世界史

アジアの歴史

  • 【新選組総長・山南敬介】脱走、切腹――そして格子越しの最期の別れ

    新選組で「総長」を務めていたのが山南敬介(やまなみ・けいすけ)です。 局長の近藤勇、副長の土方歳三に次ぐ要職であり、まさに新選組のナンバー3と呼ぶべき存在でした。 山南はそれほど有名ではありませんでしたが、近年になって人気が高まっています。その理由は、穏やかな人柄を彷彿とさせる悲しく切ないエピソードがあるからです。今回はその生涯をご紹介します。 新選組結成までの山南敬介 1833年(天保4年)、仙台藩に生まれたと伝えられています。その後、仙台を離れて江戸へ向かいました。 剣術は小野派一刀流や北辰一刀流などを学んだといわれます。北辰一刀流といえば、坂本龍馬が学んだ流派としても知られていますね。

  • 【本能寺の変】黒幕は豊臣秀吉だった?その可能性を徹底検証

    後に天下を統一することになる豊臣秀吉は、農民出身ながら織田信長という大きな存在に見出され、頭角を現していきました。もちろん秀吉自身の努力も大きかったものの、彼にチャンスを与えたのは紛れもなく信長です。では、この大きな恩人である信長を、秀吉は謀反によって死に追いやったのでしょうか。今回は「本能寺の変の黒幕は豊臣秀吉なのか?」というテーマについて考えてみます。もし秀吉が黒幕だったとすれば、「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」の言葉通りの人物だったことになります。本能寺の変のあらまし織田信長は宿敵・武田信玄が病で亡くなった後、その子・武田勝頼を討ち、武田氏を滅ぼしました。これにより天下統一へと大きく

  • 【吉田松陰の名言】厳選10選!狂気の中に隠された慈悲とは?

    幕末、松下村塾(しょうかそんじゅく)で、後に明治政府を担う若者たちを育てたのが吉田松陰(よしだしょういん)です。 その教え子には、初代内閣総理大臣となった伊藤博文をはじめ、高杉晋作や久坂玄瑞など、明治維新を牽引した人材が数多く名を連ねています。 「諸君! 狂え!」と叫ばんばかりの激しい生涯を送った松陰ですが、その言葉の端々には、人への深い慈悲がにじみ出ています。 今回は、吉田松陰が残した数多くの名言の中から、特にお気に入りの10選をご紹介します。 1. 夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし… 「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、

  • 【坂本龍馬の名言】もう一度「自分」を洗いなさい!

    幕末の英雄といえば、坂本龍馬(さかもとりょうま)。この人がいなければ新しい時代は来なかったと言われるほどの人物です。薩摩藩と長州藩の和解・同盟(薩長同盟)や大政奉還(たいせいほうかん)の建議など、日本の行方を左右する大事業に奔走し、最期は暗殺という悲劇的な死を遂げました。今回は、そんな龍馬の名言を集めてみました。きっと心に響く言葉が見つかるはずです。「日本を今一度洗濯いたし申候」龍馬の言葉として最も有名なのがこれではないでしょうか。日本の立て直しを「洗濯」に例えた、おしゃれな表現です。ここに龍馬の人柄が垣間見えますね。「人は人気なければ何もできぬ。いくら正義をしても悪く取られ、ついには自分を見

  • 【近藤長次郎】坂本龍馬の盟友が辿った悲劇の真相とは?

    今回は、幕末に生きた一人の若者の物語をご紹介します。 近藤長次郎(こんどうちょうじろう)という人物をご存じでしょうか。 江戸時代にはありふれた名字だったためか、同時代に活躍した新選組局長・近藤勇ほどの知名度はないかもしれません。しかし、坂本龍馬の名前なら誰もが知っているはずです。幕末の風雲児にして、日本の歴史を大きく動かした英雄ですね。 そして近藤長次郎は、龍馬が主人公の物語にほぼ必ず登場する人物です。ドラマでは龍馬と長次郎は固い友情で結ばれた盟友として描かれ、長次郎が亡くなる場面では涙を誘う展開になることも少なくありません。 今回は、そんな坂本龍馬の親友・近藤長次郎の生涯をたどりながら、そ

  • 【徳川綱吉】悪政と言われた「生類憐みの令」を発布した将軍の実像とは?

