世界史

アジアの歴史

  • アーリア人とドラヴィダ人は同一起源・同一文化を持つ民族である

    はじめに:ドラヴィダ文化とヴェーダ文化は一体であるドラヴィダ文化とは、それ自体がヴェーダ的アーリア文化なのです。ドラヴィダ人もアーリア人も、ともにヴェーダの民でした。これは現代の歴史学的・科学的研究がアーリア人をインドの原住民と証明したからでも、DNA研究が両者の同一起源を示したからでもありません。また、外国の歴史家がドラヴィダ人を「アーリア系クシャトリヤ(武士階級)」と呼び、マヌ法典がドラヴィダ人をインド十大クシャトリヤ氏族の一つに数えているからでもありません。そうではなく、左派の歴史家たちが「ドラヴィダ文化」について記述するとき、彼らが実際に描写しているのはアーリア文化そのものだからです。

  • クトゥブ・ミナールは古代ヒンドゥーの塔だった? インド考古調査局(ASI)の報告書が語る内容

    クトゥブ・ミナールはヒンドゥーの塔なのか デリーのシンボルとして知られる世界遺産・クトゥブ・ミナール。一般にはイスラム建築の傑作とされるこの塔ですが、実は「古代ヒンドゥーの塔だった」という主張があることをご存じでしょうか。 1871〜72年に刊行されたインド考古調査局(Archaeological Survey of India)の報告書には、クトゥブ・ミナールを含む複合施設全体が、グプタ朝時代にまで遡る古代ヒンドゥー寺院群であると記述されています。今回は、J・D・ベグラ(J. D. Beglar)とA・C・L・カーライル(A. C. L. Carlleyle)による『Archaeologic

  • ヴェーダの人々は本当に遊牧民・部族の首長だったのか?――リグ・ヴェーダが示す王権と国家の証拠

    西洋の歴史家たちによれば、わずかな島々とヨーロッパの小さな王国にすぎなかったギリシアとローマだけが文明を発展させ、ギリシア帝国やローマ帝国、そして皇帝が存在した。それ以外の世界はすべて未開の遊牧民、部族、氏族、そしてその首長にすぎない――これが彼らの描いてきた歴史像です。その一例として、彼らの目に「野蛮で遊牧民的」に映った巨大帝国を挙げてみましょう。紀元前6世紀のイランのアケメネス朝ペルシア帝国は、中央アジアからトルコ、エジプト、さらにギリシアにまで及ぶ、三大陸にまたがる大帝国でした。ところが、この偉大な帝国を築いたアケメネス朝の人々も、西洋史家の目には「野蛮な遊牧民、部族民、部族の首長にすぎ

  • 古代インド十六大国の一つ「カンボジャ」は中央アジアにあった――タジキスタン起源説を検証する

    インドの左派歴史家たちは、古代インド十六大国(マハージャナパダ)の一つであるカンボジャを、アフガニスタン、パキスタン、カシミール一帯に広がる国として描いてきました。しかし、近年の歴史研究によって、古代カンボジャの本土は現在のタジキスタンおよびその周辺の中央アジア地域に広がっていたことが明らかになりつつあります。インドの歴史家たちが示す「インド側の領域」は、むしろカンボジャ人が征服した属領だったと考えられているのです。 カンボジャは古代インドの十六大国の一つであり、パーニニの『アシュターディヤーイー』や仏教文献である『増支部(アングッタラ・ニカーヤ)』『マハーヴァストゥ』などにたびたび言及されて

  • 【日本の城】天守閣に殿様は住んでいた?知られざる天守の本当の役割

    日本の城のシンボルといえば「天守」。一般には「天守閣」という呼び名で親しまれています。 最上階の高欄から城下町を見下ろし、殿様が悠然と微笑んでいる――多くの人が抱くのは、そんなイメージではないでしょうか。 しかし、実際に天守へ上がってみると、「殿様は本当にこんな場所に住んでいたのだろうか?」と疑問に思う方は少なくありません。 「数百年前のことだから、建物が崩れた後なら住めたのかも?」なんて考える人もいるかもしれません。 いえいえ、そうではありません。実は殿様は天守では寝起きしていなかったのです。 意外に思われるかもしれませんが、漫画などで描かれるイメージが強すぎるのが原因でしょう。 そこで今

  • 【源頼朝の父と兄弟】平治の乱で源氏が敗れた後、一族の運命はどうなった?

