世界史

ヨーロッパの歴史

  • 325年開催!ニカイア公会議の重要性をわかりやすく解説

    日本の世界史の教科書には、ローマ最大の会戦とされるファルサルスの戦いに関する記述がほとんど見られません。ところが同時に、ニカイア公会議に触れていない教科書は一冊もありません。 これは、ローマ帝国の命運そのものよりも、キリスト教の教義を確定させたこの会議の方が、教科書の編集者にとって重要だと考えられていることを物語っています。 現在、世界を支配しているのは「WASP(ワスプ)」だと言われます。これはWhite Anglo-Saxon Protestant、すなわち「白人・アングロサクソン系・プロテスタント」の頭文字を取った言葉で、イギリスとアメリカの支配層を指します。第二次世界大戦に敗れた日本

  • 313年!キリスト教を公認し、信教の自由を保障した「ミラノ勅令」とは?わかりやすく解説

    大学入試センター試験などでは、「ミラノ勅令によってキリスト教は国教化された」〇か×かという問題がよく出題されます。 答えは×。ここは多くの受験生がつまずきやすいポイントですが、ミラノ勅令はキリスト教を公認したからといって、それだけで国教化を意味するわけではありません。 そもそもミラノ勅令は、キリスト教に限らずすべての宗教を公認し、ローマ帝国内における信教の自由を確認した勅令です。「キリスト教の公認」であると同時に「信教の自由の保障」でもあった――これが正確な理解です。 さらに、発布者をコンスタンティヌス1世一人とするのも厳密には誤りです。ミラノ勅令は、コンスタンティヌス1世とリキニウスがミラ

  • ローマ帝国の四分割統治(テトラルキア)の始まりから終わりまで徹底解説!

    ローマ帝国は、「3世紀の危機」と呼ばれる激動の時代に、わずか50年間で実に25人もの皇帝が次々と命を落とす、軍人皇帝の時代が続いていました。この混乱に終止符を打ったのが、最後の軍人皇帝とも呼ばれるディオクレティアヌスです。彼は、広大なローマ帝国を一人の皇帝の力で統治することは不可能だと判断し、まずマクシミアヌスとの二頭政治(ディアルキア)によって帝国を東西に分けて統治しました。しかしそれでもなお、帝国全土の支配は困難だったのです。そこでディオクレティアヌスは、正帝(アウグストゥス)に加えて副帝(カエサル)を置き、四人の皇帝による四分割統治(テトラルキア)を開始しました。四人の皇帝による統治体制

  • コンスタンティヌス大帝の後継者たち――血にまみれたローマ帝国の継承戦争

    世界史的カリスマの死後、帝国は再び内乱の時代へ 「世界史的カリスマ」と評されることも多い皇帝コンスタンティヌス。しかしその死後、ローマ帝国は再び内戦の時代へと逆戻りしてしまいます。 コンスタンティヌス自身の生涯が血なまこしいものであったことは言うまでもありませんが、死後の帝国はさらにひどく、まさに「血みどろの一族」の様相を呈することになったのです。 コンスタンティヌスの後継者候補たち まず、コンスタンティヌス帝の後継者候補となった人々を列挙してみましょう。 クリスプス(長男):最初の妻ミネルウィナの息子 コンスタンティヌス2世(次男):皇后ファウスタの息子 コンスタンティウス2世(三男):

  • 改革者は『背教者』と呼ばれた!ローマ皇帝ユリアヌスの波乱の生涯

    ディオクレティアヌス帝が始めた四分統治(テトラルキア)は、コンスタンティヌス大帝によって一人支配へと戻されました。しかし、その後継者たちは再び分割統治へと移行し、血みどろの権力闘争を繰り広げることになります。そんな激動の時代の中で、状況を「支配」するのではなく「生き延びた」男こそが、皇帝ユリアヌスでした。幽閉された幼少期ユリアヌスの父・ユリウス・コンスタンティウスは、初代コンスタンティウス帝の息子であり、コンスタンティヌス大帝の異母弟にあたります。初代コンスタンティウス帝は、最初の妻ヘレナと離婚し、皇帝マクシミアヌスの娘テオドラと再婚しました。コンスタンティヌスはヘレナとの間に生まれた子であり

