半世紀前には投票権を手にし、その30年前には地方政治に揺さぶりをかけたアフガニスタンの女性たち。なぜ彼女たちは基本的な権利を失ってしまったのか?そして、すべての責任は本当にタリバーンにあるのだろうか?
「女性に対する暴力は、アフガニスタンにおいて常に存在してきました」。1997年、アフガニスタン女性ネットワークのメンバーたちはそう記している。「暴力はアフガニスタン女性の日常茶飯事であり、民族間や政治的な衝突、集団間の対立が起きるときにはさらに激化します」。
実際、20世紀の頻繁な政権交代と脆弱な統治は、間違いなくアフガニスタン女性にとって不利に働いた。統治者の関与によって女性の運命が改善されるかに見えた瞬間は何度もあった。しかしそれは、いつも長続きしなかった。

最初の改革
19世紀末に支配したアミール・アブドゥルラフマーン・ハーンによって始まった改革の第一波は、1920年代に頂点を迎えた。国王アマーヌッラー・ハーンの数々の施策により、アフガニスタン女性の法的地位は、ある面では当時のポーランド女性よりも優れていたほどだった。
アマーヌッラーにとって、女性の権利を定める法律は、西洋基準による国家近代化の一環だった。王妃ソラヤ・タルズィーは素顔で公衆の前に現れ、政府の教育大臣に就任した。国王は女子教育を推進し、結納金の制限、幼児婚の禁止、部族間紛争の解決策としての伝統的な「女性の交換」の廃止を目指した。
しかし、アマーヌッラーの成果は長く続かなかった。範囲も限定的だった。変化を実感できたのは、実際にはカーブルに住む女性たちだけだったからだ。望まぬ改革と国王が課す負担への抗議は地方で拡大し、早くも1929年、進歩的な君主は退位を余儀なくされ、国外へ去った。後継者ハビーブッラー2世は、わずか9ヶ月の統治の間に、女性の地位向上に関する法律をほぼすべて撤回してみせた。
控えめな改革が再開されたのは、ムハンマド・ダーウードが首相を務めたザーヒル・シャーの時代になってからだった。アマーヌッラーが直面した反発を考えれば、1950年代まで踏み切れなかったのも無理はない。ダーウードは小刻みな前進の戦略を選び、まず国内で最も自由主義的な都市である首都で改革を「実験」した。アフガニスタン史研究者トーマス・バーフィールドは、このプロセスを次のように描いている。
「(ダーウードの手法の)最良の例は、女性の顔を覆う義務の撤廃だった。……布告を出すことも啓発的な議論を起こすこともせず、ダーウード首相は王室や閣僚の夫人たちに、1959年の独立記念日パレードで誰の目にも触れる審査員席に、顔を出して座らせただけだった」
第二の波
ダーウードが既成事実という手法で導入した変化は、かなり限定的なものだった。それでもザーヒル・シャー国王の治世下で女性の状況は着実に改善していった。職業活動が活発化し、1964年には参政権を獲得する。しかし、真の革命が訪れたのは1978年、王制崩壊後のことだった。クーデターにより、ソ連の支援を受けた共産党アフガニスタン人民民主党(PDPA)が権力を握ったのである。
新政権の指導者たちは直ちに、生活のあらゆる領域に及ぶ急進的な改革に着手した。軍事的優位を確信していた彼らは、1920年代のアマーヌッラーすら上回る先進的なプログラムを打ち出した。女性の権利は布告第7号によって規定された。男女平等の宣言、花嫁側に支払われる結納金の廃止。女子の結婚年齢は16歳に引き上げられ、結婚は当事者同士の相互同意があって初めて成立することになった。

かつてと同じく、改革の急進性は社会の一部から猛烈な反発を招いた。PDPA支配に対する反乱が勃発し、政権は以後、ほぼ完全にソ連軍の力に依存することになる。10年の介入の末、ソ連が軍を撤退させると、原理主義勢力ムジャヒディーンが急速に台頭した。1992年のカーブル陥落は、女性にとって再びの転換点となった。彼女たちの状況は劇的に悪化した。そして1996年、タリバーンが権力を握ると、事態はさらに悪化しうることが明らかになった。
三重の抑圧?
原理主義者たちが施行した法律は、極めて抑圧的だった。タリバンのイデオロギーは、超保守的なイスラーム解釈と部族の慣習規範を混ぜ合わせたものだった。新規制は女性の移動の自由を制限し、教育を受ける権利と職業に就く権利を剥奪した。医療へのアクセスも遮断された。男性医師の診察は許されず、一方で女性医師の開業は禁止されていたからだ。公共の場では、なんとヒールの音や女性の笑い声まで禁じられた!
抑圧的な法律が廃止されたのは、アメリカの介入後のことだった。しかし、原理主義政権崩壊から15年以上が経っても、アフガニスタンの状況は依然として満足のいくものではなかった。2011年、トムソン・ロイター財団はこの国を「女性にとって最も危険な国」に認定している。財団のデータによれば、アフガニスタン女性の87%が読み書きのできない状態だった。

