世界史

ヨーロッパの歴史

  • 生きた記憶――国際旅団元隊員が語るスペイン内戦の思い出

    97歳の証言者、ジョセップ・アルムデベル氏が当センターを訪問先週の月曜日、国際旅団の元隊員であるジョセップ・アルムデベル(Josep Almudéver)氏が当センターを訪れました。バレンシア出身の両親を持つフランス人である彼は、17歳のときに書類を偽造して国際旅団に参加し、スペイン内戦を戦い抜きました。終戦後には、反フランコ・ゲリラ抵抗運動「マキ」としても活動を続けています。97歳となった今も、彼は驚異的な明晰さと記憶力を保ち続けており、両親の故郷であるスペインの地でファシズムと戦う決意を促した理念への忠誠を貫いています。また、存命するごく少数の元旅団隊員の一人として、当時の生の証言を語れる

  • 1866年の経済危機――イサベル2世の治世を終わらせ、1868年革命を引き起こした金融恐慌

    はじめに:歴史の転換点となった経済危機 1866年にスペインを襲った経済危機は、同国の歴史的サイクルが大きく転換する上で極めて重要な役割を果たしました。この危機は、スペイン女王イサベル2世の治世における最終的な政治的危機を決定づけ、わずか2年後の1868年9月に勃発する「栄光の革命(ラ・グロリオーサ)」の直接的な引き金となったのです。 この危機は単なる一時的な景気後退ではなく、国際的要因と国内要因が複雑に絡み合った構造的なものであり、その影響は経済にとどまらず、王政そのものの存続を脅かすほど深刻でした。 国際的要因:欧州金融恐慌との連動 1860年代半ばのヨーロッパでは、金融市場をめぐる不安

  • スペイン政治移行期(1975~1996年)における経済の変遷

    政治移行期とスペイン経済の歩みスペイン史の最終テーマとなるのが、政治移行期(1975年~1996年)の分析です。この時期、スペイン経済は深刻な危機を二度経験しました。現在の危機ほどではありませんが、国家の将来を左右しかねない重大な局面でした。以下のグラフは、この時期のスペインのGDP推移を示しており、その分析から次のような結論を導き出すことができます。出典:EL PAIS、2010年8月5日付石油危機とモンクロア協定政治移行期の初期は、第一次石油危機(1973年)の影響がスペインに波及した時期と重なります。1979年および1981年の景気後退は、まさにこの石油危機が原因でした。当時の経済的困難

  • 1909年スペイン「悲劇の一週間」とバランコ・デル・ロボの戦い――アルフォンソ13世統治最初の危機

    悲劇的一週間(セマナ・トラヒカ)とは1909年夏にバルセロナを中心として発生した「悲劇的一週間」(Semana Trágica)は、アルフォンソ13世の治世における最初の重大な政治危機であり、マウラ保守政権の崩壊につながった歴史的転換点でした。リーフ戦争とバランコ・デル・ロボの敗北この危機が深刻化した背景には、モロッコ北部でのリーフ戦争において、スペイン軍がバランコ・デル・ロボ(狼の谷)で受けた壊た壊滅的な軍事的敗北の報道が大きく関係していました。戦況悪化の知らせが国内に伝わると、徴兵への反発と民衆の怒りが爆発し、ストライキや暴動へと拡大していきました。政権への打撃と歴史的意義政府による厳しい

  • アヌアルの惨事――スペイン復古体制を揺るがした歴史的大敗北

    「アヌアルの惨事」として知られるこの出来事は、スペイン復古体制(レストラシオン体制)が直面することになる最終的危機の幕開けを象徴するものでした。1921年7月22日、モロッコ北部のリーフ地方で発生したこの戦いにおいて、スペイン軍はアブド・エル・クリム率いるリーフ部族勢力による猛攻を受け、将兵1万人以上が戦死または捕虜となる壊滅的な打撃を被りました。スペインの植民地支配の歴史の中でもまれに見る大敗北であり、その衝撃は国内に大きな波紋を広げました。モロッコ戦争(リーフ戦争)の文脈におけるこの重大な軍事的敗北は、単なる前線での失態にとどまらず、軍隊から王朝政党(保守党・自由党)に至るまで、復古体制を

