世界史

アジアの歴史

  • インド古典舞踊の歴史:寺院に起源をもつ古典八大舞踊から民俗・現代舞踊まで

    インド舞踊は、インド文化において最も高度に発達した芸術形式の一つとされています。インド亜大陸の広大な大地には、多様な土地、気候、民族、文化、言語が共存しており、その多様性は、古典舞踊から民俗舞踊、さらに現代舞踊に至るまでの数多くの舞踊スタイルにも色濃く反映されています。 古典舞踊の起源と歴史 インドの古典舞踊の伝統は、数百年にわたって受け継がれてきた古代の洗練された芸術形式です。その起源は寺院にあり、かつてはデーヴァダーシーと呼ばれる寺院舞姫たちによって奉納されていました。古典舞踊の様式は、ヒンドゥー文化の神話、哲学、精神的信仰と深く結びついているだけでなく、時代が下るとイスラーム文化の伝統の

  • インドの芸術と建築の歴史 ─ 精神性と官能性が融合する美の世界

    はじめにインド亜大陸における芸術と建築の作品群は、紀元前3千年紀から現代に至るまで連綿と続いています。西洋の伝統に慣れ親しんだ人々の目には、一見誇張され、官能的に映るかもしれません。しかし、そうした人々でさえ、その洗練された美しさには心を奪われることでしょう。インド美術は、伝統的な形式においても現代的な形式においても、優れたデザイン感覚に貫かれている点でも特徴的です。インド文化は、豊穣な官能性を、他に類を見ない自由な表現によって示す傾向があります。ジャイナ教の寺院、ラナクプルのジャヤ・スタンバには、先端に飾りを付けた石造りの塔(シカラ)が精巧に彫刻されています。ジャイナ教寺院の装飾、そしてミニ

  • 特攻隊員の恐ろしい実話:家族と運命を共にした藤井肇の悲劇

    「神風」の本当の意味 今日「カミカゼ」と聞けば、多くの人は第二次世界大戦中に連合軍の艦船や施設へ体当たり攻撃を仕掛けた旧日本軍の特攻パイロットを思い浮かべるだろう。しかし「神風(カミカゼ)」という言葉の由来は、13世紀にフビライ・ハーンが二度にわたり日本征服を目指して派遣したモンゴル艦隊(元寇)を壊滅させた二つの大型台風にある。この点を踏まえたうえで、ある特攻隊員一家の痛ましい物語を紹介したい。 神風(かみかぜ) 特攻隊の誕生 1944年半ば、サイパン島の陥落によりアメリカ軍がB-29爆撃機の発進基地を手に入れるなど、いくつもの戦略的敗北を重ねた日本は、太平洋戦線で追い詰められていった。連合

  • 世紀の対決――柔術の達人・楽(らく)とアラゴンの猛獣アバディア

    心臓を握られたサラゴサの夜 1909年のある夜、スペイン・サラゴサの観衆は、まさに「世紀の一戦」と呼ぶべき試合を、息を呑んで見守っていた。リングの一方にいたのは、体重58キロ、身長165センチ。9年前にヨーロッパの地を踏んで以来、無敗を誇る日本の柔術家、上西貞一(うえにし さだかず)、通称「楽(らく)」である。その向かいには、体重100キロを優に超え、頭ひとつ分も体格で勝る地元の巨人、故郷の人々から「アラバルのアバディア」と呼ばれるアラゴン地方出身の怪力男が立っていた。 柔術の奥義に通じた華麗な技術者である楽は、この屈強なアラゴン男が自分にとって最後の大物挑戦者になるとは、夢にも思っていなかっ

  • 零戦エースが敵基地上空で演じた「死の舞踏」――一発の弾丸も撃たなかった驚異の曲技飛行

    歴史に埋もれた「敗者」たちの物語第二次世界大戦は、歴史愛好家にとって永遠のテーマです。しかし西洋では連合軍の英雄たちの活躍はよく知られていても、その対極にあった日本軍側の出来事については、意外と知られていません。ドイツ軍ならまだしも、太平洋戦線となると、日本軍の人物を挙げられる人は少ないのではないでしょうか。今回は、「負けた側」で戦い、歴史に忘れられがちな男たち――アメリカ軍と渡り合ったパイロットたちの、驚くべきエピソードをご紹介します。一発の弾丸も撃たれなかった「戦闘」ここでお話しするのは、ある意味「戦闘」と呼べない小さな出来事です。というのも、この騒動では一発も銃砲が撃たれていないのですか

