世界史

古代の歴史

  • ユスティニアヌス帝の治世――ビザンツ帝国の礎を築いた皇帝の生涯と功績

    農民出身から皇帝へ――予期せぬ即位ユスティニアヌスは決して高貴な生まれではなく、当初は帝位に就くことなどまったく想定されていませんでした。ところが、彼と同じ農民出身の伯父ユスティヌスが、コンスタンティノープルで皇帝親衛隊「エクスクビトレス」の一員となったことが、運命を大きく変えます。伯父は甥に良い教育を受けさせるため、ユスティニアヌスを首都へ呼び寄せました。一方、皇帝アナスタシオス1世は後継者をほとんど定めていなかったため、ユスティヌスは思いがけず帝位に就くことになります。彼は権力を甥と分かち合うことを決め、ユスティニアヌスを養子として迎えました。こうしてユスティニアヌスは、伯父の死の時にはす

  • フランス革命の「恐怖政治(テロル)」とは?王政崩壊からロベスピエール処刑まで

    概要フランスは重大な政治的激動の渦中にあり、絶対王政の守護者であった国王は、次第に滅びゆく旧体制の象徴となっていった。1792年8月10日、サンキュロット(無套褲漢)たちがテュイルリー宮殿へ進軍し、ルイ16世を幽閉下に置いた。この日は一つの時代の終わりを画すものであり、「王政は正式に廃止された」(ヴェルニョー)。ここから、歴史が「恐怖政治(テロル)」と呼ぶことになる動乱の時代が幕を開けた。期間:1792年8月10日〜同年9月20日/1793年9月5日〜1794年7月28日主要人物ジョゼフ・カンボンジョルジュ・クートンジョルジュ・ダントンアントワーヌ・カンタン・フーキエ=タンビルジャック・ルネ・

  • 新石器革命とは?人類を狩猟採集から農耕社会へ導いた歴史的大転換

    先史時代の人類の暮らし先史時代、人類は植物の採集、漁労、そして狩猟の成果によって生計を立てていました。住まいは動物の皮で作られたテントや、枝を組み上げた小屋がほとんどです。人類は獲物を追って移動し、動物たちの移動経路に合わせて住処を変えていました。つまり、先史時代の人類は定住地を持たない移動生活者だったのです。この時代の遺跡からは打製石器が数多く出土しており、考古学者たちはこの時期を「旧石器時代」と呼んでいます。これはギリシャ語で「古い石」を意味する言葉に由来します。さらに約45万年前には、ホモ・エレクトス(原人)が偶然(おそらく落雷がきっかけと考えられています)火を発見し、次第にその扱い方を

  • フランス復古王政(1814年~1830年):王政復古と七月革命への道

    ロベスピエールの死によって恐怖政治に終止符が打たれると、フランスは総裁政府による合議制の権力を手に入れました。しかし、この政権は王党派の脅威によって絶えず弱体化し、両院の均衡の欠如が政治の停滞を招いていました。こうした状況はクーデターにとって絶好の条件となり、シエイエスとタレーランが計画し、ナポレオン・ボナパルトが実行したブリュメール18日~19日のクーデター(1799年)へとつながります。その後、ボナパルトは次第に統領政府の権力を掌握し、第一帝政(1804-1814)への道を切り開いていきました。実際、ボナパルトは自らに全権を与え、1804年12月2日に皇帝として戴冠します。治世の初期は輝か

  • 水晶の夜(クリスタルナハト)とは?1938年、ナチス・ドイツが引き起こしたユダヤ人迫害事件の全貌

    1938年11月9日から10日にかけて、ナチス・ドイツ全土でユダヤ人に対する大規模な暴動が発生しました。この事件は「水晶の夜(クリスタルナハト)」と呼ばれ、後のホロコーストへと至る重要な転換点となりました。 ユダヤ人への差別の背景 ドイツ第三帝国において、ユダヤ人は体系的に排斥されていきました。1933年の「職業公務員再建法」はユダヤ人の公務員としての活動を禁じ、さらに1935年のニュルンベルク法は彼らからドイツ国籍を剥奪し、ドイツ市民との婚姻や婚外関係を禁止するとともに、身分を明示することを強制しました。 1937年には映画『永遠のユダヤ人』が公開され、世論はさらに反ユダヤ主義へと煽られ