  • スペイン海外帝国の終焉――1898年、400年の歴史に幕を下ろした日

    画像出典:www.segunlospadresloshijos.com/…/tag/historia/ 1898年の米西戦争で敗北したスペインは、同年12月10日に調印されたパリ条約において、当時急速に台頭しつつあった新興国アメリカ合衆国へ、キューバ、プエルトリコ、フィリピン、そしてグアム島を譲り渡しました。 さらに翌1899年には、太平洋に残されていた帝国最後の拠点――カロリン諸島、マリアナ諸島(グアムを除く)、そしてパラオ――をドイツへ売却します。こうしてスペインは、かつて「太陽の沈まぬ国」と謳われた旧植民地帝国の清算を完了したのです。 パリ条約(1898年)――米西戦争の決着 米西戦争

  • 民主党政権の年表でたどる3年3か月――政権交代から退陣までの全軌跡

    2009年から2012年まで約3年3か月続いた民主党政権は、期間こそ短いものの、政権交代、東日本大震災、原子力発電所事故、消費税増税の決断など、日本の戦後政治史における重大な出来事がぎっしりと詰まった時代でした。年表という時間軸を使ってこの時期を整理することで、激動の政治的変動をより深く、わかりやすく理解することができます。 民主党政権とはどんな時代か 民主党政権は、2009年8月30日執行の第45回衆議院総選挙で自由民主党に圧勝したことを受け、同年9月16日に鳩山由紀夫内閣が発足したことで幕を開けました。戦後日本で初めて本格的な政権交代が実現し、「政権を選べる政治」への大きな期待が寄せら

  • スペイン帝国の残滓――北アフリカに残る旧領土の歴史

    出典:EL PAÍS、2012年9月9日付世界帝国から二流国家へ――スペインの栄光と衰退16世紀から17世紀前半にかけて、スペインは疑いなく世界最初の覇権国家でした。しかし17世紀後半以降、18世紀を通じて、国際舞台におけるスペインは次第に二流の勢力へと転落していきます。そして19世紀初頭、アメリカ大陸植民地の喪失によって状況は根本的に変化し、スペインはもはや国際舞台どころか、ヨーロッパにおいてすら二流の国となってしまったのです。19世紀末に残されたわずかな植民地19世紀の時点でスペインの手に残っていた植民地は、ギニア(のちの赤道ギニア)、西サハラ沿岸地域、キューバ、プエルトリコ、フィリピン、

  • 書類が語る23-F――テヘロ中佐の議会襲撃とスペイン民主化の危機

    1981年2月23日、若い民主主義が試された夜1981年2月23日に発生したクーデター未遂事件、いわゆる「23-F」は、フランコ独裁後のスペインが民主化へと歩んだ移行期(トランシシオン)における決定的な転換点となりました。誕生して間もない若い民主主義は、旧来の権威主義体制を望む最も反動的な勢力による武力攻撃にさらされましたが、ついに屈することなくこれを退けました。下院書記官たちの証言が伝える議事堂占拠の一部始終この歴史的事件を理解するうえで貴重な一次資料となるのが、当時の下院(代議院)書記官たちの証言をもとにまとめられた公式記録です。民防衛隊(グアルディア・シビル)のアントニオ・テヘロ中佐が武

  • プリム将軍暗殺の謎――死因は銃弾ではなく「絞殺」だった?

    歴史には、当時の文脈の中では目的がよく理解されているはずの出来事でありながら、後から与えられる説明に説得力がないため、疑惑の影が垂れ込めるケースがある。そう、「陰謀」である。歴史は小さな陰謀に満ちているが、時折、暗殺という形をとる大きな陰謀も存在する。その一部は永遠に闇の中に葬られ、また一部は長い歳月を経てようやく真相が明かされる。スペインのフアン・プリム将軍の暗殺も、まさにその一例だ。プリムの政治的役割については広く知られているが、見過ごせないのは、彼の死がスペインにおける近代立憲君主制の樹立を断ち切ったという事実である。アマデオ1世が象徴する君主制モデルに好意的でなかったスペインの政治寡頭

