMEDIA COMMONS / EUGENE PIROU)

1881年、二人の「フランス人」がスーサを目指してペルシアを横断していた。一人はマルセル・デューラフォイ。フランス政府から、かつてペルシア帝国の首都であったこの地での発掘調査を委ねられた技師である。

もう一人は小柄で機敏な相棒。短い髪をピスヘルメットで覆い、肩にはライフルを担ぎ、ズボン姿にブーツという出で立ち――男性なら何ら不思議はないが、実は女性である。マルセルの妻、ジェーンだ。

型破りな人物

ジャンヌ・ポール・アンリエット・ラシェル、通称ジェーンは、1851年、トゥールーズに暮らす裕福なブルジョワ家庭マグレ家に生まれた。五人姉妹の末っ子で、きょうだいで唯一の男子だった長兄はスペインで消息を絶っていた。ジェーンは、両親が失った息子の代わりのような存在として育ったといわれる。オートゥイユの受胎会修道院付属学校で学んだ彼女は、そこで芸術的な素質を見せた。1869年に学業を離れると、同じ町出身の若き技師マルセルと恋仲になり、1870年5月、普仏戦争勃発の直前に結婚した。

開戦当初から、ジェーンは慣習をあまり顧みない不屈な性格を発揮した。工兵大尉として戦う夫に付き添うため、狙撃兵の軍服を身にまとうことを厭わなかったのである。知られる限りこれが初めての男装だったが、当時それは社会的に白い目で見られるだけでなく、公的な許可がなければ違法でもあった。ジェーンは許可を申請し、実際に認められた。冒険と旅を愛する彼女は、この許可を存分に活用する。男物の服は女性の服より快適であるだけでなく、夫婦が深く魅了されていたイスラム諸国では目立たずに済むからだ。

1873年から78年にかけて、夫妻はエジプトとモロッコを訪れた。しかしマルセルの関心は、普通の東洋学者のそれとは違っていた。彼はトゥールーズの歴史的建造物の担当官であり、上司は建築家ウジェーヌ・ヴィオレ・ル・デュク。カルカソンヌ城塞の修復で名高いこの中世美術の愛好家は、古代近東美術と中世イスラム美術の関係を究めるようマルセルに勧めた。この関心こそが、夫妻をスーサへと導くことになる。イギリス人ウィリアム・ケネット・ロフタスが1850〜52年に調査した遺跡である。ジェーンとの話し合いの末、マルセルは技師の職を辞め、考古学の道へ踏み出す決意を固めた。

東方への旅

夫妻のペルシア旅行は1881年2月に始まった。マルセイユを出港し、ギリシャ、黒海、アゼルバイジャンを経てペルシア領内へ入る。現地では馬での移動が最も実用的と判断し、護衛なしで馬を進め、1882年1月にスーサへ到着した。男装のジェーンは、ヴェールを着けない女性騎手の存在が必ずスキャンダルを招くような地方をも難なく通り抜けた。盗賊からペルシアの君主ナーセルッディーン・シャーに至るまで、誰ひとり彼女を男性だと疑わなかった。本人が女性であると打ち明けても、シャーは信じようとしなかったほどである。

最初の滞在は、ジェーンの多面的な人格、まず何よりも恐れを知らぬ度胸を浮き彫りにした。サソリ、タランチュラ、蚊、シラミ、熱病との闘いの連日である。あるとき彼女は、病に倒れたマルセルを治療する医者を求め、夜半、ただ独り馬で100キロをテヘランまで走った。またジェーンは写真術にも早くから才能を示し、都市や人びと、とりわけペルシアの女性たちを捉えた、この分野の先駆者の一人となった。

考古学者、写真家、そして作家

彼女の仕事は、絵画的・民俗学的な記録にとどまらない。道中で出会った史蹟を撮影した写真は、マルセルが1884〜85年に刊行した全5巻『ペルシア古代美術』の図版として使われた。さらにジェーンは文筆の才も発揮する。ペルシア滞在中につけた日記は、フランスの紀行雑誌『ル・トゥール・デュ・モンド』に掲載されて大きな成功を収めた。このジャンルの草分け的存在である彼女は、後には歴史小説『パリュサティス』(1890年)も上梓して成功を得ている。同作は作曲家カミーユ・サン=サーンスによりオペラ化され、台本はジェーン自身が執筆した。

