歴史物語

ロンメル暗殺を狙った英特殊部隊――「フリッパー作戦」の壮絶なる失敗

戦局を変えうる一撃――大攻勢前夜の特殊作戦

1941年11月、北アフリカでの大規模な砂漠攻勢を目前に控えたイギリス軍は、最精鋭のコマンド部隊を投入した。第11コマンド部隊(スコットランド・コマンド)に与えられた任務は、第三帝国軍で最も危険な指揮官と目されたエルヴィン・ロンメル将軍の捕獲、あるいは殲滅である。

「私はまた汚れ仕事のために泳ぎながら、この言葉を書いている。決して容易な任務ではないだろう。これは私の仕事であり、私と私の部下たちの義務だ。生きて帰れる見込みはいくらかある。もしこの手紙が君に届いたなら、それは私が戻らなかったということだ……」

こう記したのは、潜水艦HMSトーベイ号の艦内にいたジェフリー・キース中佐である。わずか24歳の若いイギリス士官は、極めて危険な任務を帯びたコマンド部隊を指揮していた。その標的は、アフリカ軍団司令官ロンメル将軍――有名な「砂漠の狐」――の誘拐か排除である。さらにコマンド部隊には、イタリア軍司令部への攻撃と、電話・電信網の切断も命じられていた。

几帳面なイギリス式の準備

ロンメル暗殺を狙った英特殊部隊――「フリッパー作戦」の壮絶なる失敗

ロンメルの捕獲あるいは殺害を指揮したジェフリー・キース中佐。

作戦には「フリッパー」というコードネームが与えられ、実行日は1941年11月18日から19日にかけての夜と定められた。偶然選ばれた日付ではない。11月18日こそ、イギリス第8軍による大反攻(クルセーダー作戦)が開始される日だったのだ。その主目的はトブルクの包囲解除にある。コマンド部隊の活用という発想は巧妙だった。決定的な瞬間に敵軍から指揮官を奪い、指揮系統に大混乱を引き起こそうというのである。

投入されたのは、将校6名と兵士53名からなる第11コマンド部隊(スコットランド・コマンド)。当時、中東に存在した唯一のこの種の部隊であった。全体の指揮はロバート・レイコック准将が執り、主任務を遂行する突撃隊の指揮はキース中佐が担った。

11月の上陸

コマンド部隊は11月10日、アレクサンドリアから2隻の潜水艦――HMSトーベイ号とHMSタリスマン号――に分乗して出航した。3日後の朝、両艦はリビア沿岸に到達する。諜報情報によれば、ロンメルの司令部は海岸から約17キロ内陸に入った村ベダ・リットリアに置かれているはずだった。ただし、上陸は日暮れまで待たねばならなかった。

ジェフリー・キース率いる24名の突撃グループが最初にHMSトーベイ号から上陸することになっていた。次いでタリスマン号からは、近郊のキレニアとアポロニアにあるイタリア軍キャンプを攻撃する2つの部隊が降り立つ予定だった。またタリスマン号にはレイコック准将も乗り込んでおり、計画では後方と退路の確保に当たることになっていた。

ロンメル暗殺を狙った英特殊部隊――「フリッパー作戦」の壮絶なる失敗

HMSトーベイ号。「フリッパー作戦」のためコマンド部隊を輸送した2隻の潜水艦のうちの1隻。

上陸地点を選定したのは、イギリス軍情報将校ジョン・ヘイズルデン中尉である。エジプト生まれでアラビア語に堪能なこのイギリス人は、ベドウィンの衣装をまとい、しばしば独伊両軍の防衛線を単身で横断していた。

彼のおかげで、ロンメル司令部の位置と警備部隊の配置を特定することができた。そしてその暗く嵐の吹き荒れる11月の夜、彼は事前に取り決めた合図を懐中電灯で送り、上陸の安全を確認したのだった。

苛烈きわまる夜

コマンド隊員たちはゴム製のポンツーン、いわゆるディンギーで岸へ向かうことになっていた。しかし気象条件は非常に厳しかった。強風が吹き荒れ、高波が容赦なく襲いかかる。こんな状況での上陸はまさに至難の業である。結局、すべてのポンツーンはトーベイ号の甲板から下ろされたものの、タリスマン号からはレイコック准将率いるわずか9名しか岸に上がれなかった。海岸に集結できたのは、合計33名であった。

兵力が想定より少なかったため、レイコックとキースはイタリア軍キャンプへの攻撃を断念し、主任務のみに集中することを決めた。時間は迫っており、イギリス軍の攻勢開始前にロンメルを仕留めねばならなかった。

キース率いるコマンド部隊は、ヘイズルデンとアラブ人案内人の先導で内陸へと進んだ。レイコックは3名とともに海岸に残り、タリスマン号の残りの兵士が再上陸を試みることに期待を賭けた。彼はその際、キース隊の支援として彼らを率いるつもりであった。

計画の変更

ベダ・リットリアへの行軍は、激しい雨の中で続いた。コマンド隊員たちは昼間に眠り、夜間に行軍する生活を48時間にわたって繰り返した。11月17日の昼間は、ベダ・リットリアから8キロ離れた洞窟で過ごした。夕暮れ、彼らは完全な闇の中を出発する。ところが偶然出会ったアラブ人から、ロンメルはベダ・リットリアではなく近くのシディ・ラファに滞在していると聞かされたのだ。計画の修正を余儀なくされた。

ロンメル暗殺を狙った英特殊部隊――「フリッパー作戦」の壮絶なる失敗

ロバート・レイコックとその部下たちは、ロンメル司令部を攻撃するコマンド部隊の後方と退路を確保した(出典:wikimedia commons、パブリックドメイン)。

突撃隊が現地に到着したのは真夜中過ぎだった。村の400メートル手前で、ロイ・クック中尉率いる6名のグループが主力から分離した。その任務は電話線と電信線の切断である。キースは残りのコマンド隊員を率いて、ロンメルとその幕僚が宿泊しているはずの白い石造り2階建ての建物へと向かった。

眠っている犬を起こすな!