  • 古代ギリシャの植民活動:地中海から黒海へ広がった三世紀にわたる大拡張

    ギリシャ人の移住が小アジア(現在のトルコ)西岸へと及ぶという序章を経た後、本格的なギリシャ植民は紀元前8世紀から6世紀にかけて、およそ三世紀にわたって展開されました。植民の背景と理由この拡大志向には、いくつかの要因がありました。まず、地中海地域で人口が増加し、居住可能な空間が限られてきたことが挙げられます。その結果、特に耕作地を求めて生活領域を広げることが必要となりました。また、内乱で敗北した人々が追放され、新たな受け入れ先となる土地を探さなければならないケースもありました。さらに、経済的な機会を増やし、交易路を掌握することで都市の繁栄を実現したいという動機も見過ごせません。冒険心を求めて海へ

  • マルヌの戦い――「タクシー部隊」が生んだ第一次世界大戦最大の転換点

    1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺されると、国際情ると、国際情勢は一気に緊張の極みへと達しました。この事件は交戦各国にとって開戦の口実となり、第一次世界大戦(1914~1918年)の幕開けとなります。たちまちのうちに、フランス・イギリス・ロシアからなる三国協商と、ドイツ・オーストリア=ハンガリーからなる三国同盟が対立しました。1870年にアルザスとロレーヌの一部をドイツに併合されたフランスは、失地回復を悲願としており、これこそがヨッフ将軍率いる「第17号計画」の出発点でした。一方のドイツでは、モルトケ将軍がシュリーフェン・プランに

  • 西暦48年、クラウディウス皇帝がガリア貴族にローマ市民権を付与――その経緯と歴史的影響

    西暦41年、皇帝カリグラの暗殺を受けて、クラウディウス(紀元前10年~西暦54年)が第4代ローマ皇帝として即位しました。万全の準備がないまま帝位に就いたものの、彼は着実に立場を固め、元老院に対する皇帝権限を強化していきます。対外政策においても精力的に活動し、ブリタンニア(現在のイギリス)など多くの地域を征服しました。この遠征の功績により「ブリタニクス」という添え名を得て、それを息子に受け継がせています。帝国の一体性を掲げたクラウディウスは、周辺の属州を結びつけ、帝国の強化に努めました。西暦48年――歴史を変えた元老院演説経緯クラウディiusは、ローマ市外で生まれた最初のローマ皇帝です。彼はガリ

  • イエスの受難――逮捕、有罪判決、そして十字架刑

    ローマ支配下のパレスチナ紀元1世紀のパレスチナは、ローマ帝国の支配下に置かれていました。ユダヤ王ヘロデ大王の死後、その王国は3人の後継者に分割され、そのうちの一人ヘロデ・アンティパスはガリラヤを継承しました。こうして権力は三つの勢力の手に分かれました。政治の実権を握るのはローマであり、その権威は各地の王が持つ地方政権をはるかに上回りました。一方、ユダヤ人は大祭司という形で宗教的な権威を保持し続けました。しかし、ローマも現地の為政者も、そして神殿もそれぞれに税を取り立てたため、民衆は疲弊しきり、反乱の気運は日増しに高まっていました。新しい宗教の誕生そんな時代に、新しい宗教が生まれました。その信奉

  • グーテンベルクの活版印刷機の発明――中世ヨーロッパを変えた知識革命

    背景:大学の興隆と技術的な成熟13世紀のヨーロッパでは大学が次々と設立され、知的な需要が急速に高まりました。そのため、写本を担う修道士たちは、増え続ける書物の需要に応えるべく、より多くの本を書き写すことを求められるようになりました。中世末期には、こうした知的欲求が確実に育ちつつあったのです。技術面でも、15世紀初頭には鉄の加工技術が大きく進歩していました。特にドイツでは鉱山業が盛んになり、金属加工の基盤が整いつつありました。印刷機が宗教改革の時代に登場したことは重要ですが、当時の出版は世俗権力や宗教権力によって強く管理されていたという点も忘れてはなりません。1454年活字(文字)ヨハネス・グー