    「源平合戦」や「いい国作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせでおなじみの源氏と平氏。今回は、鎌倉幕府の初代将軍となった源頼朝とその家族についてご紹介します。源氏の嫡男として鎌倉幕府を開いた頼朝ですが、そこに至るまでには数々の苦難がありました。平氏との戦いに敗れ、父や兄弟が次々と命を落とし、自らも流人の辛い日々を送った末に、ついに平氏打倒を成し遂げます。源氏の没落と復興には、いったい何があったのでしょうか。源頼朝の父・源義朝とは!保元の乱で父と弟を処刑?1156年、朝廷の内部抗争である「保元の乱」が勃発しました。保元の乱は、第75代の崇徳天皇と第77代の後白河天皇という兄弟同士の争いです。この争いに敗

  • 【以仁王の令旨】天皇になれなかった男が放った、平氏打倒の狼煙

    今回は「以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)」についてご紹介します。 とはいえ、「以仁王」「令旨」と聞いても、「誰? 何?」となってしまう方も多いのではないでしょうか。 簡単に言えば、「平家が好き勝手に振る舞っているので、源氏諸君は力を合わせて討て!」という、天皇の息子が密かに出した命令書です。 しかし、わずか数ヶ月後には以仁王は平氏の軍勢に襲われ、落命するという悲劇が待っていました。 皮肉なことに、その後全国各地から源氏たちが挙兵し、ついには「平家滅亡」を成し遂げることになります。 もし生きていれば、天皇になっていたかもしれない人物です。 しかし、この「令旨」がなければ、「平家にあらず

  • 【源氏恋物語】源頼朝6歳の娘・大姫が辿った悲しき結婚の運命

    「平家にあらずんば人にあらず」——平氏が全盛を極めた時代が訪れていました。 これを快く思わぬ源氏たちは各地で立ち上がり、次々と挙兵していきます。 源頼朝(みなもとのよりとも)と木曽義仲(きそよしなか)。従兄弟同士である二人は、それぞれの力で平氏討伐を目指していました。 しかし、両者の武力衝突が目前に迫ったとき、和睦が成立します。その結果、義仲の嫡男で11歳の義高が、頼朝の長女でわずか6歳の大姫(おおひめ)の婿として鎌倉へ送られることになったのです。 今回は、源平合戦の勃発を控えた激動の時代に、悲の時代に、悲劇的な運命を辿ることとなった二人の若い恋の物語をご紹介します。 父たちは挙兵! 源頼

  • 【徳川家斉】子供は53人?11代将軍は政治より子作りに励んだのか?

    「改革なんて、みんなに嫌われるようなものじゃないよ!」 そう語ったのは、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉(とくがわ いえなり)です。 実はこれは漫画のセリフですが、実際の家斉もまさにその通りの人物でした。 家斉は40人以上の側室を抱え、そのうち16人との間に53人もの子供をもうけた、屈強な体躯の「ビッグダディ」だったのです。 なぜ将軍でありながら政治を顧みず、多くの子供をつくったのでしょうか。あるいは、つくる必要があったのでしょうか。 当時の歴史的背景とともに詳しくご紹介します。 「田沼時代」と呼ばれた時代 9代将軍・徳川家重(とくがわ いえしげ)、10代将軍・家治(いえはる)の時代、老中

  • 【油小路事件】新選組vs元新選組!旧友との戦いの結末は?

    幕末の京都で治安維持を目的に結成された「新選組」は、今なお絶大な人気を誇る集団です。新選組の中核メンバーは、結成前に江戸の天然理心流剣術道場「試衛館」に集まっていました。後に局長となる近藤勇をはじめ、副長の土方歳三、一番組組長の沖田総司など、そうそうたる面々が揃っていました。その中には、八番組組長の藤堂平助も名を連ねています。しかし藤堂はある理由から新選組を脱退し、その後、試衛館時代からの盟友たちと悲しい戦いを演じることになるのです。それが今回ご紹介する「油小路事件」です。「新選組vs元新選組」という悲劇は、なぜ起こってしまったのでしょうか。新選組結成の背景を簡単にご紹介!江戸・牛込、天然理心

