世界史

古代の歴史

  • ペタン元帥の裁判――ヴィシー政権の対独協力を問う歴史的法廷

    ヴィシー政権とペタン元帥1940年7月10日、フィリップ・ペタンは全権を付与され、フランス国の元首となりました。ペタンにとって、フランスの敗北は何よりもまず精神的・政治的な問題でした。彼は「労働、家族、祖国」をスローガンに掲げ、権威主義的で保守的な「国民革命」を推進します。さらに、国土を占領していたナチス・ドイツとの協力(コラボラシオン)政策を進めたため、占領期にドイツ軍や民兵組織ミリスによって行われたユダヤ人やレジスタンスの強制送還といった罪行について、共同責任を負うことになりました。解放後の「粛清」(エピュラシオン)フランス解放後、フランスはいわゆる「粛清」の時代を迎えます。これは、ヴィシ

  • モスクワ裁判――スターリンによる大粛清の幕開け

    背景1924年1月21日、ロシア革命の指導者ウラジーミル・レーニンが死去しました。後を継いだヨシフ・スターリンはソ連の権力を掌握すると、個人崇拝に基づく恐怖政治を急速に築き上げていきます。1934年12月1日、初期ボリシェヴィキ(共産主義者)であり、スターリンの後継者と目されていたセルゲイ・キーロフが、レニングラードの党本部で暗殺されました。この事件の真相は今日なお明確になっていません(単独犯行か、組織的な陰謀だったのか)。しかし、キーロフ暗殺はスターリンによる大粛清の発端と見なされています。さらに1936年初頭には深刻な経済難がソ連を襲い、経済・政治の幹部たちが公然とその責任を問われる状況と

  • バスティーユ牢獄襲撃――フランス革命の幕開けとなった1789年7月14日の全貌

    革命前夜:バスティーユ襲撃に至る経緯 1789年5月5日、ルイ16世は深刻な財政危機に見舞われていたフランスの打開策を模索するため、ヴェルサイユで三部会を召集しました。三部会には聖職者(第一身分)、貴族(第二身分)、そして平民(第三身分)の各身分から代議士が集まっています。 6月17日、第三身分の代議士たちは自らを「国民議会」と宣言しました。三部会が手を離れていくことに強い不快感を抱いた国王のもとには、まもなく王軍が介入するという噂がパリ中に広まります。 さらに6月20日、国民議会は憲法を制定するまで決して解散しないと誓い合いました。これが歴史に名高い「球戯場の誓い」です。 1789年7月12

  • 諸国民の春――1848年ヨーロッパ革命の背景・経過・帰結

    ウィーン体制の揺らぎ――革命の背景1815年のウィーン会議以降、ヨーロッパは、旧体制(アンシャン・レジーム)を革命的な動きから守ることを目的とした神聖同盟(プロイセン・ロシア・オーストリア)による監視下に置かれていました。1820年や1830年にも各地で反乱が起こりましたが、それでも神が、それでも神聖同盟下のヨーロッパは1848年までおおむね安定を保っていたのです。ところが1846年、深刻な農業危機が発生し、ほどなく商業・工業の危機がそれに続きました。この危機は社会のあらゆる階層を直撃し、とりわけ貧困化が進んでいた労働者階級の間で社会的な要求が目覚めていきます。こうして革命勢力と各国政府の間で

  • プラハの春とは?1968年チェコスロバキアの改革運動とソ連軍介入の歴史

    背景:戦後チェコスロバキアと共産主義体制第二次世界大戦後、チェコスロバキアは事実上ソ連による共産主義支配下に置かれました。モスクワはプラハに対し、ヨーロッパ復興を目的としたアメリカの経済支援計画「マーシャル・プラン」への参加を拒否させ、共産党員が国家の重要ポストを占めるようになりました。さらに1950年代には、スターリン式の見せしめ裁判と呼ばれる大規模な粛清が行われ、数千人に及ぶ有罪判決や処刑が実行されました。1968年1月〜8月 主要人物1968年1月、チェコスロバキアのアレクサンデル・ドゥプチェクが国家指導者の座に就きました。彼の就任にはブレジネフの後押しがありました。新しい指導者が若く経

