エトルリア人(ラテン語では Tuscii)は、ローマ王政期以前に、イタリア半島中部、ほぼ現在のトスカーナ州とラツィオ州北部にあたる「エトルリア」と呼ばれる地域に住んでいた古代民族です。隣接するギリシャ人たちは彼らを「テュッレーノイ(Tyrrhenoi)」、すなわちテュレニア人と呼びましたが、彼ら自身は自らを「ラスナ(Rasna)」と称していました。そして、ギリシャ文字をもとにわずかに改変された彼らのアルファベットこそが、私たちが今日目にしているラテン文字の源となったのです。
起源
エトルリア人の起源については、伝承こそあれど確かなことは何も分かっていません。歴史家ヘロドトスに代表される伝承によれば、彼らは小アジアのリディアから、トロイア滅亡後の混乱の中でトスカーナへ移住したとされます。これに対しリウィウスが支持する別の伝承では、逆に北方からやって来たとされ、さらにハリカルナッソスのディオニュシオスは土着民族であると主張しました。歴史学者たちの見解は時代によって揺れ動いてきました。
おそらくは三つの説のそれぞれに一理あると考えられます。原住地における戦争後の飢饉などの動乱、あるいは後にエトルリアとなる土地の鉱物資源への魅力により、高度な文明を持つ集団が小アジアからトスカーナへ移住したという事実はあったのでしょう。これは、紀元前8世紀から7世紀にかけてのエトルリア文明の突如としての誕生(いわゆる「東方化」時代)や、エトルリア人の習俗・言語・芸術・宗教にエーゲ海〜アナトリア世界との類縁性が数多く見られることの説明となります。
一方で、女性に関する習慣はまったく異なっていました。エトルリア人の場合、女性も男性と共に宴席に参加していたことが知られています。同時代のギリシャ人にも、その後のローマ人にも見られない特異な風習です。
※図版:エトルリアの女性像、テラコッタ製、紀元前2世紀、キウージ出土、カールスルーエ所蔵
このギリシャ・ローマ世界には存在しなかった女性の高い地位について、「先取りされた女性解放」と見なす論者もいましたが、今日ではむしろ、新石器時代のアナトリア文化に存在した前母権制の名残だと考えられています。同じ時期に父権制が形成され、古代ギリシャ文明において結晶化していったのです。実際、このエトルリアの慣習は、南イタリアの「マグナ・グラエキア」に属するギリシャ人には強い反発を受け、商業上の競争と相まって、両民族の対立の一因となりました。
トスカーナにおいて、これらの東方からの集団(明らかに少数派でした)は、ヴィッラノーヴァ文化の担い手たちと合流しました。鉄の使用に既に熟練していた彼らは、それ以前に北方から、あるいはアドリア海の対岸のドナウ平原からやって来て、紀元前1千年紀の初めには既にイタリア半島に定着していました。そこで彼らは、新石器時代、おそらくは旧石器時代以来この地域に住み着いた真の先住民——サルデーニャ島にヌラーゲを築いたヌラーゲ文化の人々と同時代の地中海系住民——と混交していました。要するに、エトルリア人は東方系・北方系・先住民という三つの民族的要素の融合によって生まれた新しい民族でありながら、決して強固な政治的統一を達成することはできなかったのです。
言語
エトルリア語は、ギリシャ文字に由来し、のちにラテン文字の着想を与えることになったアルファベットを使用していました。インド・ヨーロッパ語族以外の起源に属すると考えられており、未だ完全には解明されていません(判明しているのは約700語のみです)。詳細は「エトルリア語」「エトルリア文字」関連の項目をご参照ください。
宗教
この古代民族の日常生活において、宗教と無関係なものは何ひとつありませんでした。そのため、卜占師の団体「ハルスペクス(臓卜)の会」が設けられ、鳥占いや前兆、雷などの気象現象を解釈して吉兆を読み取る役割を担っていました。これらの解釈が吉か凶かによって、神殿をはじめとする建物の奉献、さらには都市の建設さえも左右されたのです。こうした活動はすべて極めて厳密な儀礼に従って行われ、その内容はエトルリア固有の学問体系「ディシプリナ・エトルスカ(Disciplina etrusca)」の諸文書に記録されていました。
芸術
この文明が生み出した芸術はきわめて豊かです。エトルリア人は熟練した職人であり、優れた芸術家たちを輩出しました。タルクイーニアの墓室壁画に代表されるフレスコ画家、壺絵師、そして青銅でもテラコッタでも真の傑作を残した彫刻家たちです。また彼らは優れた宝石細工師であり、有能な冶金技術者でもありました。その作品はフィレンツェ、バチカン、ヴォルテッラなど、イタリアの主要な博物館で観ることができます。
隆盛と衰退
エトルリア文明の繁栄と拡大は、紀元前6世紀半ば頃に頂点に達しました。紀元前535年、エトルリア人はカルタゴと同盟し(この関係を指して「エトルリア・カルタゴ連合」という表現を使う歴史家もいます)、コルシカ島沖のアラリア(アレリア)の海戦で、マッサリア(現在のマルセイユの原型となったギリシャ植民市)のフォカイア人を破り、西地中海の覇権を巡る争いを制しました。
しかしエトルリアの拡大は同世紀末に足止めされ、紀元前5世紀には衰退の時代を迎えます。最初にエトルリア支配から脱したのはローマで、紀元前509年頃タルクィニウス一族を追放しました。続いてラティウム全体が、クーマエのアリストデモスの助力を得て、紀元前506年のアリキアの戦いで解放されます。こうしてカンパニアに残されたエトルリアの橋頭堡は孤立し、紀元前474年のクーマエ沖海戦の敗北で弱体化、紀元前423年にカプアがサムニウム人に征服されて完全に失われました。北方では、紀元前5世紀初頭のガリア人の侵入により、ポー平原のエトルリア都市群が破壊されました。紀元前396年、ローマはウェイイを征服し、南エトルリア全域に影響力を及ぼすようになります。
その後二世紀以上にわたり、エトルリア人は都市ごとに主導権を交代させながら、ローマの拡張に対抗して戦い続けました。しかし紀元前295年、ウンブリア人、ガリア・キサルピナ人、サムニウム人と同盟を組んだにもかかわらず、センティヌムの戦いで敗北します。以後数十年のうちに彼らは完全にローマに服属し、個別の条約によってイタリア半島の「同盟者」の一員とされ、ついに紀元前90〜88年の同盟市戦争(社会戦)においてローマ市民権を与えられることとなりました。
遺産
政治的自治を失った後も、エトルリア人はその後長く、イタリアにおいて文化的・宗教的・芸術的な大きな影響力を保ち続けました。アウグストゥス帝のもとでエトルリアはイタリア第七行政区とされましたが、ローマは制度、生活様式、言語、趣味嗜好、贅沢や華やぎ、宴、舞踏や音楽への愛好といった面で、エトルリアからの強い影響を受けていました。墓室壁画に見られるエトルリア人の美意識は、富裕層という人口のごく一部の嗜好を物語るものではありますが、確かな証左です。皇帝クラウディウス自身、エトルリア文化の専門家でした。そしてエトルリア民族の創造的精神——卓越した職人技と深い技術——は、何世紀もの時を経て、ルネサンス期のトスカーナに再び花開くのです。