世界史

アジアの歴史

  • 織田信長の正室・濃姫とは?謎に満ちた生涯と最期を徹底解説

    濃姫(のうひめ)は、戦国大名・織田信長の正室として知られ、数多くの時代劇、小説、舞台に登場する人気の人物です。しかし史実として残されているのは「織田信長に嫁いだ」という事実のみで、生没年すら不明の謎めいた女性です。 2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』では、当初濃姫役を務めていた沢尻エリカさんの逮捕を受け、川口春奈さんが代役を務めることでも大きな話題となりました。『麒麟がくる』の主人公は明智光秀ですから、当然ながら信長の正室である濃姫とも深い関わりがあります。 そこで本記事では、『麒麟がくる』に関わりの深い人物に焦点を当てて紹介していきます。第一弾として、まずは濃姫について取り上げます。なお、

  • 剣豪将軍・足利義輝とは?永禄の変で散った室町幕府13代将軍の波乱の生涯

    はじめに2020年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、向井理さんが足利義輝を演じることでも大きな話題となりました。室町幕府第13代将軍である足利義輝は、「剣豪将軍」と呼ばれた武芸の達人でありながら、松永久秀や三好三人衆によって命を落とした悲劇の将軍です。1467年に勃発した応仁の乱は11年間も続き、乱の収束に失敗した将軍の権威は大きく失墜しました。代わりに力をつけたのは、幕府や各地の有力大名でした。父・義晴も将軍の権威回復に尽力しましたが、その道は戦いの連続でした。そして、その遺志を受け継いだのが第13代将軍・義輝なのです。今回は、剣豪将軍として名高い足利義輝の生涯について、わかりやすくご紹

  • 豊臣秀吉に溺愛された豪姫と宇喜多秀家――乱世を生きた夫婦の深い絆

    戦国時代というと、勇猛果敢で知略に優れた武将たちが脚光を浴びるイメージがありますが、その陰では女性たちも大きく活躍していました。山内一豊の妻・千代のように内助の功で夫を支えた女性もいれば、豊臣秀頼の母・淀殿のように自ら表舞台に立った女性もいます。今回は、前田利家の四女であり、豊臣秀吉の養女となった豪姫(ごうひめ)と、その夫である宇喜多秀家(うきたひでいえ)の物語をご紹介します。豪姫と宇喜多秀家とはどのような人物?宇喜多秀家は1572年、備前国・岡山城主宇喜多直家の次男として生まれました。1581年に父・直家が亡くなると、織田信長の計らいによって所領を安堵され、若くして家督を相続します。織田氏に

  • 信長も認めた頑固一徹の武将・稲葉良通(一鉄)の生涯と「頑固一徹」の語源

    「頑固一徹」という四字熟語を、頑固な人を表す言葉として使うことがあります。実は、現代で使われていることわざや四字熟語の中には、歴史上の人物が由来になっているものが少なくありません。 稲葉良通は、美濃三人衆と呼ばれた安藤守就や氏家卜全とともに、織田信長の美濃侵攻において重要な役割を果たした人物です。最後は大名として家を存続させ、子孫にもその名を残しました。 今回は、頑固一徹の語源となった稲葉良通(一鉄)についてご紹介します。 ※大河ドラマ『麒麟がくる』では「良通」と呼ばれているため、以下では良通に統一して表記します。 稲葉良通の生涯と年表 稲葉良通は、美濃の国人・稲葉通則の六男として生まれました

  • 戦国の関白・近衛前久とは?織田信長の親友として活躍した波乱の生涯

    戦国時代の日本は、武士たちが各地で覇権を争い、数多くの逸話が生まれた時代です。しかし、生存をかけた戦いは武家だけのものではありませんでした。公家もまた、武力に頼らず、いかに名誉を保ちながら家を守り抜くかという苦闘を強いられていたのです。 今回は、五摂家の一つ・近衛家の当主として戦国の世を駆け抜けた近衛前久(このえ さきひさ)の生涯についてご紹介します。 近衛前久の家系と異例のスピード出世 1536年(天文5年)、五摂家筆頭の伝統を受け継ぐ近衛家に、当主・近衛稙家(たねいえ)の長男として誕生したのが前久です。元服の際には室町幕府第12代将軍・足利義晴から一字「晴」を賜り、「晴嗣」と名乗りました。