  • 20世紀初頭のスペイン史年表――重要な出来事を時系列で理解しよう

    これから、20世紀のスペインの歴史について学んでいきます。この時代に入る前に、まず世紀初頭の年表を大まかにつかみ、それぞれの歴史的な出来事がいつ起こったのかを正確に位置づけられるようにしておくことが大切です。歴史は個々の出来事の暗記ではなく、出来事と出来事のつながりを理解することで初めて深く学べるものだからです。 なぜ年表が必要なのか 20世紀初頭のスペインは、激動の時代でした。1898年の「98年の惨事」でキューバやフィリピンなど最後の植民地を失ったスペインは、国の再生(レヘネラシオン)を求める声が高まりました。1902年にアルフォンソ13世が親政を開始すると、政治的混乱、社会不安、労働運動

  • 18世紀スペインへのアプローチ:生存危機、啓蒙思想と旧体制の危機

    新学期がもうすぐ始まります。詳細については追ってお伝えしますが、まずはカリキュラムが18世紀スペインの歴史の学習から始まることをお知らせしておきます。そこで、学習のウォームアップとして、このテーマに関する重要な論点をまとめた3つの概念マップをご紹介します。 1. 生存危機(サブシステンス・クライシス) 最初の概念マップは「生存危機」についてのものです。生存危機とは、前資本主義経済に典型的に見られる経済的特徴であり、経済メカニズムが人口動態の諸要素と相互に関連し合う現象です。この危機は、旧体制(アンシャン・レジーム)下の社会発展を阻む大きな要因となりました。凶作や疫病、戦乱などが重なるたびに、

  • 第二共和政の教育使節団――文化と知による自由への挑戦

    教育と文化の遅れという百年の課題20世紀初頭のスペイン社会が抱えていた最も深刻な欠落の一つが、教育と文化の分野でした。高い非識字率、教育インフラの不足、諸芸術への無関心、科学に対する関心の薄さ——これらはすべて、スペインの近代化とヨーロッパ水準への仲間入りを妨げる大きな足かせとなっていました。1931年、共和政政府の本格的な改革この問題に真剣に取り組んだ最初の政権こそ、1931年に成立した共和政政府でした。第二共和政の最初の2年間(第一バイエンニオ)における改革プログラムは、教育と大衆文化の向上に大きな影響を及ぼしました。政府は学校の新設と教員養成への投資を拡大する一方で、より独創的な施策も展

  • フランコ体制の基本法とは?憲法なき独裁国家を支えた法体系の全体像

    はじめに:憲法を持たなかったフランコ体制 フランコ体制(フランキスモ)は、その始まりから終わりまで一貫して民主的な政治制度ではありませんでした。そのため、議会制民主主義のように政治・社会関係・経済などを包括的に管理するための統一的な法体系、すなわち「憲法」を持つことはありませんでした。国家の根幹を成す憲法が存在しなかったことは、この体制の本質を示す重要な特徴といえます。 ファシズムに由来する全体主義的性格 フランコ体制の起源は、イタリアやドイツのファシスト独裁政権に匹敵する全体主義的なものであり、この性格は体制が存続した全期間を通じて潜在的に残り続けました。 しかし、第二次世界大戦でイタリア

  • フランコ政権下における個人崇拝――プロパガンダと情報操作の実態

    フランコ政権の特徴的要素としての個人崇拝フランシスコ・フランコ政権を特徴づける顕著な要素の一つが、フランコ個人に向けられた徹底的な「個人崇拝」でした。これは、あらゆる全体主義体制に共通して見られる本質的な特徴です。指導者への非合理的な賛美、個人の生活のあらゆる側面を統制しようとする意志、そして支配者の政治的・イデオロギー的利益に沿うよう情報を操作することは、いずれも全体主義に固有の性質といえます。プロパガンダ装置と強制による統治こうした政策は、大規模な宣伝機構――新聞、ラジオ、記録映画(ノートゥシエロ/NODO)など――の活用と、強制的な手段の両方によって支えられていました。中でも象徴的な存在