  • 【明治維新の十傑】維新の立役者10人!みんな明治初期に亡くなっていた?(前編)

    江戸時代から明治時代へと文明が大きく転換した幕末期。ちょんまげが消えて断髪が流行り、着物から洋服へと、人々の暮らしは一変しました。そんな日本の大変革の中で尽力した人物が10人います。もちろん、それ以外にも多くの人材がいましたが……。今回は「維新十傑」と呼ばれた人々を簡単にご紹介します。ところで、この人たちのほとんどは明治初期に亡くなっています。中には暗殺された人も……。やはり新しいことを始めるには、誰かの反感を買うものなのでしょう。当時、彼らは武士でした。刀を取り上げられ、藩は廃止され、日本が一つになると武士の居場所は消えてしまいました。そして各地で反乱が起きていく……。何かを成すためには、犠

  • 【戦国恋物語】本能寺で散った織田信忠と武田六女・松姫の悲恋!

    戦国時代は、大名たちが領土拡大のために争いを繰り広げた激動の時代でした。そのため、一時的な同盟のためには、血のつながらない他人同士の子どもが政略結婚の道具として扱われることも少なくありませんでした。今回は、織田信長の嫡男・織田信忠と、武田信玄の六女・松姫の悲恋の物語をご紹介します。二人は織田・武田同盟のために婚約しましたが、数年後には同盟の破棄によって引き離されてしまいます。そして、悲劇はそれで終わりませんでした……。11歳と7歳の婚約!織田家と武田家の婚姻同盟1565年(永禄8年)、領地が隣接する織田信長と武田信玄は、「婚姻同盟」を結ぶことで両家の絆を強めようとしました。信長の妹は苗木城主・

  • 【生麦事件】400人対4人?文化の違いが生んだ悲劇は薩英戦争へ!

    今回は「生麦事件」についてご紹介します。早口言葉の最中に起きた事件でも、米泥棒の事件でもありません。単純に「生麦村」で起きたからこそ「生麦事件」と呼ばれているのです。この事件の名前はかなり有名ですが、実際に何が起きたのかを知らない方も多いかもしれません。結果的には、薩摩藩(現在の鹿児島県)とイギリスとの間で戦争が勃発するほどの大事件でした。生麦事件当時の日本はどんな時代だった?1853年、ペリー率いる黒船が浦賀に来航し、開国を求めました。ここから「幕末」の時代が始まります。翌年にはアメリカとの間で「日米和親条約」が締結されました。1639年から続いてきた「鎖国」に、ついに終止符が打たれたのです

  • 【廃藩置県とは】明治政府が断行した明治維新最大の大改革!当初は3府302県だった?

    「廃藩置県(はいはんちけん)」という言葉は、歴史の授業で一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。四字熟語としても有名で、その意味は文字通り「藩を廃止して、県を設置する」というものです。これは明治時代に明治政府が実施した政策の一つです。今回は、廃藩置県がどのような意図のもとに行われたのか、なぜ実施されたのかについて詳しくご紹介します。そもそも江戸時代に「藩」は使われていなかった?現在では薩摩藩や長州藩のように「藩」という呼び名で呼ぶのが一般的ですが、実は江戸時代には、誰も公式に「藩」とは呼んでいませんでした。「○○藩」という言葉も、その主である「藩主」、家臣である「藩士」という言葉も、すべ

  • 【本当か嘘か?】本能寺の変の動機は明智光秀の数々の恨みの爆発だった!?

    1582年(天正10年)6月、織田信長は家臣・明智光秀の謀反により自害しました。誰もが知っている「本能寺の変」です。しかし、その動機については今なお定説がありません。むしろ動機が多すぎるとも言え、中でも有力視されているのが、日頃から積もり積もった「恨み説」です。ほかにも豊臣秀吉や徳川家康が黒幕という「黒幕説」なども存在します。今回は、信長と光秀の間で実際に何があったのか、伝わる逸話を紹介します。ただし、江戸時代に書かれた史料が多く含まれており、後世の創作である可能性もある点はご留意ください。信長が衆人環視の中で光秀を殴り蹴った?甲斐武田氏を滅ぼした「甲州征伐」。信長は参戦した多くの武将たちを招

  • 【ゆかりの地】直江兼続が最期を迎えた場所は、今の警視庁だった!

