古代の歴史

マチルダ II 歩兵戦車:イギリスが誇る「戦場の王者」の軌跡

マチルダ II 歩兵戦車:イギリスが誇る「戦場の王者」の軌跡

マチルダ II(Mark I〜V)諸元

形式歩兵戦車
乗員4名
主武装
  • Mark I:2ポンド砲、ヴィッカース .303機銃
  • Mark II:2ポンド砲、7.92mm BESA機銃
  • Mark II CS:3インチ榴弾砲、7.92mm BESA機銃
装甲厚最大78mm / 最小14mm
全長5.61m
全幅2.59m
全高2.51m
重量26.9トン
馬力/重量比7.17 hp/t(Mark III)
エンジン
  • Mark I/II:AEC 6気筒直列ディーゼル×2(計174馬力)
  • Mark III以降:レイランド 6気筒直列ディーゼル×2(計190馬力)
最高速度舗装路:24 km/h / 不整地:12.8 km/h
航続距離256 km
垂直障害物0.61m
塹壕超越2.13m
渡河深度0.91m
運用期間1939〜1945年(イギリス軍)、オーストラリア軍、ソ連軍でも使用

開発の経緯:マチルダ I からの脱却

マチルダ I(A11)がまだ試作段階にあった頃、陸軍省はすでに次期仕様の検討を開始していた。参謀本部の改訂要求は明確だった。「徒歩の歩兵を支援する戦車は、対戦車砲の直撃に耐える装甲と、敵歩兵・砲兵・戦車に対抗できる十分な口径の武装を両立しなければならない」と。

それまで機関銃のみで十分とされていたが、新仕様では本格的な火砲とそれを収容する大型砲塔が必須となった。最初はマチルダ I の車体に2人乗り砲塔と2ポンド砲を搭載する案も浮上したが、狭い車体幅では到底不可能で、すでに限界に達していたフォード V8 エンジンでは重量増に対応できなかった。要求重量14トン以内という制約も、A11 改修ではクリアできず、完全な新設計が必要となった。

設計と試作:A7 の系譜と鋳造技術の壁

プロジェクトはウールウィッチ兵工廠研究部門に託され、1932年式 A7 試作戦車をベースとした。強化されたサスペンションと、市販ディーゼルエンジン2基を連結した動力ユニットを採用。指定装甲厚を確保するには鋳造砲塔と車体前部が理想的だったが、1930年代半ばの英国工業界には大型鋳造品を量産できる企業が極めて限られていた。

結果として、他国が鋳造へ移行した後も英国戦車はリベット・溶接構造を長く余儀なくされた。しかしマチルダ II はついに主契約企業を見つける。ウォリントンのバルカン・ファウンドリが1936年11月に契約を獲得し、1937年4月に木製モックアップを完成。ウィルソン変速機の納入遅れで試作車(軟鋼製)が完成したのはさらに1年後、1938年冬の試験となった。試作車完成前から65両、続いて100両の発注が出されており、英国の再軍備の焦りが窺える。試験は概ね良好で、サスペンションと冷却系の微修正のみで済んだ。

量産の苦闘と初期配備

1938年、本格的な再軍備が始まる。戦車不足は深刻で、バルカン一社では賄えない。陸軍省はファウラー、ラストン・ホーンズビー、LMS鉄道工場、ハーランド・アンド・ウォルフ、ノース・ブリティッシュ・ロコモティブ・ワークスなど複数企業を動員した。バルカンは主契約者かつ鋳造部品の主要供給元として機能し続けた。

量産最大の難関は鋳造部品だった。装甲スカートを一体鋳造としていたのは、これまた大型鋳造品を必要とする不可解な設計だったが、側面の泥除けシュートを6個から5個に減らしたことで生産性は大幅に改善された。

1939年9月の開戦時、実戦配備されていたマチルダはわずか2両。しかし1940年春までには少なくとも1個大隊分が整備され、ダンケルク撤退戦と港周辺の防衛戦でその実力を示す。同時期、エジプト駐留の機甲部隊にも配備され、北アフリカでの対イタリア戦で初陣を飾った。