  • 弟を背負い火葬場へ向かった少年――1945年・長崎、一枚の写真が物語る戦争の真実

    1945年夏、二つの都市に落とされた原子爆弾1945年8月、ハリー・トルーマン米大統領は日本への原子爆弾投下を決定した。8月6日、広島には「リトルボーイ」が、続く8月9日には長崎に「ファットマン」が投下された。同年末までに、広島では16万人以上、長崎では約8万人が死亡したと推定されている。ただし、その半数近くは爆撃当日ではなく、その後に負傷や病気で命を落とした人々である。犠牲者のうち15〜20%は、放射線による負傷や障害が原因とされる。そして今日なお、白血病やその他のがんなど、原爆から放出された放射線被曝に起因する病気で亡くなる人が後を絶たない。両市における死者の圧倒的多数は、武装していない一

  • 水中の特攻兵器「回天」と「伏龍」――第二次世界大戦で日本軍が開発した自殺攻撃の実態

    「神風(かみかぜ)」という言葉は、13世紀にモンゴル艦隊の日本征服を二度にわたって打ち砕いた暴風雨、すなわち元寇の伝説に由来します。しかし現代の私たちが思い浮かべるのは、第二次世界大戦中に連合国の艦船や施設へ体当たり攻撃を仕掛けた、旧日本海軍の特攻パイロットたちでしょう。ところが、歴史の水面下には、あまり知られていないもう一つの「水中の特攻」が存在していました。それが回天(かいてん)と伏龍(ふくりゅう)です。 特別攻撃隊の誕生 ソ連赤軍がベルリンに進軍するなか、アメリカ軍は太平洋戦線へ戦力を集中できるようになりました。圧倒的な航空・海上戦力を擁する米軍でしたが、その勝利は島ひとつひとつ、一寸ず

  • 神風の最後の飛行――玉音放送の数時間後、謎に包まれた宇垣纏中将の特攻

    カミカゼ(特攻)――第二次世界大戦中、日本軍が投入した自爆攻撃のパイロットたちについては、一般にも広く知られています。しかし今回お話しするのは、やや知名度の低い、今なお謎と論争に包まれた物語です。70年以上が経過した現在でも、当時何が本当に起きたのかは定かではありません。それは1945年8月15日、日本が降伏を発表したわずか数時間後に行われた、大戦最後の特攻出撃についてです。歴史の皮肉にも、最後の特攻に臨んだのは、幾多の出撃で若者たちを死へと送り出してきた本人でした。海軍航空隊総司令官、宇垣纏(うがき・まとめ)中将です。正装姿の宇垣纏中将エリート将校の歩んだ道宇垣は1912年、海軍兵学校を優秀

  • 希望を失う前に、帝国と首を失った侍 ― 石田三成の最期

    関ヶ原の戦いにおいて、日本の運命はまさに一発勝負に委ねられた。全国は東西の二大陣営に割れ、東軍を徳川家康が、西軍を石田三成が率いた。長年にわたる凄惨な内乱が頂点に達したこの決戦は、すべてが賭けられた大勝負であり、島国・日本の行方はここで封じられることとなった。日本史上最大の合戦には約20万の兵士が動員され、数世紀に及ぶ戦国の争乱はここに事実上の終止符を打たれた。1600年10月21日、日没の時、凄絶な殺戮の果てに家康は国の絶対的支配者の座に就いた。その家門たる徳川家は、この後250年間にわたり、将軍として天下の舵取りを担うことになる。関ヶ原の戦い ― 勝敗を分けたものこの戦いには語り草が尽きな

  • 服部半蔵――『キル・ビル』に込められたタランティーノの歴史的オマージュ

    クエンティン・タランティーノ監督の映画『キル・ビル』で、刀鍛冶にして寿司職人という妙な組み合わせで登場する服部半蔵。千葉真一が演じたこのキャラクターは、実は単なる架空の人物ではありません。その正体は、1970年代の伝説的なテレビ時代劇『影の軍団』で、同じく千葉真一自身が演じた史実の服部半蔵へのオマージュなのです。『影の軍団』から『キル・ビル』へ忍者として描かれ、武器を自在に操る半蔵が活躍する『影の軍団』は、すでに伝説の域に達した作品です。この剣と忍術のドラマシリーズをきっかけに、半蔵の人気は爆発的に高まり、日本人の集合意識の中に不動の地位を築きました。その影響は今日でも色褪せることなく、ビデオ

