世界史

北米の歴史

  • アステカの宗教の歴史|人身供犠と暦に見る古代メキシコの信仰

    メキシコの先住民の中でも、アステカ人は最も熱心に神々を崇拝していた民族です。スペイン人が到来した16世紀初頭の時点で、アステカの宗教はすでに多様な信仰と祭祀が融合した複合的な体系となっていました。中央メキシコの農耕民族が祀っていた農業の神々と、好戦的な戦士民族が信奉する天体の神々が、ひとつに統合されていたのです。人身供犠の儀式アステカの宗教を語るうえで欠かせないのが人身供犠(生贄の儀式)です。その一例として、毎年、戦争で捕らえた捕虜のうち最も勇猛とされた者が神に捧げられました。処刑の当日、彼は行列の中で笛を奏でながら進み、司祭たちと四人の美しい乙女に付き添われたといいます。高度な文化アステカ人

  • アステカ族の秘密――湖に浮かぶ帝国テノチティトランの栄光と謎

    アステカ族は、考古学者たちを魅了し続けるとともに、その突然の滅亡をめぐって数々の憶測を呼んできた謎めいた民族です。勤勉さと篤い宗教的信仰によって特徴づけられた彼らは、伝説によればメキシコ北西部の「アスラン(アストラン)」と呼ばれる地域にルーツを持ちます。小さな狩猟民から帝国へ――アステカ族の起源高度な文明を築いたトルテカ人の直系の後継者とされるアステカ族は、もともと狩猟や採集を営む小さな部族にすぎませんでした。しかし1325年、彼らは中央メキシコへと移り住み、そこで先進的な自給農業を発展させ、やがて中米屈指の帝国を築き上げることになります。驚異の発明「チナンパ(浮き畑)」とはアステカ族の発明の

  • アステカ帝国の地図 – 最盛期(1519年)の歴史地図を徹底解説

    アステカ帝国最盛期の地図(1519年)こちらの地図は、スペインの征服者エルナン・コルテスが1519年にメキシコへ到着した時点、すなわちアステカ帝国が最も栄華を極めていた時期の勢力範囲を示した歴史地図です。当時のアステカ帝国は、中央メキシコを中心として、メキシコ湾岸から太平洋岸にまで及ぶ広大な支配圏を築き上げていました。アステカ帝国の領土と勢力範囲アステカ帝国は、正確には「三国同盟」と呼ばれる都市国家連合でした。これは、湖上の首都テノチティトランを盟主とし、テスココとトラコパンの2つの都市がこれに加わる形で成立しています。15世紀後半から16世紀初頭にかけて、同盟は軍事力と巧みな外交を駆使して周

  • アステカの政治体制とは?君主制と皇帝の役割をわかりやすく解説

    アステカの政治体制:君主制による統治アステカの政治体制は君主制でした。大きな特徴として、皇帝の後継者は単純な世襲ではなく、「王族(ロイヤル・ハウス)」と呼ばれる支配者一族の中から、評議会によって選出されていた点が挙げられます。つまり、支配者血統に属する人物であれば誰でも後継者の候補となり得たのです。テノチティトラン:帝国の政治的・宗教的中心地アステカの政治と精神生活の中心となったのは、湖上の島に築かれた都市テノチティトランです。この名前は「棘のあるサボテン(ウチワサボテン)の場所」を意味し、アステカ帝国の首都として大きく繁栄しました。隣接するトラテロルコとともに、帝国の経済・宗教活動の拠点でも

  • アステカの教育制度とは?カルメカックとテルポチカリ、独自の文字と書物の歴史

    アステカにおける教育の特徴アステカ帝国では、教育は司祭たちによって完全に管理されていました。宗教と生活が密接に結びついたアステカ社会において、司祭は知識の保持者として、若者の育成に中心的な役割を果たしていました。特筆すべきは、身分に関係なく子どもたちが学校へ送られた点であり、当時の世界でも非常に先進的な制度だったといえます。二つの主要な学校カルメカック(Calmecac)「カルメカック」は、男女の子どもたちに宗教的・公的な職務を担う人材としての教育を行う特別な学校でした。ここでは暦の読み方、神話、祭祀の作法といった高度な知識が教えられ、将来の司祭や指導者を養成する場となっていました。テルポチカ

