世界史

古代の歴史

  • マーストリヒト条約とは?EU誕生の決定的瞬間を解説

    マーストリヒト条約への道のり マーストリヒト条約は突然生まれたものではなく、数十年にわたる欧州統合の流れの中で準備されてきました。条約締結までの主要な出来事を振り返ります。 1957年: 3月25日、ローマ条約(EU運営条約の前身)が調印され、ヨーロッパ経済共同体(EEC)が誕生しました。 1988年: 欧州理事会が経済通貨同盟の段階的な実現という目標を掲げ、ジャック・ドロール委員長率いる委員会にその検討を指示しました。 1989年: ベルリンの壁が崩壊し、ドイツ再統一へと大きく動き出します。東欧諸国でも共産主義政権が次々と倒れ、民主化の要求が高まる一方で民族主義的な動きも表面化。こうした情

  • リスボン条約とは?EU拡大と欧州統合の転換点をわかりやすく解説

    冷戦後のEU拡大と制度改正の必要性 冷戦終結以降、欧州連合(EU)は著しい拡大を遂げてきました。1990年には加盟国は13か国でしたが、現在では27か国にまで増加しています。 1995年:オーストリア、フィンランド、スウェーデンの3か国が加盟 2004年:東欧諸国を中心に10か国が一斉に加盟 2007年:さらに2か国(ブルガリア、ルーマニア)が加盟 こうした新規加盟国を吸収しながら、EU全体として統治可能な体制を維持するためには、機構の改革が不可欠でした。そのため、EUは1992年のマーストリヒト条約以降、度重なる条約改正を行ってきました。 マーストリヒト条約以降の主な改正の流れ アムス

  • 国連憲章の調印――サンフランシスコ会議と国際連合誕生の瞬間

    国際連盟から国連へ――新たな平和機構への道第一次世界大戦の終結後、再び世界規模の紛争が起きることを防ぐための国際的な平和維持機構として、1919年に国際連盟が設立されました。しかし、第二次世界大戦の勃発は、国際連盟の限界と、世界の平和を守れなかった無力さを露呈させました。それでもなお、新しい国際機構をつくるという構想は生き続けました。1943年10月30日、アメリカ・ソビエト連邦・イギリス・中国の4か国はモスクワ宣言に署名し、そうした組織の創設に向けた意志を確認しました。国際連合憲章は、第二次世界大戦の終結に向けて連合国が協議したヤルタ会談(1945年2月)などの場で具体化されていきました。1

  • テニスコートの誓い――フランス革命の幕開けを告げた歴史的瞬間

    フランス革命前夜:三部会召集までの経緯1788年12月17日、国王が三部会の招集を決定。1788年〜1789年、各身分ごとに要望書(カイエ・ド・ドレアンス)を作成。1789年3月〜4月、王国全土で代議士の選挙を実施。1789年5月5日、ルイ16世は王国を蝕む経済危機の解決策を求め、三部会を召集。聖職者・貴族・平民(第三身分)の代議士たちがヴェルサイユ宮殿の「メニュ・プレジールの間」に集結した。1789年6月17日、採決方法(身分単位か頭数単位か)をめぐる対立を受け、第三身分の代議士たちは自らを「国民議会」と宣言。同年7月9日には「憲法制定国民議会」へと改称する。これを強く警戒した国王のもとで、

  • フランス第二帝政とは?ナポレオン3世による権威主義体制の興亡

    第二帝政の成立1848年の二月革命により七月王政が打倒され、フランス第二共和政が誕生しました。当初は普通選挙の導入など非常に進歩的な政策が実施されましたが、保守派が権力の座につくにつれ、国内の政治情、国内の政治情勢は緊迫の一途をたどっていきます。ルイ・ナポレオン・ボナパルトは1848年12月に大統領に選出されましたが、保守派は国民議会において彼の動きを封じ込めました。そこで1851年12月2日、ルイ・ナポレオンは軍部の支持を受けてクーデターを決行し、議会から反対勢力を一掃。体制の権力を自らの手中に集中させると、1852年には自らを絶対的主権者とする憲法を制定し、国民投票を経て帝政の開始を承認さ