  • 二度の核爆発を生き延びた男――山口彊と「二重被爆者」の軌跡

    歴史に刻まれた悲劇――広島・長崎への原爆投下人類史上、核兵器が実戦で使用されたのは、1945年8月の広島と長崎への原爆投下の一度きりです。この悲劇が最後であることを、私たちは心から願わずにはいられません。ヨーロッパでの戦争が終結した後、アメリカのハリー・トルーマン大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、中国の蒋介石は、日本の降伏条件を提示する「ポツダム宣言」を発表しました。しかし日本がこれを黙殺すると、宣言が警告していた通り、「迅速かつ完全な破壊」が現実のものとなったのです。「リトルボーイ」と「ファットマン」1945年8月6日、ウラン型原子爆弾「リトルボーイ」が広島市に投下され、3日後

  • ワニとハゲワシが日本軍大隊を絶滅させた夜――ラムリー島の地獄絵図

    1942年、第二次世界大戦の太平洋戦線が最高潮に達していた頃、日本軍はビルマ(現在のミャンマー)のラムリー島を占領した。しかし戦局は大きく流れ変わり、1945年1月、「ビルマ・キャンペーン」の一環として、連合軍はラムリー島とその隣のチェドバ島の奪還攻勢を開始した。島を守備する日本軍は頑強に抵抗したものの、歩兵による上陸攻撃に加え、艦砲射撃と空爆が容赦なく降り注ぐなかで為す術はなかった。わずか6週間でイギリス軍は島を奪回したのである。沼地へ追い詰められた約900人の将兵それでも、日本軍の指揮官と約900人の将兵はジャングル奥深くへの撤退に成功した。しかし連合した。しかし連合軍に執拗に追い立てられ

  • 嘘が命を救った――長崎原爆で生き延びた米軍パイロット、マーカス・マクディルダの奇跡

    1945年8月、ハリー・トルーマン米大統領は日本への原子爆弾投下を決定した。8月6日には広島にリトルボーイが、続く9日には長崎にファットマンが投下された。そして8月15日、日本は連合国に対して無条件降伏を発表。第二次世界大戦はここに幕を閉じたのである。リトルボーイと終戦への道しかし、この長崎への原爆投下によって、命を救われたアメリカ人兵士がいた。その名はマーカス・マクディルダ中尉である。原爆投下は日本の降伏を決定づけたが、それまでの数か月間、日本各地の都市はB-29による空襲にさらされており、「リトルボーイ」投下後も爆撃は続いていた。8月7日、爆撃機の護衛任務についていたP-51ムスタング戦闘

  • 「日本人だけを襲え」――第二次世界大戦中、米軍が進めた攻撃犬による日本上陸の極秘計画

    1941年、アメリカが対日宣戦布告を行うと、フランクリン・D・ルーズベルト政権は、アメリカ在住の日系人――二世(ニセイ)、三世(サンセイ)といったアメリカ国籍を持つ者まで含めて――の移送と強制収容を命じた。真珠湾攻撃に米国内の日系人が協力したという疑い、そして日系市民が「第五列(内部から働く敵)」として行動するのではないかという恐怖こそが、これらの収容所設置を正当化したのである。1942年には、収容と移送を担当する機関「戦争移住局(War Relocation Authority)」が7つの州に10か所の収容所を建設し、10万人以上の人々を移送した。これと並行して陸軍省は、日系の現役将兵を全員

  • 米国本土を爆撃した日本人パイロット、20年後に「切腹の覚悟」で謝罪の旅へ

    1942年2月23日、真珠湾攻撃にも参加した帝国海軍の潜水艦「伊一七(I-17)」が、カリフォルニア州サンタバーバラ近郊のエルウッド油田施設を艦砲射撃した。米軍が反応する前に同艦は潜航して姿を消した。日本軍がアメリカ本土を攻撃したのはこれが初めてであり、沿岸部の住民の間にはパニックが走り、「次は真珠湾のような空襲が来るのではないか」という恐怖が広まった。しかしその日、それ以上のことは起こらなかった――1942年9月9日までは。史上初、敵性航空機による米本土空襲1942年9月9日の朝、オレゴン州沖の太平洋上に日本海軍の潜水艦「伊二五(I-25)」が浮上した。I-25は潜水空母で、艦内に折りたたみ