  • 明智光安とは?若き光秀を守り抜いた叔父の生涯と壮絶な最期

    明智光安(あけち・みつやす)は、若くして亡くなった兄・光綱の遺志を受け継ぎ、幼い光秀の後見人として明智家を支えた人物です。光秀が元服した際には家督を譲ろうとしましたが、光秀に固辞されたため、光安は引き続き明智家の中心として家を支え続けました。明智光秀と同様、光安の生涯は確かな史料にほとんど残されておらず、江戸時代に編まれた軍記物『明智軍記』など、創作性の強い資料からしか知ることができません。そこで今回は、不確定な点が多いことを踏まえながら、明智光安の生涯をたどっていきます。兄・光綱の死後、光秀の後見人として明智家を支える明智光安は、光秀の叔父にあたる人物です。光綱の死後、幼い光秀の後見人として

  • 明治維新の英雄・西郷隆盛と大久保利通の意外な関係とは?

    西郷隆盛といえば、坂本龍馬や高杉晋作とともに、明治維新の英雄として数えられる人物です。その生涯は薩長同盟、明治維新、西南戦争と、まさに激動の一言に尽きるものでした。 若き日の西郷は、二度の島流しを経験し、自ら命を絶つことも強いられ、薩摩藩主・島津久光との確執も抱えるなど、大久保利通とは対照的な人生を歩みました。しかし人望は厚く、多くの薩摩藩士から愛され、並外れた政治力を持っていたとも言われています。 西郷隆盛の話には必ず大久保利通が登場し、逆に大久保利通の話にも必ず西郷隆盛が現れます。二人は切っても切れない関係にあるのです。この鹿児島の英雄たちの多くは、最後は大久保によって葬られたと考えられて

  • 実は、有名な戦国大名の息子たちは、かなりの実力者でした。

    父親が偉大すぎるあまり、その実力が見落とされがちな超有名戦国大名の息子たち。しかし彼らは、実はかなり優秀な武将だったのです。今回は、父の影に隠れて十分に評価されてこなかった、戦国大名の息子たちにスポットを当ててみたいと思います。武田勝頼は父・信玄以上に領土を拡大した実力者だった武田勝頼(1546年〜1582年)甲斐の名門・武田氏を継いだのが武田勝頼です。本来なら信玄の嫡男である義信が家督を継ぐはずでしたが、義信が廃嫡されたため、勝頼が後継者となりました。信玄から領国を引き継いでから10年足らずで起こった長篠の戦いが武田家滅亡のきっかけとなったため、父・信玄とは正反対の評価を受けがちです。しかし

  • 現代でも通用するイケメン歴史人物~龍馬・土方・慶喜の魅力に迫る

    女性の心をつかんで離さないイケメン……。日本の長い歴史の中にも、その人気エピソードが現代まで語り継がれている人物は数多く存在します。今回は、歴史上のイケメンたちをご紹介します。坂本龍馬(1836~1867)歴史教科書でおなじみの坂本龍馬。ただし近年は、今後の教科書には登場しなくなるともいわれています。幕末の志士・坂本龍馬の有名な写真を見ると、すらりとした体形で立ち姿が美しく、なかなかの好青年という印象を受けます。当時から男女問わず愛される人格者で、婚約話が出るほどの恋人もおり、全国各地の女性と文通を交わしていたとも伝わっています。そんな人気者の龍馬を落としたのが、お龍という女性でした。龍馬が京

  • 明治天皇の功績と生涯――幕末の激動を生き、近代日本の礎を築いた天皇

    2018年は明治150年にあたる年です。日本の歴史において、明治時代は大きな転換点となる、非常に重要な時代でした。そこで今回は、その時代を牽引した明治天皇についてご紹介します。明治天皇の誕生明治天皇は、江戸時代末期の1866年に父・孝明天皇が崩御し、翌1867年に14歳で即位しました。中学2年生ほどの少年が、幕末という激動期において新政府の中心に立たなければならなかったのですから、並大抵のプレッシャーではなかったことでしょう。即位の翌年には、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜による「大政奉還」が行われます。これにより、天皇と朝廷は数百年ぶりに政治の表舞台に立つこととなりました。「大政奉還」と「王政復