「戦場の王者」からの転落:北アフリカでの栄光と限界

ダンケルク後、マチルダ I は即座に見捨てられた。マチルダ II は兵士たちの間で単に「ザ・マチルダ」と呼ばれ、戦争末期までその名で通った。

1940〜41年のリビア戦役では、イタリア軍の保有するあらゆる対戦車兵器・装甲を貫通不能とし、ほぼ無敵を誇った。しかし1941年中盤、アフリカ軍団が88mm FlaK 高射砲を対戦車砲として投入すると状況は一変。マチルダの2ポンド砲が届かない距離から一方的に撃破されるようになり、前線から姿を消していった。砲塔が小さすぎて6ポンド砲への換装は不可能だった。本来の役割で戦った最後は、1942年7月の第1次エル・アラメイン会戦である。

車体構造と人間工学:英国流の合理と欠陥

車体は英国伝統の3区画構造。操縦手席は正面装甲板直後の中央に配置。車体機銃は省略されており、当時としては珍しかったが、実戦でほぼ役立たずという合理的判断だった。

重厚な鋳造砲塔は内部が狭く、車長・装填手・砲手の3名には居住性が劣悪だった。CS型(3インチ榴弾砲搭載)ではさらに窮屈だった。車長用キューポラは視野が限定的で、これが最大の弱点だったが、同時期の多くの戦車に共通する欠点でもあった。砲塔旋回にはフレイザー・ナッシュ製油圧装置を採用し、これは爆撃機の銃塔にも転用された先進技術だった。

携帯弾数:2ポンド砲弾67発、.303弾4,000発。2基のディーゼルエンジンはウィルソン遊星歯車変速機を介して前部スプロケットを駆動。サスペンションはA7譲りの「シザー式(日本式とも呼ばれる)」で、ボギーが連結し水平コイルスプリングで作用する。各ボギーに4個の転輪を2対ずつ配し、1懸架点に転輪4対、連結装置2組、スプリング2本、単一の垂直支持材で車体に固定される。各側にこのユニット2組、4輪ボギー1組、大径前部転輪1個という一見複雑な構成だが、信頼性は高く、最高速度を犠牲にした堅実な設計だった。

改良型と派生型:Mark III 以降と特殊車両への転身

Mark III 以降はレイランド ディーゼル(190馬力)を搭載し、生産数も最多となった。Mark V では変速機上部に空気サーボを追加し変速操作を軽減。これら細部の改良を除けば、設計は終始オリジナルに忠実だった。

エル・アラメイン前には「戦場の王者」の異名を取ったが、同会戦後はグラント、シャーマンの大量投入前に役割を終える。しかし頑強な装甲は捨てがたく、特殊任務車両への改造が進んだ。英国初のフレイル式地雷除去車としてエル・アラメインで実戦投入されたほか、ローラー式地雷除去、重爆薬運搬、架橋、ブルドーザー、火炎放射、CDL(運河防衛灯)夜間照明車、さらには無線操縦実験車まで多岐にわたった。

海外供与:オーストラリアとソ連での運用

オーストラリア軍は太平洋戦線でマチルダを投入し、日本軍陣地攻略に大きな成果を挙げた。ブルドーザー型も整備用として重宝され、戦後は1953年まで訓練用に保管された。

ソ連には少数がサンプルとして供与されたが、チャーチル戦車と同様、2ポンド砲を「装飾に近い」として評価しなかった。伝聞では雪中でサスペンションが凍結しやすいとの報告もあった。1945年までには専門車両含めグラント・シャーマン・チャーチルに置き換わった。補給体系も米戦車・重巡航戦車・チャーチル中心に再編された。

戦争全期を駆け抜けた唯一の英国戦車

4〜5年にわたる酷使でマチルダは明らかに摩耗し、再生産は採算が合わなかった。終戦時には少数が後方任務で残存するにとどまった。だが、マチルダは「第二次世界大戦の初日から最終日まで、第一線級戦車として戦い抜いた唯一の英国戦車」という稀有な記録を持つ。国籍を問っても、これに匹敵する戦車は極めて少ない。