  • アステカの運命観――暦の守護者に読み解かれた人生

    アステカの運命観:暦の守護者に読まれた人生アステカの人々は、「日々の守護者」、すなわち暦を司る神官には、人の運命を見通す力が備わっていると信じていました。そのため、子どもが生まれると間もなく、親はその子を守護者のもとへ連れて行き、その子の一生の運命を読み解いてもらうのが習わしでした。生まれた瞬間から始まる運命の読み解き読み解かれた運命は、その後の人生におけるあらゆる重要な決断の指針となりました。旅に出るべきか、誰と恋に落ちるか、誰を結婚相手に選ぶか――そうした場面では、まず自らの運命の記録を確認し、運命に記されていない行動を取らないよう心がけたのです。この導きは生涯にわたって有効とされました。

  • アステカの敗北:コルテスが帝国を滅ぼせた理由

    アステカ帝国滅亡への道1492年、クリストファー・コロンブスによるアメリカ大陸の「発見」以降、スペイン王室に雇われ支援を受けた多くの航海者や冒険家たちは、新大陸の富を求めて大西洋へと乗り出していきました。その一人が、アステカ帝国を征服し、アステカの敗北をもたらしたエルナン・コルテス(Hernán Cortés)です。1519年、コルテスの上陸と征服の開始1519年、当時モンテスマ2世が支配していたアステカの地に、コルテスは508人の兵士、馬数頭、大砲や火器などを携えて上陸しました。アステカ帝国征服の過程は1521年まで続くことになります。しかし、ヨーロッパ人と先住民との直接的な衝突が起こる前に

  • アステカの日常生活 - 庶民の暮らしから見るアステカ文明の歴史

    アステカの日常生活とはアステカ人の大多数は、現在のメキシコの奥地にある村々で暮らす先住民とよく似た生活を送っていました。家族は日干しレンガ(アドベ)や泥で造られた質素な家に住み、屋根には葦や藁が葺かれていました。豪華な神殿や都市部の繁栄が注目されがちなアステカ文明ですが、その基盤を支えていたのは、こうした素朴な農村の日常生活だったのです。家族内の役割分担父親は年長の子どもたちとともに畑仕事に従事していました。一方、母親は家事全般を担い、娘たちには家事の手伝いを通じて必要な技術を教え込みました。家の中では性別や年齢による明確な役割分担があり、それが共同体全体の秩序を支えていたのです。女性の仕事と

  • アステカ文明の歴史:テノチティトランの栄華とスペインによる征服

    アステカ文明とはアステカは、建築、暦と計算、文字、宗教を日常生活に深く取り込んでいた高度な文明でした。文化的には、それ以前に存在した諸文明の影響を色濃く受け継ぎ、既存の文化を吸収しながら独自の要素を加えて発展していきました。アステカ人の起源アステカ人は、コロンブス到来以前のアメリカ大陸において最も文明的で強力な民族の一つでした。彼らはメキシコ盆地、テスココ湖の島に定住しましたが、この地へたどり着くまでには長く緩やかな移動の歳月を要しています。故地は「アズトラン」と呼ばれる場所で、現在のアメリカ合衆国南西部に位置し、そこでは遊牧的な戦士部族として暮らしていました。一方、紀元後以降、メキシコ高原に

  • 偽物だった「アステカの頭蓋骨」――クリスタル・スカル伝説の真実

    文:Rainer Sousa西洋人の異文化への憧れと「宝探し」の時代他民族の物質文化を美化し、珍重する傾向は、西洋文化において古くから見られる現象です。19世紀、帝国主義の波に乗って世界各地へ進出した植民者たちによって、貴重な財宝や工芸品が次々と発見されると、探検家たちの欲望と人々の好奇心を一気にかき立てました。古代の謎めいた文明には、いったいどれほどの複雑さと価値が秘められているのでしょうか。「クリスタル・スカル」伝説の誕生こうした問いに触発された20世紀の探検家たちは、ミステリアスな「水晶の頭蓋骨(クリスタル・スカル)」の存在を語り始めました。発見された頭蓋骨は、当時の古代民族が持っていた