  • 江戸城を築いた名将・太田道灌の生涯〜享徳の乱の活躍から悲劇の最期まで〜

    室町時代に関東の戦乱を席巻し、江戸城を築き上げた名将・太田道灌。その功績はあまりにも大きく、最期は主君の謀略によって命を落とすという悲劇の人生を送りました。ここでは、道灌の出自から江戸城築城、そして暗殺に至るまでの生涯を解説します。 太田道灌の出自と上杉四家 太田道灌は1432年(永享4年)、相模国の守護代を務めた太田道真の子として生まれました。 太田氏は、代々関東を支えてきた上杉氏のなかでも扇谷上杉家の家宰(執事)として仕えた一族です。上杉氏の祖は、京都から鎌倉へ下向した藤原資房とされ、丹波国上杉荘の地名にちなんで「上杉」の姓を名乗ったことが始まりといわれています。 鎌倉府の補佐役として関東

  • 「犬公方」とバカにされていた徳川綱吉、実は偉大な人物だった!

    徳川綱吉と聞いて、「犬将軍」「生類憐みの令」を思い浮かべる方は多いのではないでしょうか。 生類憐みの令によって、生き物を殺せば重い罰を受けた――そんなイメージをお持ちの方も少なくないでしょう。 しかし、このような悪評は尾ひれをつけて語り継がれることが多く、一人の人間の真の姿が伝わらないことも珍しくありません。 5代目将軍・徳川綱吉もその一人です。 「生類憐みの令」のイメージから、世間では政治の下手な無能な将軍という印象を持たれがちですが、実際の綱吉は少し違うようです。むしろ、江戸幕府の歴史において名君として挙げられる人物だったと言われています。 今回は、その真実に迫ってみたいと思います。 綱吉

  • 幕府の監視を受けながらも加賀百万石を守り抜いた二代目藩主・前田利常

    加賀藩は外様大名でありながら、御三家に匹敵する高い待遇を受けていたことで知られています。江戸幕府が発令した一国一城令に対しても例外的な扱いを受け、加賀一国に二つの城を保有することさえ許されていました。しかし、こうした厚遇は幕府成立の当初からあったわけではありません。むしろ幕府側も当初は強い警戒心を抱いており、加賀藩は幾度となく危機に見舞われました。その窮地を救ったのが、二代目藩主・前田利常です。前田利常は前田利家の四男として生まれましたが、母が側室だったため、幼少期は前田長種のもとで育てられます。そのため、利常が実の父・利家と初めて対面したのは、1598年(慶長3年)、利家が亡くなる直前のこと

  • 戦国時代に数奇な運命を辿った浅井家の三女・江(ごう)は、今上天皇・徳仁の祖先だった!?

    1567年(永禄10年)、北近江の大名・浅井長政は、織田信長の妹・お市を娶り、織田家との同盟を結びました。この二人の間には、後に「浅井三姉妹」と呼ばれる三人の娘が生まれます。その名は茶々・初・江(ごう)です。天下統一を目指す織田信長の姪でありながら、二度も主家の滅亡と父母の死を目の当たりにした浅井三姉妹は、その後の天下をめぐる覇権争いに深く関わっていくことになります。今回は三女・江の人生を中心に、彼女たちの数奇な運命を綴ります。三姉妹の数奇な運命江の話に入る前に、まず姉たちの足跡を簡単に振り返ってみましょう。長女・茶々は、後に関白となった豊臣秀吉の側室となり、豊臣秀頼を産みます。次女・初は、秀

  • 意外と多い!?乱世を生き抜いた歴史上の女武将たち

    2017年のNHK大河ドラマは『おんな城主 直虎』。井伊直虎をテーマにした作品でした。ここで注目を集めたのは、井伊直虎という人物が女性だったという点です。放送開始直前には「実は直虎は男性だった」という説まで飛び出して話題になりましたが、ドラマは最後まで女性説を貫いて放送されました。 女性でありながら城主として腕を振るっていた――そんな人物が、実際に存在したのです。 歴史を紐解くと、井伊直虎だけでなく、乱世を生きた有名な女性武将は意外と多く存在します。今回は、そんな女性武将たちをご紹介します。 源義仲に仕えた女武者・巴御前 「武将」と聞くと戦国時代を思い浮かべがちですが、時代をさかのぼると、源平