    江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)。 江戸時代の歴代将軍15人のなかでも、名前を聞けばピンとくる有名な人物ではないでしょうか。 名前だけだと似たような人物が多く混乱しがちですが、「生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)」と言えば思い出す人も多いはずです。 そう、「犬を大切にせよ!」であまりにも有名なあの法令です。 ただし保護の対象は犬だけではなく、猫や鳥、さらには貝や虫にまで及びました。 しかし実際のところ、生類憐みの令は評判が悪く、「天下の悪法」とも呼ばれています。 そのため綱吉自身も「犬公方(いぬくぼう)」と呼ばれ、決してイメージの良い将軍ではありませんでした。 ですが、イ

  • 【源頼家】鎌倉幕府二代将軍!北条氏の陰謀に人生を翻弄された悲劇の武将

    源頼家(みなもとのよりいえ)は、鎌倉幕府の二代目将軍です。幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)の嫡男として生まれ、周囲からの熱い期待を一身に受けて育ちました。しかし、父・頼朝の急死を境に、頼家の運命は一変します。二代将軍として期待された頼家に、いったい何が起きたのでしょうか。その波乱に満ちた人生を紐解いていきましょう。鎌倉幕府二代将軍・源頼家のプロフィールと最期まで源平合戦のただ中に誕生した待望の嫡男頼家は1182年(寿永元年)、源平合戦の真っ只中にある鎌倉で生まれました。幼名は万寿(まんじゅ)といいます。待望の嫡男の誕生は世間を大いに沸かせました。父・頼朝も安産を祈願し、鎌倉武士の守り神

  • 【源実朝】鎌倉幕府三代将軍!暗殺事件の真相とは!

    鎌倉幕府三代将軍・源実朝。名前は知っていても、その生涯や最期については詳しく知らないという方も多いのではないでしょうか。鎌倉幕府といえば、まず思い浮かぶのは源頼朝でしょう。天皇による政治から武士による政治へと時代を大きく転換させた人物です。そして、鎌倉幕府の成立から江戸幕府滅亡までの約700年間は、ずっと武士による政治が続くことになります。そんな頼朝の四男が実朝です。ところが驚くべきことに、鎌倉幕府の初代・頼朝、二代・頼家、三代・実朝と、最初の三人の将軍はすべて「暗殺」が疑われているのです。頼朝の公式な死因は「落馬」とされていますが、毒殺説も根強く存在します。今回は、悲劇的な最期を遂げた三代将

  • 【徳川慶喜】江戸幕府最後の将軍!本当は将軍になりたくなかったの?

    徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府第15代将軍。鎌倉幕府以来700年続いた武士の政治に終止符を打った、最後の将軍です。こう書かれると、あまり良いイメージを持てないかもしれません。当時の日本は、ペリー率いる黒船が突然現れ「開国しろ!」と迫るなど、すでに大混乱の状態でした。全国の武士たちは「外国に屈する幕府を倒せ!」と声を上げ、倒幕の機運が高まっていました。そんな状況の中で、慶喜は将軍に任命されます。果たして、彼はどのような気持ちで将軍になったのでしょうか。慶喜は大切に育てられた1837年、慶喜は江戸の水戸藩邸で生まれました。ペリー来航の15年前のことです。父は水戸藩第9代藩主・徳川斉昭(

  • 【上杉謙信】戦国の軍神は実は女性だった?日本のジャンヌ・ダルク説を徹底検証!

    戦国時代の武将といえば、勇猛な漢(おとこ)というイメージが強いものです。 馬にまたがって最前線を駆け抜け、家臣たちの声に応えながら敵陣へと突き進む――それが戦国の合戦のイメージでしょう。 しかし、その中に「女性が似合う人物」はいないのでしょうか。実はいないとは言い切れません。リーダーシップを発揮した女性は歴史上確かに存在します。 今回は先入観を一度脇に置いて読んでみてください。「もしかして、そうかも?」と思えるかもしれません。 上杉謙信とはどんな人物? 謙信は1530年、戦国時代真っ只中の越後国(現在の新潟県)で生まれた戦国武将です。 「越後の虎」「越後の龍」「越後の獅子」「軍神」など、数

  • 【川中島の戦い】武田信玄と上杉謙信の伝説の対決は創作だったのか?