  • ゲルニカ爆撃から75年――スペイン内戦の象徴となった悲劇の理由

    1937年4月26日、フランコの命令を受けたナチス・ドイツのコンドル軍団所属の航空機が、バスク地方の小さな町ゲルニカを爆撃し、町は文字通り瓦礫と化しました。今年であの惨劇から75年となります。しかし、なぜ軍事的価値がほとんど、あるいはまったくないこのバスクの小都市の破壊が、スペイン内戦における最重要の転換点の一つとなったのでしょうか。それにはいくつかの答えがあります。なぜゲルニカは象徴となったのか1. 論争そのものが高めた象徴性第一に、この事件は多様な解釈を生み出したため、きわめて論争的な出来事となりました。軍事目標が存在しない町への無差別破壊は、当時の世論に説明することが極めて難しい新たな類

  • フランコ政権の年表(1939〜1975):重要出来事を時系列で整理

    この年表は、スペインのフランコ政権期(1939年〜1975年)を二部構成でまとめたもので、この時代における最も重要な出来事を時系列に沿って把握するのに役立ちます。歴史の試験対策や復習の補助教材としても活用できる、実用的な資料です。前半:政権の確立から国際的孤立まで(1939〜1950年代)1939年のスペイン内戦終結とともに、フランシスコ・フランコによる独裁体制が確立されました。第二次世界大戦中は形式的な中立を維持しながらも枢軸国側に接近しましたが、連合国の勝利後は国際社会から孤立を深めることになります。後半:経済成長から政権の終焉へ(1960年代〜1975年)1950年代末以降の開放政策によ

  • 15M運動1周年──スペインで生まれた市民の声は何を変えたのか

    15M運動(インディグナードス運動)の開始から、まもなく1年が経とうとしています。昨年5月にスペインで突如として生まれたこの運動は(2011年4月4日および5月21日の記事を参照)、社会科学の研究者たちと、当時のスペインの政治・経済状況に疲弊していた一般市民の双方から大きな関心を集めました。15M運動は、あらゆる先進社会を内側から覆っていた不満を表現するものでありながら、政党や労働組合といった従来の民意代表の仕組みには決して映し出されることのない声でした。スペインから世界へと波及し、反グローバリゼーション運動やいわゆる「アラブの春」など、他の社会運動との共通点も指摘されるようになりました。確か

  • アヌアルの惨劇とモロッコ・スペイン保護領――リフ戦争が残した歴史的教訓

    スペイン閣僚評議会は、第14アルカンタラ騎兵連隊に対して重要な集団軍事勲章を授与しました。この連隊は、1921年のアヌアルの戦い(いわゆる「アヌアルの惨劇」)において、友軍の撤退を支援し、壊滅的な敗走の中にあっても際立った勇気と献身を示したことで高く評価されています。アヌアルの惨劇とは何だったのかアヌアルの戦いは、リフ戦争と呼ばれる紛争の一部であり、当時のモロッコ・スペイン保護領で展開された植民地戦争でした。この戦いでスペイン軍は壊滅的な打撃を受け、多数の犠牲者を出すことになりました。リフ戦争はスペイン国内で極めて不人気な戦争でした。その背景には、膨大なスペイン人犠牲者の存在に加え、富裕層だけ

  • ミュンヘンの陰謊(陰謀)とは?フランコ体制を揺るがした1962年の親欧州会議

    フランコ体制への抵抗の歴史において、いわゆる「ミュンヘンの陰謀」と呼ばれる出来事は重要な転換点となりました。その正体は、1962年6月に西ドイツのミュンヘンで開催された、反フランコを掲げるスペイン人による親欧州国際会議です。国内と国外の野党勢力が初めて結集この会議の最大の意義は、スペイン国内の民主化勢力(内部反対派)と、亡命先から活動する反対派(外部反対派)が初めて一堂に会したことにあります。さらに、王党派、自由主義者、社会民主主義者、キリスト教民主主義者など、あらゆるイデオロギー的潮流の代表者が集まり、思想の違いを超えた連帯を示しました。ただし、共産党は正式メンバーではなく、オブザーバーとし

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