  • 応仁の乱から下剋上の戦国時代へ|室町幕府の興亡をわかりやすく解説

    はじめに:室町幕府の成立から応仁の乱までを振り返る 戦国時代の歴史に入る前に、室町幕府の成立から応仁の乱に至るまでの流れを少しだけ振り返っておきましょう。 鎌倉幕府の滅亡と建武の新政 鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は建武の新政を開始しました。しかし、新政は公家(貴族)を優先する政治路線をとったため、武士たちの不満が高まります。 この政策に反対した足利尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻し、各地で反乱が相次いで建武新政府は崩壊しました。尊氏は別の天皇を擁立して室町幕府を開きます。一方、後醍醐天皇も吉野に朝廷を設けたため、南北朝時代としての対立が続くことになりました。 南北朝の統一と室町幕府の全盛期 南北朝

  • 日本の城と世界の城の違い|石造建築が発達しなかった理由と「城」の定義

    日本の城には、天守をはじめとして、世界に類を見ない独自の特徴があります。 古来より日本には、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)や東大寺大仏殿、姫路城など、世界的に見ても卓越した建造物が数多く存在してきました。 世界の城と日本の城の違い 日本と世界の近世以前の建築や巨大構造物を比較すると、両者には大きな違いがあることがわかります。 ギリシャ神殿やピラミッドなど、世界の巨石建造物の多くは、ほぼ一定の寸法に切り出された石材を用いた石造りです。一方、日本の建築物や構造物は土や木材が主体で、石材は補助的な場面で使われる程度にとどまりました。 世界の多くの城は、石積みの城壁や建物によって防御されています。日本の城

  • 軍事的には必要なかった天守閣はなぜ建てられたのか?その役割と歴史を解説

    日本で「城」というと、多くの人が真っ先に思い浮かべるのが天守閣ではないでしょうか。漢和辞典で「城」を調べると、「敵の侵入を防ぐために築かれた高い建物」といった説明が載っています。どうやら「城=天守閣」というイメージが強く定着しているようです。しかし、広辞苑では「城」を「敵を防ぐために築かれた軍事的構造物」と定義しています。つまり城とは、天守閣のような建物単体を指すのではなく、堀や石垣、塀などで囲まれた軍事目的の区域全体を指す言葉なのです。この定義に従えば、現在のように軍事的な意味を持たない建物は厳密には「城」と呼べず、「城跡」と表現するのが正しいことになります。また、江戸時代の城は幕府や藩政の

  • 地形で変わる城の形|山城・平山城・平城の特徴と歴史

    今回は、地形と城の形の関係について、もう少し掘り下げてご紹介します。その前に、まず次の3つの基本をおさえておきましょう。山に築かれた城 ⇒ 山城(やまじろ)丘陵地を利用した城 ⇒ 平山城(ひらやまじろ)平地に築かれた城 ⇒ 平城(ひらじろ)※画像は占部研究所様よりお借りしました。山城から平城・平山城へ――城の歴史の流れ武士が誕生した平安時代後期、当時の武士の拠点は「平地の館」が主流で、いわゆる「城」と呼べるような形態ではありませんでした。鎌倉時代以降になると、山を利用した山城が築かれるようになります。山城は、大軍に攻め込まれた際に籠城して抗戦するために考案されたものです。南北朝の動乱を経て戦国

  • なぜ日本の城には石垣があるのか?木造建築の国で石垣技術が発達した理由

    世界の古代文明は「石」、日本は「木」世界各地の古代文明において、大規模な建造物の主流となっていたのは石です。エジプトのピラミッドやローマのコロッセオのように、石造りの巨大建造物は今もその姿をとどめています。一方、日本では東大寺のような巨大な建築物であっても、木造建築が主流でした。石も使われてはいますが、それは基壇部分にとどまり、建物本体は木材や土で造られてきました。この大きな理由は、日本国内に加工しやすい良質な石材が少なかったことにあります。日本と海外の城の違い海外の城は、城壁で城や城下町をすっぽりと囲い込むスタイルが一般的でした。これに対して日本では、堀を掘り、掘り出した土を盛り上げて土塁(

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