    「川中島の戦い」——。 鬼の面のような兜と白髪をなびかせ、軍配を手にした勇壮な姿で描かれる武田信玄。 白頭巾をまとい白馬にまたがる、凛々しい佇まいの上杉謙信。 この二人が向かい合って描かれた図は、誰もが一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。 「永遠のライバル」として描かれる二人の関係は、まさにこの「川中島の戦い」が舞台となっています。 今回は、その「川中島の戦い」とはどのような戦いだったのかをご紹介します。 川中島の戦いのきっかけとは!? 甲斐国(山梨県)の戦国大名武田信玄は、勢力拡大を目指して信濃(長野県)へ侵攻しました。そして北へ進み、信濃国を次々と攻略していきます。 その矛先

  • 【武田信玄】戦国の世を震撼させた死因の真実とは?病死説から毒殺説まで

    戦国時代における知名度ナンバーワン級の武将といえば、武田信玄(たけだ しんげん)でしょう。 「風のように疾く、林のように静かに、火のように激しく、山のように動かず」という「風林火山」の旗印を掲げ、ライバルである上杉謙信(うえすぎ けんしん)と幾度も死闘を繰り広げた人物です。 鬼瓦をあしらった兜と鬼のような面相——まさに「鬼」のイメージで描かれることが多い信玄に対し、謙信は白馬にまたがる白装束の姿で、「軍神」さながらの風流な武者として描かれます。二人はまるで鏡合わせのように対照的ですね。 そんな信玄が亡くなったとき、戦国の世は大きく揺れ動きました。 おそらく自身もその影響を悟っていたのでしょう

  • 【ジャンヌ・ダルク】フランスを救ったのに、フランスに処刑された少女の悲劇

    戦場の最前線に立ち、敗北で失望のどん底にあった兵士たちを鼓舞し、勝利へと導いた少女がいました。それがジャンヌ・ダルクです。しかし彼女は、やがて敵国に捕らえられ、王に裏切られ、若くして処刑されてしまいます。あまりにも悲劇的な生涯でした。天使の声に耳を傾け、その実現のために奮闘したジャンヌ・ダルクは、何を思い、どう生きたのでしょうか。天使の声を聞いた少女イングランドとフランスは、王位継承問題をめぐって長きにわたり争い続けていました。後に「百年戦争」と呼ばれるこの戦いで、フランスはイングランドの猛攻を防ぐ手立てなく、敗北を重ね、国家存亡の危機に瀕していました。そんな時代、フランスの片田舎の村に一人の

  • 【宮本武蔵】生涯無蔵】生涯無敗の剣豪!巌流島の戦いに残された謎とは?

    今回は宮本武蔵についてご紹介します。「巌流島の戦い」で佐々木小次郎と対決し、圧倒的な剣の実力を誇りながら生涯一度も負けなかった男——それが宮本武蔵です。しかし、彼には剣豪としての逸話以外にも意外な一面があります。実は武蔵は書や絵画にも優れており、その作品の一部は重要文化財に指定されているのです。さらに、「巌流島の戦い」には数多くの謎が残されています。この記事では、剣豪・宮本武蔵の生涯をわかりやすく解説していきます。巌流島の戦い以前の宮本武蔵武蔵が生まれたのは1582年とも1584年ともいわれ、出身地も播磨国(現・兵庫県)とする説と美作国(現・岡山県)とする説の二つの説が存在します。当時の武蔵に

  • 【桜田門外の変】実行犯も被害者も悲惨な最期を遂げた幕末の悲劇

    「桜田門外の変」は、「安政の大獄」や「大老・井伊直弼」とセットで語られるほど、幕末史において非常に有名な事件です。 今回はその中でも「桜田門外の変」について詳しくご紹介します。事件の実行犯も、被害者側も、誰もが悲惨な最期を遂げた悲劇の事件でした。それでは早速見ていきましょう。 そもそも桜田門外の変はなぜ起こったのか? 将軍の補佐役であり、事実上日本のナンバーツーだったのが大老・井伊直弼です。直弼は大老に就任した直後、二つの大きな問題に直面することになります。 ① 将軍継嗣問題 13代将軍徳川家定は病弱で、跡継ぎを望める状態ではありませんでした。そこで二つの派閥が後継ぎの座を争うことになり、直

  • 【武蔵坊弁慶】源義経の忠実な家臣!本当はどんな人物だったのか?

