歴史物語

古代のスターリングラード――アレクサンドロス大王「テュロス包囲戦」の全貌

古代最大級の激戦、その実態とは

古代における最も凄惨な戦いの一つであり、アレクサンドロス大王の最も輝かしい勝利の一つとされるのが「テュロス包囲戦」です。両軍が見せた創意工夫は、現代の指揮官でさえ驚嘆するほどでした。この包囲戦では、工兵部隊や上陸用舟艇、さらには水中で活動する「戦闘ダイバー」までもが投入されたのです。

イッソスの戦いでペルシア王ダレイオス3世の軍を破ったアレクサンドロスは、地中海沿岸を進军しエジプトへと向かいました。途上の都市トリポリ、ベイルート、シドンなどは戦わずして降伏しました。マケドニアの支配者の主権を認め、課された貢納を支払うことと引き換えに、征服者は現地の法律と既存の行政制度を尊重したのです。

降伏を拒んだ要塞都市テュロス

紀元前332年1月、アレクサンドロスの軍勢は古代有数の堅固な要塞都市テュロスの城壁前に到着しました。しかし、ここで勝ち誇る大王は予想外の拒絶に直面します。市民たちは彼への服従を拒み、「ペルシア・マケドニア間の戦争が続く限り中立を保つ」と宣言したのです。

激怒したアレクサンドロスは和平交渉のための使節を市に送りましたが、自らの城壁の力を過信していたテュロス側は、マケドニア征服者の使節を兵士たちの目の前で殺害してしまいます。これにより包囲陣は大混乱に陥りました。当初は強襲に消極的だった兵士たちも、今や復讐を望むようになったのです。それはまさに大王が狙っていた心理効果でもありました。

古代最強の要塞

当時のテュロスは二つの部分から構成されていました。一つは本土側に位置する「旧テュロス」。もう一つは海岸から約800メートル沖合に浮かぶ、直径約3キロメートルの岩の島です。主な抵抗拠点とフェニキア艦隊の基地は島に置かれ、守備兵力は住民と兵士合わせて約3万5千人、港には80隻の軍船が停泊していました。

高さ45メートルにも達する城壁が海面からそびえ立ち、その接近路は数多くのカタパルトや弩砲、さらに飛来する投射物を破壊する回転車輪型の装置によって防御されていました。梯子や破城槌といった当時の常套手段で、この要塞を攻略することは不可能でした。何らかの奇策と、当時アレクサンドロスが持っていなかった艦隊が必要だったのです。

伝えられるところによれば、マケドニアの司令官自身が潜水鐘を用いて要塞の水中防備を視察したといいます。おそらくこのとき、城壁へと通じる堤道を築くという発想が生まれたのでしょう。包囲軍は直ちに行動を開始しました。

工兵部隊は、占領後に解体した旧テュロスから得た石材や瓦礫を使用します。内陸部からは木材が運ばれ、さらに工期の短縮のため、数千人もの地元住民が強制労働者として工事現場に動員されました。

巨大堤道の建設

完成時の堤道は幅約60メートルに達する予定でした。アレクサンドロスは可能な限り広い正面からの攻撃を望んでいたのです。要塞から雨あられと降り注ぐ矢石の中で作業する兵士を守るため、二基の大型攻城塔の建造も命じました。

塔の頂上部からは射手や投石兵が要塞の守備隊を攻撃できました。さらに、長い先端に石製の頭部を備えた巨大な破城槌も建造され、城壁を突き崩すために使われるはずでした。

一方、テュロス側の行動は単なる射撃にとどまりませんでした。守備隊は幾度も城壁外へ出撃し、敵を悩ませ続けます。中には8隻の軍船を送り出し、堤道の両側で作業する労務者や兵士を艦砲射撃した例もあり、多くの人命が失われました。

こうした血まみれの損失にもかかわらず、建設は進み、堤道はテュロスの城壁へと近づいていきました。これに対抗してマケドニア軍は、皮革や布のカーテンで投射物から身を守るようになりました。

テュロスの反撃

そこでテュロスの守備隊は、堤道そのものを破壊することを決意します。火攻め船として使用されたのは、おがくず、タール、硫黄などの可燃物を満載した馬運搬船でした。フェニキアの三段櫂船2隻がそれを曳航して、マケドニア軍の建造物へと向かいました。