  • 1054年の大分裂――ローマとコンスタンティノープル、キリスト教東西分裂の真相

    背景:二つの首都の対立395年のローマ帝国分裂以降、ラテン伝統を受け継ぐ首都ローマと、ギリシャ伝統を担うコンスタンティノープルとの間で対立が深まっていきました。教会創成期には、重要な決定は各地域の伝統に従って下されていました。しかし次第にローマは、全キリスト教圏に対する権威を主張するようになります。使徒ペトロによって建てられた都市であるローマこそ、他の諸教会に対して首位権を持つはずだという主張です。これに対し、「東方の教会」たるコンスタンティノープルは強く反発しました。8世紀に入ると、名目上はビザンツ皇帝の保護下にあったローマは、イタリアにおけるランゴバルド人の侵入を撃退するためフランク王国の

  • ロシア革命とは?二月革命から十月革命までの経緯と背景を徹底解説

    ロシア革命の背景:長く続いた深刻な社会危機ロシアでは、社会危機が何十年にもわたって積み重ねられていました。1905年にはすでに革命(血の日曜日事件に端を発する1905年革命)が発生していましたが、皇帝ニコライ2世はその後も権力の座にとどまり続けました。当時のロシアは、人口の約85%を占める農民が飢饉に苦しみ、官僚制と軍隊による専制支配が敷かれた後進国でした。さらに宮廷では、腐敗の疑いをかけられていた怪僧ラスプーチンが皇帝一家に強い影響力を及ぼすなど、帝政は腐敗の一途をたどっていました。1905年以降、ロシアは工業大国へと発展を遂げます。しかし、その資本の大部分は外国企業によって握られており、急

  • 産業革命と経済成長──19世紀ヨーロッパを変えた二つの革命

    19世紀のヨーロッパは、かつてない規模の変革の時代を迎えました。人口爆発、農業の近代化、そして技術革新──これらが絡み合うなかで、「産業革命」と呼ばれる大転換が進行していきました。本記事では、その背景・展開・帰結をわかりやすく解説します。 19世紀ヨーロッパの人口爆発と社会的基盤 1800年から1900年の間に、ヨーロッパの人口は2億人から4億人へと倍増しました。この未曾有の人口増加を支えたのが農業の近代化です。地力回復のため一定期間耕作を休止する「休閑地」の利用は次第に減り、土地の生産性が向上しました。同時に、国家体制も強化され、経済発展を下支えする土台が整っていきました。 精神面で

  • 1848年フランス二月革命――七月王政の崩壊と第二共和政の誕生

    革命の背景1830年の七月革命以来、ルイ・フィリップは「七月王政」と呼ばれる自由主義体制を敷いてきました。その統治の基盤となったのは、ほぼ憲法とも言うべき「憲章」です。在位18年の間にフランスは商業的に大きく飛躍しました。鉄道網や銀行が発展し、産業の近代化が進みます。しかしその一方で、ブルジョワジー(資本家階級)が台頭する一方、労働者階級の貧困は深刻化していきました。高い納税資格による選挙権の制限がありながらも民主的な制度は育ち、共和主義の理想が政治実践の中に根付き始めます。しかし議会は二つの勢力に分かれていました。一つは「革命はまだ未完成だ」と考える共和派、もう一つはルイ・フィリップを「曖昧

  • リヨン絹織物職人(カニュ)の反乱――フランス労働運動の夜明け

    背景:七月革命と「栄光の三日間」1830年7月27日から29日にかけて、パリでは「栄光の三日間(トロワ・グロリウーズ)」と呼ばれる革命が勃発しました。これは、絶対王政への回帰と個人の自由の抑圧を目指した国王シャルル10世を打倒した革命的な運動です。この革命の日々を受けて、ルイ・フィリップ1世を国王とする「七月王政」が成立しました。復古王政期の抑圧的な統治の後、七月革命はフランスに希望をもたらしました。出版や結社の自由が認められ、より民主的な政治体制への道が開かれたのです。カニュとは何者かカニュ(canuts)とは、リヨンの絹織物産業で働く親方職人のことです。彼らは1台以上の織機を所有し、高度な