  • 愛と犠牲の象徴となったロシア人妻――シベリア抑留が生んだ三人の絆

    三角関係と聞くと、浮気や嘘の話を想像しがちだ。しかし、ロシア人女性クラフディア・ノビコワと、日本人蜂谷弥三郎、そしてその妻ヒサコを結ぶ三角形に隠されていたのは、純粋な愛と犠牲だけであった。 戦火が変えた二人の人生 第二次世界大戦中、弥三郎は妻ヒサコとともに日本を離れ、朝鮮半島に移り住んで二人の子どもに恵まれた。しかしヨーロッパでの戦争が終結し、ヤルタ会談の合意に基づいて1945年8月にスターリンが対日参戦を宣言すると、ソ連軍は満洲、朝鮮、千島列島へと進攻していった。 朝鮮在住の多くの日本人と同じように、弥三郎もスパイ容疑をかけられ、過酷なシベリアの強制収容所(グラーグ)で10年の刑に処された。

  • 独裁者が生態系を操作すると何が起こるのか?――歴史が残した二つの大惨事

    ダーウィンの自然選択説と、それに逆らった男たち博物学者チャールズ・ダーウィンが『種の起源』(1859年)で提唱した自然選択は、生物が環境へ適応しながら進化していく仕組みを説明するものです。この適応は本来、有利な遺伝的変異が集団の中に世代を超えて少しずつ蓄積されることで実現します。しかし、物事をねじ曲げようとする「空想家」はいつの時代も存在するもの。ここに登場するのが、ソ連の生物学者トロフィム・リセンコです。スターリンの直々の命令により、彼の理論を批判したり疑問を呈したりすることは許されませんでした。リセンコはソ連の農業生産向上研究の最前線に立ち、多くの科学者、とりわけ遺伝学者たちはキャリア、教

  • 「中国人のように騙す」――イギリスとアメリカが「発明」した搾取の歴史

    マルサスの予言と「グアノ」の時代19世紀半ば、ヨーロッパは初めてマルサスの理論の予兆に直面した。「食料生産は人口の増加に比例しては増えない」――つまり、基礎的な生活必需品に深刻な供給不足が近いうちに発生しうるという警告である。旧大陸の農地は、数十年にわたる過剰な耕作と土壌浸食によってすでに疲弊しきっていた。1840年代、イギリス人はグアノ(海鳥の糞)が優れた肥料となることを発見し、ペルーからの大規模な調達を開始した。窒素・アンモニア・リン酸塩・アルカリ塩に富むこの貴重な肥料の「収穫」は、ほぼすべてチンチャ諸島(ペルー)で行われた。この太平洋の海域にはカモメやペリカンなどの海鳥が生息し、長い歳月

  • 「一騎打ち」上杉謙信vs武田信玄――川中島の戦いの伝説を検証する

    上杉謙信、信玄本陣へ突撃川中島の戦いにまつわる逸話として最も広く知られているのが、いわゆる「一騎打ち」である。それによれば、戦況が自軍に不利だと悟った上杉謙信は、宿敵・武田信玄をこの一撃のもとに討ち取るべく、すべてを賭けて単騎、武田本陣へと突撃したという。絶体絶命の窮地に立たされた謙信が、馬を飛ばして敵将の首を目指したのである。謙信が本陣に踏み込んだとき、そこには床几(しょうぎ)に腰掛けた武田信玄の姿があった。信玄は太刀を抜く余裕もなく、手にしていたのは軍配ただひとつ。これを楯にして身を守るほかなかったと伝えられる。謙信は三尺(約90cm)の太刀を振りかざし、信玄の頭上目がけて斬り下ろした。信

  • 女武芸者・巴御前――源平合戦を駆け抜けた伝説の侍の女性

    11世紀から12世紀の中世日本では、天皇の形式的な権威は名ばかりとなり、実権は有力な武家や将軍たちの手に握られていました。10世紀初頭以来の平安時代(794年~1185年)、天皇権力の弱体化を背景に、複数の武士団が互いに覇権を争うようになり、ついに源平合戦(1180年~1185年)が勃発します。この戦乱は、異なる皇位継承候補をそれぞれ支持した平氏と源氏の争いでした。当初、源頼朝は敗北を喫しますが、甲斐武田氏との同盟により勢力を巻き返し、最終的に日本最大の武家の座を確立します。そして、この戦乱に身を投じた一人こそ、本稿の主人公である巴御前(1157年~1184年?)。彼女は「女武芸者」として、名

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