船は加速し、衝突寸前で曳航していた2隻は左右に離れます。火攻め船の少数の乗員は火をつけて海へ飛び込みました。猛スピードで突っ込んだ浮遊爆弾が堤道に炸裂し、構造物の木造部分に炎が燃え広がったのです。二基の攻城塔もろとも焼失しました。

その間に、曳航役を終えた三段櫂船は再び戻ってきました。消火活動をするマケドニア兵たちへ、甲板から弓兵が容赦なく矢を放ちます。さらに小型艇の小艦隊が密かに近づき、付近に係留されていた上陸用舟艇2隻を破壊しました。一隻は建材を運ぶ搬送者を斬り倒し、もう一隻は残りの攻城兵器を焼き払ったのです。

この出来事を受けてアレクサンドロスは、自前の艦隊なしには守備隊の抵抗を打ち破れないと結論づけました。彼は陣営を離れ、以前から服従しており艦船を保有するフェニキア諸都市、とりわけシドンへ向かいます。キプロスも海上部隊を派遣しました。短期間のうちにマケドニア軍は約200隻の艦船を集めたのです。

総攻撃への準備

マケドニアの工兵たちは特殊な浮遊式の破城槌を建造しました。また、一部の船は突撃上陸用の舟艇へと改造されます。船上には城壁に掛ける鉤爪付きの平台が設けられ、これを使ってアレクサンドロス直属の精鋭護衛部隊が要塞へ突入する計画でした。その他、カタパルトで武装した船が守備隊を牽制する役割を担いました。

港の入り口は攻撃側の艦隊によって封鎖されました。それでもテュロスの船は時折、気づかれることなく海上に出て、マケドニア艦船を悩ませることができました。

テュロスの兵たちは防盾で覆った船で三段櫂船に接近し、錨綱を切断することで、敵船の投錨を妨げた。
そこでアレクサンドロスは、同様に防盾で覆った三十隻の船を錨の前に対配置した。(……)しかし今度は、水中のダイバーたちによって再び錨綱を切断されてしまった

まさに古代版の「戦闘ダイバー」による攻撃です。守備隊の創意工夫は尽きることがありませんでした。

大王の勝利

包囲戦の間、自然は二度にわたりマケドニア軍に牙を向けました。一度目は嵐が堤道に大きな損傷を与え、二度目は嵐が艦船を四散させたのです。しかしアレクサンドロスは動じませんでした。そしてついに堤道が完成する日が訪れます。紀元前332年7月のことでした。

総攻撃の前、アレクサンドロスは兵士たちに数日の休息を与えました。攻撃は、先行する砲撃で弱っていた箇所を集中的に砲撃することから始まりました。弓兵と投石兵を満載した船隊が島の周囲を巡回し、必要な場所ならどこへでも上陸部隊を支援できる態勢が敷かれたのです。

しかし劣勢に立たされてもなお、テュロスの守備隊は敵にもう一つの不快な驚異を用意していました。それは古代版ナパームとも呼ぶべき、小石を混ぜた灼熱の砂です。頭上から降り注ぐ熱砂は攻撃者の鎧の隙間に入り込み、視界を奪い、広範な火傷を負わせました。

だが、もはや何もテュロスを救うことはできませんでした。ついに要塞の城壁の一部が崩落します。上陸用舟艇に乗ったアレクサンドロスの護衛兵たちが突破口へ接近し、搭載橋を掛けました。マケドニアの支配者自身が攻撃隊を率いたのです。市街の狭い通りは、住民の血で流れに染まりました。

この戦いで約6千人の守備兵が命を落としました。武器を執ることのできた若者2千人は、今後この勝利の指導者に抵抗しようとするすべての者への警告として、浜辺で磔刑に処されました。また、残りの住民2万7千人は奴隷として売られたといわれています。

歴史家が「古代のスターリングラード」と呼ぶ理由

アレクサンドロス大王によるテュロス征服は、彼の最大の成功の一つとみなされています。特筆すべきは、彼が用いた革新的な兵器の数々です。上陸用舟艇の活躍や、これほどの規模での工兵部隊の投入は、むしろ20世紀の軍隊にこそ見られる特徴でしょう。

そして戦闘の性格と激烈さゆえに、歴史家たちはしばしばこの戦いを、第二次世界大戦中のスターリングラードやレニングラードの戦いになぞらえるのです。「古代のスターリングラード」と呼ばれる所以は、そこにあります。