  • ネロによる最初のキリスト教徒迫害――ローマ大火と殉教者たち

    西暦54年から68年まで在位した皇帝ネロの時代、ローマ帝国は国力の頂点にありました。皇帝は帝都ローマを再建し、その名にふさわしい壮麗さを与えることを望んでいました。しかし、西暦64年にサーカス・マクシムス近郊で発生した「ローマ大火」では、放火の犯人としてネロ自身が疑われることになります。市民の怒りを鎮めるため、ネロは火元を作ったのはキリスト教徒だと主張したのです。この大火は7月19日から24日にかけて燃え広がり、その後さらに3日間にわたって再燃しました。ローマ全14区のうち10区が焼け野原となり、数千人の命が奪われる大惨事でした。当時、キリスト教の信仰はすでに禁じられており(ユダヤ系の信者たち

  • フランス第一共和政――革命からナポレオン帝政への道

    革命期フランスを取り巻く内外の危機 フランス革命は、君主制国家が並び立っていた当時のヨーロッパにおいて異例の出来事であり、革命フランスは周辺諸国から孤立することになりました。その結果、国内では王党派による反革命運動という内的脅威に、対外的にはヨーロッパ諸国君主の連合軍という外的脅威に同時に直面し、政治・社会の両面で深刻な緊張状態が生じました。 1791年8月、プロイセン国王とオーストリア皇帝による「ピルニッツ宣言」は、フランス革命に対抗するためヨーロッパの君主国を団結させました。ルイ16世自身もこの動きに関与しており、その狙いは君主制ヨーロッパの結束と相互支援を維持することにありました。 17

  • 第一次世界大戦とは|勃発の背景・経過・歴史的影響をわかりやすく解説

    第一次世界大戦は、1914年7月28日から1918年11月11日までの約4年間、ヨーロッパを中心に世界規模で戦われた、史上初の「総力戦」でした。かつて「大戦争(The Great War)」と呼ばれたこの戦争は、各国の経済・社会・国際秩序に計り知れない影響を残しました。勃発の背景ナショナリズムの高揚と国民国家の形成19世紀のヨーロッパでは、ナショナリズム(民族主義)が台頭し、国民国家の形成が進みました。1871年にドイツ帝国が成立し、イタリアでは統一運動「リソルジメント(Risorgimento)」が実を結びます。こうした流れの中で「自民族による独立と統一国家の樹立」を掲げる主張が各地で強まり

  • フランス最初の憲法とは?1791年憲法の成立経緯と歴史的意義

    フランス最初の憲法の背景1789年のフランスは、社会的・経済的・政治的に深刻な危機のただ中にありました。国王が三部会を召集すると、第三身分の代議士たちは聖職者や貴族とともにヴェルサイユに集まり、球戯場(ジュ・ド・ポーム)の間に集合しました。海峡を挟んだ隣国イギリスの議会君主制に触発され、モンテスキューやルソーら啓蒙思想の理念、そして第三身分が提出した陳情書(苦情提要)に後押しされた彼らは、憲法を制定するまで決して解散しないと誓いました。これが有名な「球戯場の誓い」(1789年6月20日)です。旧体制期のフランスは数々の勅令や法律によって構成されてはいたものの、王権神授説に基づく絶対王政であった

  • ナポレオン3世の国民投票――第二帝政の終焉と第三共和政への道

    ナポレオン3世は、1851年12月2日のクーデターによって権力を掌握し、第二帝政を樹立しました。治世の初期は強権的でしたが、皇帝は年月を経るごとに、社会的・経済的・政治的な改革を次々と推し進めていきます。1860年代に入ると、ストライキ権(1864年)や集会の自由(1868年)といった個人の自由を容認するようになり、議員が政府の政策を公然と批判できるようになったほか、行政の事前許可なしに株式会社を設立できるようになり、国家による恣意的な逮捕も廃止されました。帝政は次第に自由主義色を強めていったのです。1870年5月8日――帝国の命運をかけた国民投票この時代を彩る主な登場人物は以下の通りです。ナ