  • ローマ帝国の黄昏――ウァレンティニアヌス1世、ウァレンス、グラティアヌス、ウァレンティニアヌス2世の治世

    ユリアヌス帝がペルシア遠征の途上で没すると、ヨウィアヌスが短期間帝位に就きました。その後を継いだのがローマ帝国皇帝ウァレンティニアヌス1世です。本記事では、彼と弟ウァレンス、息子グラティアヌス、そしてウァレンティニアヌス2世という四人の皇帝の治世を通じて、西ローマ帝国滅亡へ向かう激動の時代を振り返ります。ローマ帝国初のゲルマン系皇帝ウァレンティニアヌス1世ローマ人の強さは、敵でさえも同化させてしまう点にありました。王政の時代以来、ローマはラテン人やエトルリア人によって率いられてきましたが、最大の宿敵ともいうべきゲルマン人が皇帝の座に就いたのは、この時が初めてです。ウァレンティニアヌス1世は、現

  • 第6代ローマ皇帝ガルバ――わずか7か月で終わった老帝の短すぎた治世

    ネロの死とユリウス・クラウディウス朝の崩壊 皇帝ネロの死とともに、初代アウグストゥス以来続いたユリウス・クラウディウス朝という政権は崩壊しました。 ネロの存命中、政治的な混乱はすでに相当なものでしたが、ネロの死後のローマにおける混乱は、それをはるかに上回る規模となります。 わずか1年の間に3人の皇帝が交代し、ローマは前例のない危機に見舞われ、再び内戦へと突入していきました。後世の歴史家たちはこの激動の時期を「四皇帝の年」と呼んでいます。 名門貴族の模範としてのガルバ ローマには「クルスス・ホノールム(名誉の道)」と呼ばれるキャリアパスがありました。これは文字どおり「栄誉への階段」であり、エリ

  • その治世はわずか3か月!ローマ帝国第7代皇帝オトの激動の生涯

    ローマ帝国第7代皇帝オト。彼は、ネロ帝の死後わずか1年の間に皇帝が次々と交代した「四皇帝の年」(西暦69年)において、2番目に帝位に就いた人物です。 長年にわたり皇帝ネロと親しく交わってきたオトでしたが、ある出来事をきっかけに両者の関係は決定的に悪化します。 ネロに妻を奪われる 実は、似たような話は初代皇帝アウグストゥスにもありました。アウグストゥスはリウィアという女性と結婚するため、その夫であるクラウディウス家の一員に離婚を持ちかけ、夫側もこれを受け入れたといわれています。 そしてネロもまた、美しい女性ポッパエア・サビナと結婚したいがために、同じような提案をオトに行ったのです。 オトはこれ

  • 大食漢の第8代ローマ皇帝ヴィテリウス――無能ゆえに帝位に就いた男の生涯

    ラテン語読みなら「ウィテッリウス」となるようですが、当ブログでは独自の表記方針に従い、ここでは「ヴィテリウス」と表記します。 皇帝ネロの死後、ローマは「四皇帝の年」と呼ばれる激動期に突入します。わずか一年の間に三人の皇帝が相次いで倒れ、その最後の一人となったのがヴィテリウスでした。 帝国最強のゲルマニア軍団を率いた総督 ローマ帝国にとって、建国から滅亡まで一貫して潜在的な脅威であり続けたのがペルシアとゲルマンです。ペルシアはパルティア朝やサーサーン朝といった文明国家だったため、外交や戦略である程度対応できました。ところがゲルマン人は幾つもの部族に分かれて統一がなく、そもそも交渉が成立しません

  • ローマに光を取り戻した第9代皇帝ウェスパシアヌスは、もう少し評価されてもよいのではないか

    世界史の教科書には、ネロやテオドシウスの名前は必ずと言っていいほど登場します。ところが、私の知る限り、ウェスパシアヌスの名前が載っている世界史の教科書はほとんどありません。 おそらく、ウェスパシアヌスの時代には目立った出来事がなかったからでしょう。しかし、「目立たない」ということは、裏を返せばどういう意味なのでしょうか。 今回は、第9代皇帝ウェスパシアヌスの治世をじっくりと振り返ってみたいと思います。 エリート街道を歩みながら、ネロに嫌われた男 ウェスパシアヌスのキャリアは、いわば順風満帆なエリートコースそのものでした。ローマの名誉ある出世階梯「クルスス・ホノルム」に沿って、若くしてクァエ