    今回は、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)についてご紹介します。 京都の町で刀を狩っていたところに牛若丸(後の源義経)が現れ、五条大橋での一騎打ちに敗れたのをきっかけに家来となり、最期まで義経を守り抜いた人物です。最後の戦いでは、雨のように降り注ぐ矢を全身に受けながらも倒れることなく、立ったまま息を引き取ったと伝えられています。 主君・義経への忠義を最後まで貫いたその姿は、まさに「忠臣」の代名詞といえるでしょう。 それでは、武蔵坊弁慶のプロフィールと逸話を見ていきましょう。 武蔵坊弁慶のプロフィール 弁慶は平安時代末期、紀伊国(現在の和歌山県)で生まれたとされていますが、詳しい出自はわかってい

  • 【足利義満】世界遺産・金閣寺は「天皇になる」ために建立されたのか?

    今回は、室町幕府三代目将軍として天下を支配した足利義満(あしかがよしみつ)と、彼が建立した世界遺産金閣寺についてご紹介します。義満はなぜ金閣寺を建てたのでしょうか。その目的には、単なる別荘や信仰にとどまらない、壮大な野望が隠されていたと言われています。また、金閣寺以外に義満はどんな功績を残したのでしょうか。その生涯を追いながら、人物像と金閣寺に秘められた秘密に迫ります。足利義満の簡単プロフィール幼くして将軍へ1358年、義満は京都で生まれました。父は室町幕府二代目将軍の足利義詮(あしかがよしあきら)です。義満が幼い頃、天皇の地位をめぐって京都の「北朝」と奈良の「南朝」が対立し、国内は戦乱の時代

  • 【足利義政】金閣寺に憧れた将軍!応仁の乱のきっかけは?

    今回は足利義政(あしかが よしまさ)についてご紹介します。室町幕府の黄金時代を象徴する「金閣寺」。それに対比して建てられたのが「銀閣寺」です。今回は、その銀閣寺を建立した室町幕府第8代将軍・足利義政の生涯をご紹介します。彼は、戦国時代へと続く大乱「応仁の乱」のきっかけを作った将軍でもあるのです。足利義政の簡単なプロフィール義政は1436年、室町幕府第6代将軍の三男として生まれました。しかし、父が暗殺されると、兄が幼くして第7代将軍に就任します。ところが兄も10歳で落馬事故により亡くなってしまうのです。こうして、義政はわずか8歳で第8代将軍に任命されることになりました。当初の義政は、祖父にあたる

  • 【清少納言】『枕草子』に隠された悲しい現実とは?紫式部との関係も徹底解説

    今回は、平安時代を代表する女流作家・清少納言(せいしょうなごん)についてご紹介します。『枕草子(まくらのそうし)』の作者として有名な清少納言。彼女はどんな時代に、どのような人生を送った人物なのでしょうか。そして、なぜ『枕草子』を書こうと思ったのか。その背景には、華やかな宮廷生活の裏に隠された悲しい現実がありました。ライバルとして知られる紫式部(むらさきしきぶ)との関係についても触れていきます。『枕草子』執筆前の清少納言の人生清少納言は、平安中期の寛暦3年(966年)頃に生まれたとされています。父と祖父はどちらも「百人一首」に入っている歌人でした。清少納言自身も百人一首に選ばれており、ライバルの

  • 【紫式部】『源氏物語』を書いたのは本当に紫式部?別人説と清少納言との関係を解説

    今回は、『源氏物語』の作者として知られる紫式部についてご紹介します。 紫式部はどのような人生を送ったのでしょうか。 『源氏物語』とは、一体どんな作品なのでしょうか。 そして、同じ時代を生き、ライバルと言われる清少納言との関係とは、どういったものだったのでしょうか。 ところで、2000円札の裏面には、紫式部と『源氏物語』が描かれています。 2000年に発行された2000円札には、平安時代中期の1000年頃に活躍した紫式部が採用されました。 もし清少納言が生きていたら、怒っていたかもしれませんね。 「なんで私じゃないの!?」 それでは詳しく見ていきましょう。 紫式部、『源氏物語』を書く前の人生

Total 2321 -世界史  FirstPage PreviousPage NextPage LastPage CurrentPage:99/117  20-世界史/Page Goto:1 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105