  • サントドミンゴの奴隷反乱――世界初の黒人共和国ハイチ誕生への道

    背景:フランス植民地帝国と西インド諸島フランス革命前夜、フランスの植民地帝国は三大陸にまたがる規模に達していました。なかでも、マルティニーク、グアドループ、サン=ドマング(現在のハイチ)からなるフランス領西インド諸島は、本国にとって経済的な要でした。これらの植民地のおかげで、フランスはヨーロッパ最大の砂糖とコーヒーの生産国の座にあったのです。西インド諸島社会では、肌の色がそのまま社会的地位を決定していました。人々は「白人」、「自由有色人(アフリカ系・混血の自由民)」、そして黒人や混血の奴隷という三つの身分に厳格に区別されていました。フランス革命と《人間および市民の権利の宣言》は、抑圧されていた

  • ナントの勅令の撤回――フォンテーヌブローの勅令とユグノー弾圧の歴史

    1598年にアンリ4世が署名したナントの勅令は、プロテスタントに礼拝の自由と良心の自由を保障し、フランスを寛容への道へと導きました。同時に、長く続いた宗教戦争の終結を意味する画期的な布告でもありました。しかし、ルイ13世の時代に入ると、カトリックの信仰を認めようとしないベアルン地方のプロテスタントの反乱を発端として、1622年以降、ルイ13世とリシュリュー枢機卿によって各地(ネグレペリス、ラ・ロシェル、モーバンなど)で宗教紛争が武力により鎮圧されていきます。さらに1629年には「改革の砦」と呼ばれたプリヴァが陥落し、約1,500人の犠牲者が出ました。続くアレスの勅令(1629年)の調印により、

  • ヴィシー政権下のユダヤ人迫害――「ユダヤ人法」の制定とその影響

    ヴィシー政権の成立1940年5月に開始されたドイツ軍の猛攻により、フランス軍は崩壊しました。フランスは1940年6月22日に休戦協定に調印し、敗北を認めます。続く7月10日、国民議会は第一次世界大戦の英雄フィリップ・ペタン元帥に全権を付与しました。ここに第三共和政は終焉を迎え、ペタンが行政権と立法権の双方を掌握することになったのです。ペタンは「国民革命」を掲げました。これはフランス革命以来の自由主義思想への反発であり、右派団体アクシオン・フランセーズの思想に影響を受けた国家元首は、保守的かつ伝統主義的な価値観への回帰を唱えました。1940年8月13日にはフリーメイソンなどの「秘密結社」が禁止・

  • マルティン・ルターの宗教改革――95カ条の提題が引き起こしたヨーロッパの大転換

    ローマ教会は11世紀に東方教会(正教会)と分裂を経験し、その後、数多くの異端との闘いに成功することで、ヨーロッパにおける支配的な地位を確立してきました。しかし、14世紀末に起きた西方教会大分裂(シスマ)以降、教会は深刻な衰退の時代へと突入していきます。 宗教改革前夜――16世紀の批判の高まり 16世紀に入ると、教会への批判はいたるところで噴出しました。最大の問題とされたのは、教会が抱える広大な所領と莫大な富です。これは聖書が説く「清貧の理想」と真っ向から矛盾するものでした。さらに教会は霊的なものと世俗的なものを混同しがちで、その典型例として挙げられるのが免罪符(贖宥状)の販売でした。免罪符を

  • 英国宗教改革とは?ヘンリー8世によるイングランド国教会の誕生

    ヘンリー8世という人物英国宗教改革を理解するうえで欠かせないのが、国王ヘンリー8世の強烈な個性です。彼は先祖から受け継いだ豊かな遺産によって華やかな宮廷生活を送り、その治世においては臣民から恐れられる存在でもありました。1509年にイングランド王位に就いた当時、ヘンリー8世は敬虔なカトリック信者でした。1517年に始まったルターの宗教改革には真っ向から反対し、プロテスタントを国外へ追放しました。それにもかかわらず、プロテスタント思想はイングランド国内で着実に広がっていきます。しかし同時に、偉大で啓蒙的な君主でありたいと願うヘンリー8世は、人文主義者(ヒューマニスト)たちが理想としたような教会改