接近の途中、部隊はあわや発見されかけた。隊員の一人がうっかりブリキ缶を蹴飛ばし、近くにいた犬が激しく吠えたてたのだ。民家の一つの扉が開き、イタリア領リビア・アラブ部隊の制服を着た将校が姿を現し、何事かと尋ねた。キースの副官ロビン・キャンベル大尉が応対した。彼はドイツ語で、自分たちはドイツ軍の巡視隊だと説明し、犬を黙らせるよう命じた。相手の将校は「グーテ・ナハト(おやすみなさい)」と言って引き取った――そして本当に、その通りになったのである!

真夜中ごろ、コマンド隊員たちは敷地を囲む金網に穴を開けて、ロンメルの邸宅と目される建物に忍び込んだ。キース中佐は正面玄関に一人立つ衛兵を音もなく始末した。イギリス隊員たちは、家の中の明かりがすべて消えるのを待った。

ロンメル暗殺を狙った英特殊部隊――「フリッパー作戦」の壮絶なる失敗

現在のベダ・リットリアの写真。ここにロンメルの司令部があるとされていた(出典:wikimedia commons、パブリックドメイン)。

不運な突入

突入したのは、キース中佐、キャンベル大尉、ジャック・テリー軍曹ほか3名のコマンド隊員。残りは建物の窓や扉、そして周辺への接近路を警戒した。キースがドアをノックすると、キャンベル大尉がドイツ語で入れてくれと要求した。衛兵がドアを開けた。キースは拳銃を向けたが、ドイツ兵は中佐の手にある銃を見るや銃身をつかみ、奪い取ろうとした。もみ合いとなり、キャンベルがトンプソン短機関銃の一斉射撃で決着をつけた。衛兵は殺されたが、コマンド部隊は最大の武器である奇襲効果を失ってしまった。

ロンメル暗殺を狙った英特殊部隊――「フリッパー作戦」の壮絶なる失敗

ジャック・テリー軍曹は、ロンメルがいるとされる建物に突入した一人だった。

建物の中でロンメルを探すイギリス隊員たちは、部屋の「掃討」を始めた。短機関銃の乱射と手榴弾で部屋を一掃していく。ある部屋には少なくとも10名のドイツ兵がいた。キースはキャンベルの援護のもと手榴弾を投げ込もうとした瞬間、室内から短機関銃の弾丸が浴びせられた。中佐は心臓をまっすぐに撃ち抜かれたのだ。テリーとキャンベルは指揮官を引きずって退き、手榴弾が爆発する直前にドアを閉めた。ほどなくキースは絶命した。同時に外でも銃声が響き渡った。残りのイギリス兵たちは、駆けつけるドイツ軍増援と交戦していた。

数分後、キャンベル大尉は味方のコマンド隊員の誤射を受けて負傷した。脚にひどい裂傷を負った彼は、テリー軍曹に指揮を委ね、建物の前に爆薬を設置して撤退するよう命じた。彼自身は捕虜となることを受け入れ、仲間に救命の海岸へ運ばせることは拒んだのだった。

撤退

撤退は、空から降り注ぐ土砂降りの雨の中で行われた。指揮官の死と未達成の任務に打ちひしがれたコマンド隊員たちは、キャンベル大尉を残して17時ごろ、海岸へと重い足取りで向かった。そこでは心配の色を濃くしたレイコック准将との合流があり、作戦の経過が報告された。イギリス隊員たちは近くの洞窟に身を潜め、潜水艦を待った。

実際に時間通りに到着したのはHMSトーベイ号だけだったが、荒れた海のため甲板からディンギーを下ろすことができなかった。潜水艦は翌晩に再試行すると信号を送った。

ロンメル暗殺を狙った英特殊部隊――「フリッパー作戦」の壮絶なる失敗

スコットランド・コマンドの兵士たち。「フリッパー作戦」は完全な失敗に終わり、生還者はごくわずかだった。

しかし残念ながら、撤退は実現しなかった。日中、地元のアラブ人によって先に通報を受けたイタリア軍とドイツ軍の部隊が、イギリス隊員たちを包囲したのである。レイコック准将は抵抗の無益さを悟り、コマンド隊員たちを2、3名ずつのグループに分け、自軍の陣地めざして砂漠を突破するよう命じた。

死、捕虜、そして……シャンパンの誕生日

ロンメル暗殺を狙った英特殊部隊――「フリッパー作戦」の壮絶なる失敗

成功したのはわずか2名だった。レイコック准将とテリー軍曹は、41日間に及ぶ砂漠行軍の末に自軍の陣地へたどり着いた。他に姿を現した者はいない。残りは戦死するか、捕虜になるかした。ジェフリー・キース中佐はその勇敢さに対して、死後にヴィクトリア十字章を授与された。コマンド隊員がこの最高の勲章を授けられたのは、これが初めてであった。

では、エルヴィン・ロンメルはどうだったのか? 実は彼はシディ・ラファにもベダ・リットリアにもいなかった。彼の宿営地はもっと前線に近い場所にあった。それどころか問題は、彼がそのときアフリカにすらいなかったことである。ロンメルはローマにおり、妻とともに11月16日の誕生日を祝い、イタリア同盟国と今後の作戦計画について協議する予定だったのだ。ヘイズルデン中尉の情報収集は、完全に外れていたのである。