出産時の高い母体死亡率や、強制結婚を余儀なくされる女性・少女の数を扱った報告書の数字も、同様に衝撃的だった。「過去12年間、貧しい普通のアフガニスタン人の生活には何の変化もありませんでした」と、戦争から立ち直りつつある国での暮らしを綴るアフガニスタン人女性ノルワンは認める。「女性は今も家庭内暴力の犠牲者です。子どもたちは、7歳の子どもさえも、街頭で物乞いをし、家計を支えています」。
なぜ改革は失敗したのか
過去の大胆な改革計画が挫折した理由は数多くある。第一に、アマーヌッラーもPDPA共産主義者たちも、あまりにも多くを、あまりにも急激に変えようとした。紛争国における女性の状況を研究するジュリー・A・マータスは、1970年代の変化についてこう述べている。
「変化は急進的で、農村コミュニティとの協議なしに、時に強制的に実施されました。村々に読み書きを教えに来た行政職員は、時に女性たちを男性と同じ教室に入れました。こうした極端なやり方は反対派を刺激し、多くの地方住民がPDPAに対する武装抵抗に立ち上がったのです」
導入された変化は、概して範囲が広すぎた。それらは女性の権利の問題をはるかに超え、社会生活の全体を根本から作り変えようとする試みだった。しかも、しばしば宗教的神聖性に真っ向から抵触した。アフガニスタンの西洋化を掲げたアマーヌッラーは、例えば伝統的なアフガニスタンの信仰形態そのものとの闘いさえ始めたのである。バーフィールドによれば、彼の狙いは「無知で自己中心的な聖職者たちが支えていると彼が主張した、民間の儀礼、伝統的なタブー、偏見を一掃し、アフガニスタンのイスラームの実践を浄化すること」だったという。

その見返りにアフガニスタン人に提示されたのは、外国のお手本だった。1920年代には西洋式の秩序が押しつけられ、1970年代にはソ連型のモデルが輸入された。カーブルでは受け入れられたものの、中央政府から高度に独立していた農村コミュニティはこれを拒んだ。
タリバーン運動は、まさに無神経で傲慢な近代化への反動として理解することができる。彼らはアイデンティティの喪失を恐れたのだ。「近代的価値観、特にジェンダーの役割に関する価値観は、相手がイギリス人であれロシア人であれ、外国の帝国主義者と同一視されてきました」と、シャイスタ・ワハブとバリー・ヤンガーマンは指摘している。
最後に、改革計画は国家の不安定さと数多くの外部介入によっても妨げられた。イギリス、ソ連、アメリカは自国の目的のためにアフガニスタンを利用し、その行動が国内の均衡に与える破壊的な影響を顧みなかった。その極めつけの例が、1928年のイギリスの工作である。

イギリス人はアフガニスタンの農村部に、ヨーロッパ旅行中の国王夫妻の写真をばら撒いた。伝統的な精神性の視点から見れば、それは衝撃的なものだった。王妃が素顔で歩き、見知らぬ男性が彼女の手にキスをしている写真だったのだ。これはアマーヌッラー支配への反対感情を一層強める結果となった。
「政治的、経済的、共同体的な危機の時代、家族は女性に対する管理を強め、国家的・社会的抑圧と女性に対する暴力が増大します」。1997年、アフガニスタン女性ネットワークのメンバーたちはそう書いた。歳月が流れ、政権が交代しても、この言葉は色褪せていない。改革の成果を持続させるためには、穏健で安定した統治が必要だ。そして何より、平和が必要なのである。
出典・参考文献
本記事は、レイエス・モンフォルテの小説『愛のブルカ』に着想を得ている。タリバーン支配下の国で生きることを余儀なくされたスペイン人女性の感動的な物語(WAM出版、2017年)。