    直江兼続とは? 兜の「愛」で大人気になった武将 2009年の大河ドラマ『天地人』で俳優・妻夫木聡さんが演じたことで、一躍人気武将となったのが直江兼続(なおえ かねつぐ)です。 最大の特徴といえば、兜に掲げられた「愛」の一文字。あまりにもストレートで、いかにもカッコいいですね。 しかし実はこの「愛」、現代でいう「LOVE」という意味ではなく、神様の名前に由来するとも言われています。当時の感覚でいえば、現代の「応援!」のようなニュアンスだったのでしょうか。 今回は、「直江兼続が亡くなった場所は、本当に今の警視庁なのか?」についてご紹介します。偉人の「ゆかりの地」を、一緒にめぐってみましょう。 直

  • 【会津騒動】暴君・加藤明成と長老・堀主水の争いが招いた最悪の結末

    豊臣秀吉に仕え、「賤ヶ岳しずがたけ七本槍」の一人として名を馳せた加藤嘉明かとう・よしあき。関ヶ原の戦いでも武功を挙げ、晩年には会津藩40万石を治める大名となりました。 しかし嘉明は、会津に入部してわずか4年でこの世を去ります。家督を継いだのは嫡男・加藤明成かとう・あきなり。ところがこの明成、父とはまるで違う暴君だったのです。 やがて明成は、代々加藤家に忠義を尽くしてきた長老たちと対立し、ついには幕府を巻き込む大騒動へと発展します。 今回ご紹介するのは、暴君・加藤明成と長老たちの間で起きた事件――「会津騒動」です。幕府をも巻き込んだ、江戸時代屈指の大御家騒動となりました。 暴君・加藤明成! 1

  • 【脇坂安治】人生の選択を誤らず歩んだ、賤ヶ岳七本槍の武将!

    「本能寺の変」——織田信長が家臣の明智光秀に討たれた事件は、あまりにも有名です。その後、織田家の家臣たちは柴田勝家派と羽柴秀吉派に分裂し、「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」で激突しました。この戦いに秀吉が勝利し、天下統一への道を進んでいくことになりますが、ここで大活躍したのが秀吉の若い家臣たちでした。賤ヶ岳の戦いで武勲を立てた7人の武将は、「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれています。今回は七本槍の一人で、最年長だった脇坂安治(わきさか やすはる)をご紹介します。この時代の武将は、後の運命を大きく左右した「関ヶ原の戦い」での選択ひとつで、その後の人生が大きく変わっていくところが興味深いですね。脇坂家と貂(てん

  • 【平野長泰】賤ヶ岳の七本槍でただ一人、大名になれなかった人物!その名字は明治まで残ったのか?

    織田信長が本能寺で自害した後、織田家の家臣たちは柴田勝家と羽柴秀吉の二派に分かれて対立を深めていきました。そして両者が激突したのが「賤ヶ岳の戦い」です。この戦いに勝利した秀吉は、そのまま天下統一への道を突き進むことになります。この賤ヶ岳の戦いで武功を挙げた若手武将たち、いわゆる「賤ヶ岳の七本槍」の中には、福島正則や加藤清正といった有名どころが名を連ねています。今回は、その中の一人である平野長泰(ひらの・ながやす)についてご紹介します。「賤ヶ岳の七本槍」の中でただ一人、大名になれなかった人物——そう聞くと、気になりませんか?実は2016年の大河ドラマ「真田丸」でも、主人公・真田幸村(信繁)の上司

  • 【福島正則】賤ヶ岳・関ヶ原の戦いで大活躍するも、最期は改易に!?

    福島正則(ふくしま まさのり)は、幼少の頃から天下人・豊臣秀吉に仕え、「賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍」の一人として、同じ七本槍の加藤清正と並び称される著名な武将です。関ヶ原の戦いでも武功を挙げ、49万石の大名にまで出世しました。しかし正則は豊臣家の恩顧を受けて育った人物だったため、江戸時代になると周囲からの風当たりが強くなります。ついには無許可での城の修復という違反により所領を没収され、後に「福島家改易」という道をたどることになります。大坂の陣で豊臣氏を滅ぼした徳川氏にとって、豊臣出身の武将たちは障害だったのでしょうか。今回は福島正則の生涯を詳しく紹介します。豊臣秀吉といとこ関係!?1561年、

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