「ローマ皇帝ティトゥスはなぜユダヤ人をユダヤから追放したのか」という問いには、まず重要な訂正が必要です。古代の史料には、ティトゥスがユダヤ人をユダヤ地方から追放したという記録は存在しません。ティトゥスが実際に行ったのは、紀元70年のユダヤ戦争(第一次ユダヤ・ローマ戦争)におけるエルサレムの攻略と第二神殿の破壊です。この二つはしばしば混同されますが、まったく別の出来事です。
ティトゥスが実際に行ったこと――エルサレム陥落(紀元70年)
当時の皇太子であったティトゥスは、父ウェスパシアヌス帝からユダヤ戦争の指揮を引き継ぎ、紀元70年にエルサレムを包囲しました。数か月に及ぶ激しい攻城戦の末、市は陥落し、ローマ軍によって第二神殿は焼き払われ、完全に破壊されました。ユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』によれば、多くの住民が殺され、生存者の一部は奴隷として売られたと伝えられています。
ただし、これは「ユダヤ全土からの追放令」とは異なります。エルサレム陥落後も、ユダヤ地方にはユダヤ人コミュニティが存続し続けました。
なぜ「追放」という誤解が広まったのか
ティトゥスの行為が「追放」として語られる背景には、いくつかの要因があります。
- ディアスポラ(離散)の拡大: 戦争による死者、奴隷化、逃亡によってユダヤ人の離散がさらに進みました。しかしこれは結果としての分散であり、公式な追放令ではありません。
- 宗教的中心地の喪失: 神殿の破壊はユダヤ教とユダヤ社会の在り方を根本から変え、後世の記憶に強烈な印象を残しました。
- ハドリアヌス帝の政策との混同: 約60年後のバル・コクバの乱(132〜135年)鎮圧後、ハドリアヌス帝がユダヤ人に対し、アエリア・カピトリナと改称されたエルサレムへの居住を禁じたことは史実として知られています。この政策がティトゥスの行為と結び付けられて語られやすいのです。
ユダヤ属州のその後
エルサレム陥落後もユダヤ属州にユダヤ人は住み続けましたが、132年にバル・コクバの乱が勃発しました。ローマ軍による徹底的な鎮圧の後、ハドリアヌス帝はユダヤ人のエルサレム居住を禁じ、属州名を「シリア・パレスティナ」へと改めました。ユダヤ人社会にとって「追放」に最も近い措置が実施されたのは、実はこの時期なのです。
まとめ
ティトゥスはエルサレムを陥落させ、多くのユダヤ人を殺害・奴隷化しましたが、「ユダヤからユダヤ人を追放した」という記録は存在しません。ユダヤ人に対する居住禁止などの厳しい政策を実施したのは、後のハドリアヌス帝です。この区別を正しく理解することが、古代ユダヤ史とユダヤ・ローマ関係を把握する第一歩となります。