  • マーシャル・プランとOEEC設立――冷戦下、ヨーロッパ復興はいかにして実現したか

    背景:疲弊したヨーロッパと米ソの対立 1947年、長年にわたる戦争を経たヨーロッパは深く疲弊し、荒廃していました。破壊されたインフラを自力のみで再建することは不可能であり、外部からの支援が不可欠な状況でした。 一方、第二次世界大戦の「勝利者」として台頭したのは、アメリカ合衆国とソ連(USSR)という二つの超大国です。両国はそれぞれ自陣営のイデオロギー(思想体系)をヨーロッパ諸国に広めようと競い合い、大陸の復興は次第に勢力争いの問題へと変わっていきました。 とりわけ内戦状態にあったギリシャでは、共産主義勢力と自由主義勢力が激しく対立していました。同国におけるソ連の影響力拡大を懸念したアメリカは、

  • コンスタンティノープルの略奪――第四回十字軍はなぜキリスト教都市を襲ったのか

    第四回十字軍の背景1198年8月、教皇インノケンティウス3世は選出からわずか数ヶ月後、サラディン(サラーフッディーン)によって再征服された聖地を解放するための十字軍を呼びかけました。当初の計画では、まずエジプトの主要港を攻略し、それを交渉材料としてエルサレムと交換するというものでした。ところが当時、フランス王とイングランド王は互いに戦争状態にあり、神聖ローマ皇帝もローマ教皇庁の権威に真っ向から対立していました。一部の諸侯は素早く応じたものの、ヨーロッパの大国王たちは参加を見合わせ、第四回十字軍は予定していた3万人に対し、わずか1万人ほどの騎士しか集められなかったのです。十字軍はヴェネツィアへ進

  • ペリクレスの「ミストス」制度――古代アテネ市民を投票へと導いた報酬政策

    出席は自由だったが、来てもらわなければ困る古代ギリシアにおいて、市民には権利と義務がありましたが、政治への参加や出席そのものは強制ではありませんでした。しかし、政治生活が市民の日々の営みに食い込み、ときには丸一日の労働、ひいてはその日分の賃金を失わせることになるとなると、市民たちは次第に民会への出席を怠けるようになってしまいました。そこで紀元前6世紀以降、指導者たちはスキュタイ人弓兵を派遣し、朱色を塗った縄で欠席者や遅刻者に印をつけ、会場へと「連行」していたといいます。赤い印をつけられた以上、罰則を受ける前に民会へ向かうしかなかったのです。ところが紀元前451年、ペリクレスは父母双方がアテナイ

  • ペリクレスの市民権法――紀元前451年、アテナイはなぜ市民権を厳格化したのか

    全盛期を迎えたアテナイ紀元前5世紀、アテナイは経済・政治・文化のすべてにおいて黄金期を迎えていました。ペルシャ戦争に勝利し、デロス同盟の金庫によって大きな富を蓄えたアテナイは、周辺のポリスへと影響力を広げていきます。ソロンの改革(紀元前6世紀)に始まり、クレイステネス、そしてペリクレスへと受け継がれた一連の改革により、アッティカの都市は民主政への道を歩み始めました。それまで貴族層の手にあった権力は、正式に市民の手へと移ります。市民は民会(エクレシア)での討議に出席し、政治に直接関与できるようになったのです。ギリシャ人にとってポリス(都市国家)は何よりも重要な存在であり、市民権はポリスとの結びつ

  • 真珠湾攻撃とアメリカの第二次世界大戦参戦

    第二次世界大戦は、1939年9月にフランスとイギリスがドイツに宣戦布告したことをきっかけに始まりました。日本はドイツおよびイタリアと同盟を結び(日独伊三国同盟)、東南アジアの広範な地域、とりわけ中国の大部分を支配下に置いていました。日本がフランスの統治下にあったフランス領インドシナを占領すると、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は日本に撤兵を要求します。要求を強化するため、在米日本資産の凍結と、日本への原材料輸出の禁輸措置(経済制裁)を実施しました。地域に多くの軍事基地を有するアメリカの強い存在感や内政干渉に強い不満を抱いた日本は、奇襲攻撃によってアメリカを打倒することを決意します。な