  • ソ連によるアフガニスタン侵攻:冷戦の転換点となった1979年の軍事介入

    背景第二次世界大戦の終結後、米ソという二つの陣営が対立し、いわゆる「冷戦」が始まった。この対立は20世紀後半を通じて続き、1991年のソ連崩壊まで続くことになる。冷戦の緊張度は時期によって一様ではなかった。1947年から1962年までは強い緊張状態が続いたが、1962年から1977年にかけては「デタント(東西緊張緩和)」と呼ばれる融和期が訪れた。アフガニスタンは1950年代以降、ソ連と良好な関係を保ってきた。これは、アフガニスタンの宿敵であるパキスタンがアメリカと同盟関係にあったことが一因である。しかし1973年7月、クーデターにより国王が追放されると、新たに成立した共和制政権は次第にソ連から

  • アルジェ蜂起(1958年)――第四共和政を崩壊させた5月13日の危機とは

    背景:アルジェリア戦争と行き詰まる第四共和政1954年、アルジェリア戦争が勃発しました。しかし第二次世界大戦の終結以来進んできた脱植民地化の潮流を前に、エスカレートする紛争に対してフランスの歴代政権は有効な対応策を打ち出せず、政治的混迷は深まる一方でした。1958年4月26日、アルジェでは数千人の市民がデモを行い、「公安政府」の樹立を要求します。同年5月8日、共和国大統領ルネ・コティはピエール・プフリマンを首相に指名しました。ところが第四共和政はアルジェリア戦争の解決策を見出す力を失っており、プフリマンはFLN(アルジェリア民族解放戦線)との交渉路線を重視する姿勢を示したのです。主要人物シャル

  • 広島と長崎への原爆投下――第二次世界大戦を終結させた1945年夏

    第二次世界大戦において日本の同盟国であったドイツは、1945年5月8日に連合国へ降伏しました。これにより残された戦線は太平洋地域のみとなり、そこでは日本とアメリカが激しく対峙することになりました。 1945年8月6日・9日 原爆投下までの経緯 たとえ単独で戦うことになっても、日本は依然として重大な脅威であり続けました。日本軍は最後まで徹底抗戦を貫き、アメリカ軍は一歩前進するごとに多大な犠牲を強いられていたからです。こうした状況の中、1942年に開始された原子爆弾開発計画(マンハッタン計画)の標的は、唯一の敵国となった日本に向けられることになりました。 1945年7月26日、日本に対

  • ナポレオン戦争とは?七次にわたる対仏大同盟との攻防とワーテルローの敗北

    ナポレオン戦争の背景1789年に始まったフランス革命は、啓蒙思想の広がりを恐れるヨーロッパ各国の君主たちに大きな危機感を抱かせました。革命の理念が自国へ波及することを防ぎたい各国は、連合してフランスと対決する道を選びます。最初の対仏大同盟は1793年から1797年まで続き、続いて1799年にはイギリス、両シチリア王国、トルコ(オスマン帝国)、ロシア、オーストリアによる第二次対仏大同盟が結成されました。そして1799年11月9日(ブリュメール18日のクーデター)、ナポレオン・ボナパルトが権力を掌握し、ここにフランス革命は事実上の終焉を迎えます。期間:1799年〜1815年主要人物ナポレオン1世(

  • フランス宗教戦争:ユグノー戦争の全貌と歴史的影響(1562〜1598年)

    1516年、フランス王フランソワ1世はローマ教皇レオ10世との間で「ボローニャ協約」を結び、王国の教会に対して前例のない強大な権限を獲得しました。これ以降、国王にとってプロテスタント(ユグノー)の拡大は決して歓迎すべきものではなく、むしろ排除すべき存在となります。1534年の「貼り紙事件」(プラカール事件)をきっかけに、ユグノーへの迫害が急速に本格化していきました。フランソワ1世の後継者たちもまたユグノーに容赦なく、プロテスタントへの虐殺が各地で相次ぎました。アンリ2世は、フランス国内で貴族やブルジョワジーにまで広がっていたカルヴァン派の「異端」を根絶することを企てます。1559年に彼が死去す