  • 隠れた名君!ローマ帝国第10代皇帝ティトゥスの優れた政治とは

    ウェスパシアヌスに始まるフラウィウス朝の第2代皇帝ティトゥス。在位はわずか2年と短かったにもかかわらず、激動の出来事の数々と優れた政治によって、後世に強い印象を残した皇帝です。 帝室とともに育まれた少年時代 父ウェスパシアヌスは名門貴族ではなく、エクイテス(騎士)階級の出で、賃貸の集合住宅で生まれたともいわれます。しかし、クラウディウス帝の秘書官ナルキッソスに気に入られていた縁から、ティトゥスは皇帝の息子ブリタンニクスとともに宮廷で教育を受けたといいます。 小柄ながら均整の取れた体格だったとされるティトゥスの人柄は、この宮廷時代に形成されたのかもしれません。その後は父の地方赴任に伴って各地を

  • ローマ最後の名将スティリコ――無敵の将軍はなぜ処刑されたのか

    西暦395年、皇帝テオドシウスの死とともにローマ帝国は東西に分割されました。東は長男アルカディウスが、西は次男ホノリウスがそれぞれ統治することになります。世界史の教科書にはここまでしか書かれていません。しかし実は、このときアルカディウスは18歳、ホノリウスはまだわずか10歳だったのです。さらに受験生が知る由もないのが、テオドシウス帝の姪にして養女であるセレナを妻とした将軍スティリコの苦闘です。西ローマ帝国が滅亡するまでには約80年の歳月がありますが、その間、帝国の命運を支え続けたのが「ローマ最後の名将」スティリコでした。今回は、悲劇的な最期を遂げたスティリコの生涯を見ていきましょう。ヴァンダル

  • ローマ史上最高の名将と称されるグナエウス・ドミティウス・コルブロの生涯と功績

    暴君として知られるネロも、即位から最初の5年間は「善政の時代」と呼ばれるほど優れた統治を行っていました。哲学者セネカとともにその治世を支えた人物のひとりこそ、本記事の主役であるグナエウス・ドミティウス・コルブロです。キリスト教徒迫害などの逸話から暴君の印象が強いネロですが、実は自分を支えてくれたセネカやコルブロまでも処刑・粛清しています。本記事では、ローマ史上屈指の名将と評されるコルブロの生涯をたどりながら、彼がいかに偉大な将軍であったのかを見ていきます。名将コルブロの経歴コルブロは共和政ローマ時代に特に名高い名家の出というわけではありませんでしたが、父は法務官(プラエトル)を務めた経験を持つ

  • フン族の大王アッティラの生涯とカタラウヌムの戦い――「蛮族」のイメージを覆す教養豊かな王

    ゲルマン民族の大移動が西ローマ帝国滅亡の一因となったことはよく知られていますが、その大移動の発端をつくったのは、モンゴロイド系の遊牧民であるフン族の圧力でした。猛威を振るう強大なフン族と戦うよりも、衰えつつあるラテン系のローマ人を相手にする方がはるかに楽だと考えたゲルマン人たちは、帝国内への移住を選んだのです。そんな凶猛な種族フン族の中に、「大王」と呼ばれる一人の男が現れます。それがアッティラです。後世の数多くの創作に登場し、ヨーロッパを恐怖の底へ突き落とした男の生涯を、ここで振り返ってみましょう。フン族の大王アッティラ一説によれば、アッティラたちフン族と日本人は、同じ祖先を持つ同系の民族なの

  • 西ローマ帝国を滅ぼした男・オドアケルの生涯 ―「パックス・バルバリカ」とその最期

    世界史の教科書には、必ずと言っていいほど「西ローマ帝国を滅ぼした男」として登場するオドアケル。しかし、その人物像や生涯の詳細については、意外にもよく知られていません。興味深いことに、テオドシウス帝の時代にローマの文化や慣習が変質して以降、歴史を記録に残すという習慣自体が失われたようで、紀元前のユリウス・カエサルの時代の方が、むしろ詳細な記録が残っています。歴史とは、こういうところが面白いのです。出自は謎に包まれたゲルマン人ローマ帝国の衰退とともに、時代の主役はラテン人からゲルマン人へと移っていきました。この時期に名を残したゲルマン人、たとえばアラリックやガイセリックは、いずれも部族の族長あるい