  • パックス・ロマーナ(ローマの平和)とは?ローマ帝国が築いた約200年の安定と繁栄

    ユリウス・カエサルはその征服活動によって、ローマの世界を大きく拡大しました。しかし、あまりに広大な領土は統治が難しく、脆さを抱えていました。実際、独裁官カエサルが暗殺されると政局は大きく動揺し、内乱が相次ぐことになります。 パックス・ロマーナの時期 紀元前29年~紀元後180年 主要人物 オクタウィアヌス(初代皇帝アウグストゥス) マルクス・アウレリウス トラヤヌス 経緯 ユリウス・カエサルの養子であるオクタウィアヌスは、権力を握ると最高位の諸職務を一身に兼ねました。彼はローマ世界に平和をもたらし、その功たらし、その功績により紀元前27年に、それまで神々だけに許されていた称号「アウグストゥ

  • ヴェルダン条約とは?カロリング帝国を三分割した843年の大転換

    カール大帝の遺産と唯一の後継者カール大帝(シャルルマーニュ)は、かつてのローマ帝国にも匹敵する大帝国を築き上げました。ところが、幾度も結婚を重ねたにもかかわらず、彼よりも長生きした息子は一人だけ——敬虔王ルイ(ルートヴィヒ1世)でした。そのため帝国は分裂を免れ、父の広大な領土はそのままルイが受け継ぐことになります。四人の息子と「帝国整序令」しかし敬虔王ルイには四人の息子がいました。長男ロタール、次男ピピン(838年に死去)、三男の禿頭王シャルル(カール2世)、そして末子のドイツ人ルートヴィヒです。継承問題を整理するため、ルイは817年、アーヘンで勅令「帝国整序令(Ordinatio imper

  • テオドシウス大帝とローマ帝国の東西分割:西ローマ帝国と東ローマ帝国の誕生

    はじめに:ローマ帝国の分権統治への道かつて地中海世界を支配した大ローマ帝国は、歴史上幾度も分裂と再統一を繰り返してきました。皇帝ディオクレティアヌスは、まず二人の皇帝による「両頭政治」を確立し、さらに四人の皇帝による「四分統治(テトラルキア)」を導入しました。この制度のもとで、帝国は正帝「アウグストゥス」と副帝「カエサル」によって共同統治されることになります。コンスタンティヌス帝の時代に一時的に領土の統一が回復されましたが、彼以降、単独で帝国を恒久的に統治した皇帝は現れませんでした。それ以降、共同統治こそが帝国を治めるための基本方針となっていったのです。395年――帝国分割の年西暦395年、テ

  • ヴィレール・コッテレ条例――フランス語を公用語とした1539年の歴史勅令

    背景:話し言葉として消えたラテン語当時のフランスでは、すでに数百年にわたりラテン語は日常の話し言葉としては使われなくなり、代わりに多様な方言――いわゆる「母語(ラング・マテル)」が人々の間で話されていました。オック語(オクシタン語)、オイル語、プロヴァンス語、ブルトン語などがその代表例です。フランス語を話していたのは事実上パリだけで、その他の言語は「パトワ(田舎方言)」とみなされていました。一方、ラテン語は書き言葉として生き残り、法律文書・行政文書・宗教文書などで今なお幅広く使用されていました。王権による言語改革の歩みシャルル7世の治世から、王権は文書をより多くの人々に理解されるものへと変える

  • バルバロッサ作戦とは?ナチス・ドイツによるソ連侵攻の背景・経過・結末

    1941年6月22日午前3時30分、ナチス・ドイツ率いる300万人を超える大軍が、数千両の戦車と航空機の支援を受けてソ連国境を突破しました。史上最大級の陸上作戦として知られる「バルバロッサ作戦」の始まりです。本記事では、この作戦の背景から経過、そして結果までを詳しく解説します。 背景:独ソ不可侵条約とポーランド分割 1939年8月23日夜、ナチス・ドイツとソビエト連邦は「独ソ不可侵条約」(モロトフ=リッベントロップ協定)に調印しました。続く同年9月1日、ヒトラーはポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が幕を開けます。条約の取り決めに基づき、ポーランドは東西に分割され、西部をドイツが、東部をソ連が占

Total 13507 -世界史  FirstPage PreviousPage NextPage LastPage CurrentPage:478/676  20-世界史/Page Goto:1 472 473 474 475 476 477 478 479 480 481 482 483 484