  • レコンキスタ(再征服)とは?イベリア半島をめぐる約700年の攻防の全貌

    711年に起こったグアダレテの戦いにおいて、ムスリム(イスラム教徒)軍はヒスパニア(イベリア半島)の大部分を征服しました。キリスト教勢力として残ったのは、現在のスペイン北部にあたるアストゥリアス王国のみです。 8世紀末にはカール大帝(シャルルマーニュ)によるカタルーニャ奪回など、キリスト教側の介入が断続的に続きましたが、レコンキスタ(再征服運動)が本格的に始動するのは11世紀末、教皇ウルバヌス2世の奨励を受けてからのことです。 この時期、数百年に及ぶ支配を経たコルドバのムーア人カリフ国は内紛により分裂し、無数のタイファ(群小王朝)へと崩壊していきました。一方のキリスト教諸王国は連携を強めます。

  • ヴェル・ディヴ・ラフル(ユダヤ人一斉検挙)のまとめ ― 1942年7月、占領下フランス最大の悲劇

    ヴェル・ディヴ・ラフルとは1940年にいわゆる「ユダヤ人法」が施行されて以降、占領地域に住むフランス国籍・外国籍を問わずすべてのユダヤ人は、パリでは警察署、地方では県副知事府への登録を義務付けられていました。この登録制度こそが、後の一斉検挙(ラフル)の基盤となりました。本件の検挙は、ヨーロッパ全土のユダヤ人絶滅政策の一環としてナチス政権の要求により実行されたものです。1942年7月、「春風作戦(Vent Printanier)」が発令され、当初はアムステルダム、ブリュッセル、パリのユダヤ人を同一日に一斉逮捕することが計画されていました。パリにおける逮捕は、国家警察総局長ルネ・ブスケが占領当局と

  • ジョセル王の階段ピラミッド――世界初のピラミッドがサッカラに誕生した理由

    写真提供:©Olaf Tausch, 2009ジョセルは、エジプト古王国第3王朝期の紀元前2650年頃に即位した、同王朝2代目のファラオです。その治世のもとで国は統一されました。首都メンフィスからほど近いサッカラのネクロポリス(死者の町)は、古くから歴代国王の墓が造営されてきた土地です。王墓は洪水を避けるため、そして「日没の地=治世の終わり」を象徴する地として、市街の外れ、砂漠に面した台地上に建てられました。当時の王も貴族も、「マスタバ」と呼ばれるエジプト固有の墳墓に葬られていました。紀元前2650年頃登場人物ジョセル(ファラオ)イムホテプ(大宰相・建築家)建設の経緯それまでのマスタバは、日干

  • アルジェのクーデター(将軍たちの反乱)1961年――経緯と結果を解説

    1961年4月21日の夜、フランス領アルジェリアの首都アルジェで、フランス軍の現役・退役将軍たちが武装蜂起し、ド・ゴール政権の転覆を図りました。この事件は「アルジェのクーデター(プチ・デ・ジュネロ)、通称『将軍たちの反乱』」として知られています。ここでは、その背景から経過、そして結果までをわかりやすく解説します。 背景:アルジェリア戦争と独立運動 1954年にアルジェリア戦争が勃発しました。しかし、第二次世界大戦の終結以降世界的に進んでいた脱植民地化の流れに対し、戦争が激化するなかで歴代政府は有効な対応策を見いだせないまま状況を迎えていました。 軍事的にはフランスに有利な局面もありました

  • エミール・ゾラ「J'accuse(私の告発)」の出版――ドレフュス事件を変えた歴史的公開状

    ドレフュス事件とは何だったのか1894年、アルザス出身のユダヤ系フランス軍参謀将校アルフレッド・ドレフュスは、フランスの軍事機密をドイツに漏らした容疑をかけられ、有罪判決を受けて投獄されました。しかし家族は彼の無実を証明する弁護活動を展開し、真犯人がヴァルサン・エステラジー少佐であることを突き止めます。この事実は、情報部門の責任者ジョルジュ・ピカール中佐によっても裏付けられました。ドレフュスへの支援が広がるにつれ、陸軍首脳部はやむなくエステラジーを軍法会議にかけますが、彼は無罪となり、ドレフュスは投獄されたまま取り残されました。大規模な報道合戦を経て、フランス社会は二つの勢力に分裂します。将校

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