  • ローマを包囲した男!西ゴート族の王アラリックと「永遠の都」陥落の真相

    テオドシウス大帝以降、教科書に名を連ねるようなローマ皇帝は現れなくなりました。ところが興味深いことに、この時代のゲルマン人指導者の名前は数多く残っています。それも当然のことです。この時期に頭角を現した人々こそが、後のフランス、スペイン、ドイツといった国家の礎を築いたからです。今回の主役であるアラリックもその一人で、西ゴート族の初代王(Rex)となりました。西ゴート族は後にイベリア半島を支配し、現在のスペインの原型を形作っていきます。スティリコとの三すくみアラリック率いる西ゴート族は、ローマ軍に組み込まれることになりました。当時のローマ帝国では、傭兵から正規兵までその多くがゲルマン人であり、「味

  • 古代ローマの「記録抹消刑」ダムナティオ・メモリアエとは? 歴史から名を消された人々

    現代の法体系の基礎を築いたのは、古代ローマ人でした。言論の自由、私有財産制度、経済活動の自由、信教の自由など、現代において当たり前とされる権利の多くは、ローマ人の法文化に由来しています。これを土台としてイギリス、フランス、アメリカ、ドイツなどが各国の法律を整備し、日本も明治時代にそれらを参考に近代的な法体系を作り上げました。早稲田大学や中央大学をはじめ、明治大学や法政大学といった関東の主要大学が、もともと法律学校として開学したことからも、その影響の大きさがうかがえます。大学の法学部教授の中には、ラテン語を読みこなせる人が少なくありません。そんな現代まで多大な影響を与えてきたローマ法の中でも、ひ

  • スエトニウスとは?『ローマ皇帝列伝』を著した古代ローマの歴史家の生涯

    ローマの歴史を描いた歴史書は数多く存在しますが、その中でもスエトニウスが残した『ローマ皇帝列伝(十二帝王伝)』は、ローマ史研究において貴重な史料の一つとされています。 この書物には、ユリウス・カエサルからドミティアヌスに至る12人の皇帝たちの姿が描かれています。 スエトニウス自身は、トラヤヌス帝からハドリアヌス帝の時代にかけて活動した人物です。同時代よりも前の歴史を扱ったためか、その記述にはゴシップ的な色彩が強く、現代では史実としての裏付けは必ずしも高いとはいえないと評価されています。 また、スエトニウスの記述の影響で、不当な評価を受けてしまったとされる皇帝も少なくありません。中でもティベリ

  • タキトゥス――古代ローマ最高の歴史家とその生涯

    古代ローマ史を語るうえで欠かせない存在が、歴史家タキトゥスです。現在「ローマ史」として知られる記録のうち、初代皇帝アウグストゥスから三人の皇帝の時代にかけての記述は、その大部分がタキトゥスによるものが採用されています。タキトゥスの著作は、当時のローマの姿をありのままに伝える貴重な一次史料であり、私たちは彼の筆を通じてローマの歴史を知ることができるのです。元老院議員としてのタキトゥス実は、タキトゥス自身の出自についてはほとんど分かっていません。特に出生に関しては完全な謎に包まれており、小アジア(アナトリア半島)の出身ではないかと考えられています。伝統的な貴族階級であるパトリキではなく、第二階級に

  • カースス・ホノルムとは?共和政ローマの名誉あるエリート登竜門を徹底解説

    王のいない国家、共和政ローマの政治体制共和政ローマには王が存在しませんでした。政治は、任期1年の二人の執政官(コンスル)が元老院の助言を受けながら運営するのが基本でした。さらに特筆すべきは、執政官をはじめとする重要な公職が無報酬だったという点です。名誉こそが報酬であり、執政官にいたる一連の出世コースは「カースス・ホノルム(名誉のコース)」と呼ばれ、ローマ人にとって最も栄誉ある道とされていました。現代日本に例えると?このカースス・ホノルムを現代日本に置き換えるとどうなるでしょうか。官僚として東大法学部から事務次官を目指すコースか、それとも政治家として総理大臣を目指すコースか。しかし、どちらもカー

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