  • アステカ美術の歴史と特徴 – 太陽の石に見るメシカ帝国の芸術

    アステカ美術の概要アステカ美術は、14世紀から16世紀にかけてメキシコ中央高原で栄えたアステカ帝国(メシカ帝国)が生み出した芸術です。その遺跡からは、作品一つひとつの質の高さよりも、全体の規模の壮大さが強く感じられます。建築技術においてはマヤ文明ほど洗練されていなかったものの、数千人もの職人が絶えず働き、神殿や宮殿の建設と維持に携わっていました。建築の特徴アステカの小さな神殿は、土と石を積み上げた高くそびえるピラミッドの頂上に建てられ、階段が入り口へと続いていました。首都テノチティトランの中心部には、戦と太陽の神ウィツィロポチトリと雨の神トラロックを祀る「大神殿(テンポ・マヨール)」がそびえ、

  • 神々の飲み物――アステカ文明とチョコレートの歴史

    神々の飲み物 アステカの人々は、神ケツァルコアトルが天からカカオの豆を持ち下りてきて、人類への贈り物として授けてくれたと信じていました。彼らにとってカカオは、単なる食材ではなく神聖な存在だったのです。 4000年の歴史を持つカカオ カカオの木は4000年以上もの昔から存在していたことが分かっています。その種子は鳥や猿によって運ばれ、熱帯の森のあちこちに自然に広がっていきました。 ヨーロッパ人との運命の出会い 1502年、クリストファー・コロンブスがカカオを口にした最初のヨーロッパ人となりました。しかしこの飲み物に本当に心を奪われたのは、その17年後に新大陸へ渡ったエルナン・コルテスでした。

  • アパラチン事件――全米のマフィア幹部が一斉に白日の下にさらされた日

    禁酒法時代とラッキー・ルチアーノの台頭1920年から1933年にかけて施行されたヴォルステッド法、いわゆる「禁酒法」の時代。アメリカ・マフィアは密造酒の売買で莫大な富を築いた一方、シカゴやニューヨークの街には組織犯罪の主導権をめぐる抗争の犠牲者が横たわり、凄惨な縄張り争いが続いていました。こうした混乱を収拾すべく、1931年、全米の主要マフィアファミリーのボスたちがシカゴに集結し、組織の将来について協議します。この会合を呼びかけたのは、ジョー・マッセリアとサルヴァトーレ・マランツァーノという二人の大ボスを排除してニューヨーク・マフィアの頂点に立ったチャールズ「ラッキー」ルチアーノでした。ルチア

  • 「ペコス川の西の法律」ロイ・ビーン――酒場で裁いた伝説の治安判事

    西部開拓時代の法と秩序をめぐる状況「絞首刑判事」と呼ばれたアイザック・パーカーに関する記事でも触れたように、アメリカ合衆国が国土を西部へと拡大していく過程で、法と秩序の維持はきわめて困難な課題でした。広大な領土と警察・司法機関の整備の遅れにより、犯罪が起きた集落の周囲には、何百キロにもわたって裁判官が一人もいないという状況が珍しくありませんでした。その結果、私刑(リンチ)や即席裁判の後の絞首刑が横行しました。容疑者を追い詰めた自警団の面々が、裁判官・陪審員・処刑人を兼ねたのです。また、自ら正義を執行する集団は「ヴィジランテ(自警団)」として組織され、西部の荒野を跋扈する牛や馬の盗賊狩りに専念し

  • パナマに運河をもたらした一枚の切手――火山が描かれた切手が歴史を変えた

    二つの大洋をつなぐ運河パナマと聞けば、多くの人は「パナマ文書」を思い浮かべるかもしれません。しかしこの国が世界的に知られるようになったのは、それよりはるか昔のことです。大西洋と太平洋を結ぶパナマ運河は、船舶が何千キロも迂回して危険なホーン岬を回り込むことなく両大洋を行き来できるようにした、人類史上最大級の土木事業でした。スエズ運河の英雄が挑んだ難事業運河建設をめぐっては、かつてフランスとアメリカが激しく競い合いました。両国とも、二つの大海原を結ぶ交易路を握る者が世界を制すということを理解していたからです。フランスのフェルディナン・ド・レセップスは、エジプトのスエズ運河建設で世界的名声を博した人