パリに戻ると、マルセルの調査実績が認められ、夫妻は国立博物館館長ルイ・ド・ロンショーの支援を取りつけた。1884年、デューラフォイ夫妻は再びスーサへ向かう。今度はルーブル美術館と公共教育省の後援による公式調査団としてである。新たな同行者として、会計担当の土木技師シャルル・ババンと、出土品215箱の移送管理を担った博物学者フレデリック・ウセが加わった。

一方、シャーは金貨・銀貨など出土品の一部の受け取りを条件に、発掘を許可した。調査団はスーサの古代宮殿の遺構の上に陣を敷き、最大300人の作業員を雇い入れた。発掘は1885年2月に始まり、1886年に終了した。途中、キリスト教徒たちが預言者ダニエルの墓を掘り起こしていると地元の人びとが信じ込み、緊張が高まって数ヶ月の中断期間もあった。

レジオン・ドヌール勲章を受章

ジェーンは作業の監督と出土品の記録を担当した。出土品の多くは、ペルシア帝国をインダスからギリシャにまで広げたダレイオス1世(在位 前522〜486年)の時代のものである。最初の大発見は、ダレイオスの宮殿を飾っていた、獰猛なライオンを描いた釉薬を施した煉瓦のフリーズ(装飾壁帯)だった。発見後、ジェーンはこの区域の発掘指揮を任されている。数日後には、高さ21メートルに達するはずだった柱の破片が現れ、その上には破損した牛頭形の巨大な柱頭が載っていた。またある日のこと、作業員たちが突然掘る手を止め、興奮して腕を振り上げ始めた。あの有名な「弓兵のフリーズ」が姿を現した瞬間である。作業完了後、約30頭のラバと40頭余りのラクダが45トンにおよぶ出土品を巡洋艦「ル・サネ」号まで運び、同船がフランスへと運んだ。

パリ帰還後、ジェーンはルーブルにおけるフリーズの修復と設置を指揮した。1886年10月20日、サディ・カルノー大統領により美術館のペルシア室(デューラフォイ・ギャラリー)が開館すると、夫妻の名声は一層高まり、ジェーンはスーサ発掘への貢献を讃えられレジオン・ドヌール勲章を授与された。ペルシアから戻って以降、ジェーンが女性の服を着ることは二度となかった。夫妻がスーサへ戻ることもなかった。両者の関心は、彼らが「もう一つの東方」と呼んだスペインへと向かい、1888年から1914年までの間に実に23回も足を運んでいる。ジェーンは後に、カトリック女王イサベルの伝記も著している。

1914年、第一次世界大戦が勃発すると、マルセルは工兵将校としてモロッコへ従軍し、ジェーンも同行した。ラバトではハッサン・モスクの発掘を指揮したが、現地の人びとの生活環境の改善に奔走するうちに病に倒れる。気管支炎、眼炎、赤痢を患い、1915年にフランスへ帰国。そして1916年5月、ヴェルダンの激戦でフランス軍の勝利を祈りながら、ラングラード城にて64歳でこの世を去った。

さらに知るために

Audrey Marty著『ジェーン・デューラフォイの驚くべき運命――トゥールーズからペルセポリスへ、女性の冒険』(Papillon rouge、2020年)

年譜

  • 1851年:ジャンヌ・マグレ、トゥールーズに生まれる。1870年にマルセル・デューラフォイと結婚し、普仏戦争にも随伴した。
  • 1881〜1884年:公式の支援を得られないままマルセルとともにペルシアを旅し、古代の史蹟を撮影した。
  • 1884〜1886年:マルセルとの公式調査でスーサを訪れ、「獅子」と「弓兵」両フリーズの回収を主導した。
  • 1916年:大戦勃発とともにマルセルに同行したモロッコでの病のため、5月25日に死去した。

信念を貫いた女性

1886年にペルシアから帰還した後も、ジェーン・デューラフォイは作家、講演家、ジャーナリストとして精力的な知的活動を続けた。男性のみで構成され、作家ミリアム・アリーへの授賞を拒否したゴンクール賞に対抗して創設された権威あるフェミナ賞の推進者の一人であり、1904年には同賞第一回の審査員を務めている。その姿は印象的だった。ズボンに仕立ての良いジャケット、そして真っ白なペルシャ(細平布)のシャツという出で立ちである。