  • イラン・イラク戦争とは?背景・経過・中東への影響を解説

    戦争の背景イランでは1979年、「イスラム革命」と呼ばれるイラン革命が勃発し、パフラヴィー国王が打倒されました。国王は西洋諸国に接近しすぎたこと、イスラムの伝統を軽視したこと、さらに反体制派への弾圧を強めたことが批判の対象となっていました。やがて反体制運動が権力を掌握し、その中心となったのがルーホッラー・ホメイニ師です。彼は1979年4月1日、イスラム共和国の樹立を宣言しました。一方、革命の波及を恐れたアメリカは、1979年7月以降サッダーム・フセインが統治するイラクを支援するようになりました。フセインは個人崇拝によって権力基盤を固め、イラクをアラブ世界有数の軍事大国へと育て上げました。しかし

  • 冷戦とは?米ソ対立の勃発から終結までの歴史を徹底解説

    冷戦の始まり第二次世界大戦の終結とともに、米英ソによる「大同盟」は崩壊しました。ソ連は解放した東欧諸国を自陣営の支配下に置き、1946年にはチャーチルが「鉄のカーテン」がヨーロッパに下ろされたと世界に警告します。こうして世界は、アメリカを盟主とする西側陣営と、ソ連を盟主とする東側陣営という、対立するイデオロギーを掲げる二つの陣営に分裂しました。極めて緊迫した国際情勢の中で、両陣営は約50年間にわたり直接衝突を避けながら対立し続けることになります。期間:1947年〜1991年冷戦期の主要人物アメリカ側の指導者ハリー・S・トルーマンドワイト・D・アイゼンハワージョン・F・ケネディリチャード・M・ニ

  • ベトナム戦争とは?冷戦下の分断国家が招いた悲劇の全貌

    ベトナム戦争の背景1954年、ジュネーブ協定によって第一次インドシナ戦争は終結しました。しかし、この協定はむしろベトナムの状況を悪化させることとなりました。国は南北に分断され、ソ連の支援を受けた共産主義陣営の「ベトナム民主共和国」(北ベトナム)はホー・チ・ミンが指導し、一方アメリカの支援を受ける「ベトナム共和国」(南ベトナム)はゴ・ディン・ジエムが大統領に就任しました。その後まもなく、南部では反政府運動が勃興します。「南ベトナム解放民族戦線(FNL)」として知られるこの組織は、北ベトナム軍の支援を受けて活動を展開しました。こうしてベトナムは内戦状態へと突入していきます。1961年、情勢の悪化を

  • 湾岸戦争とは?イラクのクウェート侵攻から「砂漠の嵐」作戦までを解説

    湾岸戦争の背景サッダーム・フセイン率いるイラクは、1980年から1988年まで続いた8年間のイラン・イラク戦争により、国家財政が深刻に疲弊していた。そんな中、戦争終結後に小さな首長国クウェートがOPEC諸国との協議なく石油生産を20%も増産したため、原油価格は下落。経済的に苦しい状況にあったイラクは、この競争によって石油収入の3分の2を失うこととなった。イラクの損失を補償することをクウェート首長が拒否したことで、両国間の緊張は一気に高まった。1990年夏、サッダーム・フセインは駐イラク米国大使エイプリル・グラスピーと会談し、「クウェートは本来イラクに属すべきものだ」と主張してクウェート侵攻の計

  • ヴァンデ戦争とシュアンヌリー戦争――フランス革命期の悲劇的な内乱

    概要1792年9月から1795年10月までのフランスでは、国民公会が政権を担っていました。国民公会は第一共和政を創設した母体となる議会です。その初期の重要な決定の一つが、ヨーロッパの君主国(オーストリア、プロイセン、スペイン、イギリス)との戦争に備えて、30万人の兵士をくじ引きで徴集するというものでした。1793年3月10日、ルイ16世の処刑や反宗教法制への反発からすでに国民公会に敵意を抱いていたフランス西部の農民たちは、この徴集令の発表を機についに蜂起しました。ヴァンデ人とシュアン人フランス西部には、ヴァンデ人(Vendéens)とシュアン人(Chouans)という二つの勢力が存在しました。

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