  • ウェストポイントでクリスマスに何が?1826年「パンチ暴動」の実話

    アメリカ屈指の士官学校にも、荒れた時代があった 今日、「ウェストポイント陸軍士官学校」と聞けば、米国陸軍を支える将軍・将校を数多く輩出した名門校であり、厳格な軍隊規律の象徴として知られています。 しかし、それは常にそうだったわけではありません。1826年にウェストポイントで発生したある事件は、そのことを雄弁に物語っています。1802年に創設された同校ですが、当初の入学者選考は現在ほど厳しくなく、例えば士官候補生は学期の開始時期を待たず、いつでも入学することが許されていました。 公然の秘密だった飲酒の習慣 さらに現代人が驚くことに、初期のウェストポイントでは学生の飲酒が広く黙認されていました。士

  • 古代ローマの「独裁官」は、いかにしてアメリカの都市名になったのか――シンシナティの意外な由来

    現代の政治において、「独裁者(ディクタトル)」という言葉は否定的なニュアンスを持っています。市民の権利や自由を無視し、暴力や殺戮を厭わず自らの意志を押し付ける支配者を指す言葉だからです。スターリン、ヒトラー、ムッソリーニといった名前が思い浮かぶでしょう。スペイン王立アカデミー(RAE)の辞書もこの概念を「近代において、あらゆる政治権力を担い、武力を背景に法的制約なしにそれを行使する人物」と定義しており、さらに「権威を乱用し、他人に酷い仕打ちをする人」という意味も載せています。 ローマ共和政における「独裁官」という制度 しかし、もともと「独裁官(dictator)」という言葉は、まったく異なる意

  • 「忘れられた戦争」と呼ばれた米英戦争(1812年)とアメリカ国歌の誕生秘話

    なぜ「忘れられた戦争」なのか独立以来初めて正式な宣戦布告によって始まった戦争であり、相手は多くの市民自身、あるいはその両親や祖父母の出身国であるイギリス。国歌誕生のきっかけとなる出来事が起こり、首都は占領されて炎上し、インディアン戦争で名声を得ていた人物が国家的英雄となって後の大統領にまで上り詰め、さらには講和成立後に大規模な戦闘が行われるという珍しい事態まで発生した――こうした劇的な要素を数多く抱えながらも、それが「忘れられた戦争(Forgotten War)」と呼ばれるのは、一見すると理解しがたいことかもしれません。しかし、1812年から1814年にかけてアメリカ合衆国とイギリスの間で戦わ

  • ジョン・ウェインがオスカー授賞式でゲイリー・クーパーの代わりに壇上へ——伝説となった1953年の夜

    1952年度アカデミー賞、空前のノミネート顔ぶれ1953年に開催された1952年度のアカデミー賞授賞式では、ハリウッド黄金時代を代表する5人の大スターが主演男優賞を争いました。ノミネート作品の中には、映画史に燦然と輝く名作も含まれています。候補に挙がったのは以下の5人です。ゲイリー・クーパー『真昼の決闘』マーロン・ブランド『革命児サパタ』カーク・ダグラス『悪人と美女』ホセ・フェラー『赤い風車』アレック・ギネス『キャプテンズ・パラダイス』今日では、これほど豪華な俳優たちが同じ部門で同時にノミネートされることは、まず考えられません。5人とも映画史に確固たる名声を刻んだ偉大な演技者であり、それぞれが

  • 1919年「ブラックソックス事件」――ワールドシリーズを舞台にしたマフィアと八百長の真相

    1919年10月9日、シンシナティ・レッズとシカゴ・ホワイトソックスによるワールドシリーズ第8戦が行われた。圧倒的な優勝候補と目されていたホワイトソックスを尻目に、レッズが10対5で勝利を収め、球団史上初の世界一に輝いた。しかしまもなく、この決勝戦に八百長があったとの噂が飛び交うようになる。その後の調査で、ホワイトソックスの8選手が八百長への関与を認められ、永久追放処分を受けた。彼らは「ブラックソックス(黒い靴下)」と呼ばれるようになった。これは球団の愛称「ホワイトソックス(白い靴下)」と、8人の裏切りが球団に残した「汚点」にちなんだものだった。八百長計画の始まり八百長の計画は、シリーズ開始の

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