世界史

歴史上の人物

  • フランソワ・クロード・アムール・ド・ブイユ侯爵(1739年~1800年)

    フランスの将軍、そして熱心な王党派 フランソワ・クロード・アムール・ド・ブイユ侯爵(François Claude Amour, marquis de Bouillé、1739年~1800年)は、フランスの将軍であり、揺るぎない信念を持つ王党派の人物でした。 彼の名を一躍有名にしたのは、1790年8月に発生したナンシー駐屯スイス連隊の反乱の鎮圧です。当時、フランス革命の混乱の中で軍隊内の規律は大きく揺らいでいましたが、ブイユは断固とした態度でこの反乱を制圧し、王国軍の秩序を守ろうとしました。この行動により、ルイ16世からも高い信頼を寄せられることになります。 ヴァレンヌ逃亡事件への関与 その

  • シャルル・ド・ボンシャン侯爵(1760〜1793):ヴァンデ反乱の英雄、4,000人の命を救った「慈悲の遺言」

    シャルル・メルシオール・アルテュス・ド・ボンシャン侯爵は、フランス革命期に勃発したヴァンデ反乱を率いた貴族出身の将軍です。アメリカ独立戦争での従軍経験を持つ有能な軍人であり、反乱初期には卓越した戦略眼と組織力でヴァンデ軍を支えました。そして生涯の最期に残した「敵兵4,000人の赦免」という決断は、今日でもフランスで語り継がれています。 軍人としての歩み 1760年、アンジュー地方の貴族の家に生まれたボンシャンは、若くしてフランス王国軍に入隊しました。アメリカ独立戦争では北アメリカとインドの両戦線に従軍し、貴重な実戦経験を積んでいます。革命の勃発後、彼は軍務を離れ、アンジューにある自らの領地

  • ボナパルト エリザ(1777年〜1820年)— 兄ナポレオンの領土を見事に統治した長姉

    ナポレオン・ボナパルトの姉妹の中で最年長だったエリザは、兄が獲得した二つのイタリア侯国を、類まれな知性と卓越した行政手腕で統治した女性である。「ボナパルト家で最も有能な人物」と評された彼女の生涯を紹介する。 プロフィール 生誕:1777年1月3日、コルシカ島アジャクシオ 死去:1820年8月7日、トリエステ近郊(享年43歳) 本名:マリア・アンナ・エリザ・ボナパルテ 配偶者:フェリーチェ・バチョッキ 主な称号:ルッカ・ピオンビノ公妃、トスカーナ大公妃 幼少期と教育 エリザはカルロ・ブオナパルテとレティツィア夫妻の娘としてコルシカ島に生まれた。兄弟姉妹の中でも際立って聡明で強い意志の持

  • ポーリーヌ・ボナパルト(1780年〜1825年)——ナポレオンの妹の波乱に満ちた生涯

    ナポレオンの妹として生まれた美貌の貴婦人 ポーリーヌ・ボナパルト(1780年〜1825年)は、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの二人目の妹にあたる人物です。ボナパルト家きっての絶世の美女として知られ、その華やかな容姿と自由奔放な性格は、当時の社交界で大きな話題となりました。 ルクレール将軍との結婚と突然の死別 ポーリーヌは、ナポレオン麾下の将軍であるシャルル・ルクレールと結婚しました。しかし幸せな結婚生活は長くは続きませんでした。夫ルクレールは、カリブ海の植民地サントドミンゴ(現在のハイチ)における遠征の指揮を命じられますが、この遠征のさなかに命を落としてしまいます。こうしてポーリーヌは、

  • リュシアン・ボナパルト(1775年〜1840年):ナポレオンを支えた弟の波乱の生涯

    リュシアン・ボナパルト(1775年〜1840年) リュシアン・ボナパルトは、フランス第一帝政の皇帝ナポレオン1世の弟にあたる人物です。兄たちと同じく、少年時代をシャンパーニュ地方のブリエンヌ陸軍学校で過ごしました。 政治への道 リュシアンは幼い頃から政治に強い魅力を感じていました。フランス革命期には熱心な共和主義者として頭角を現し、やがて代議院(五百人会)の議員に選出されます。その後、わずか24歳という若さで五百人会の議長にまで昇りつめました。 ブリュメール18日のクーデター 1799年11月9日(共和暦8年ブリュメール18日)、兄ナポレオンが権力掌握を目指してクーデターを起こすと、リュシア

  • ルイ・ボナパルト(1778年〜1846年):ナポレオンの弟にしてオランダ王

    ルイ・ボナパルトとは ルイ・ボナパルト(Louis Bonaparte、1778年9月2日〜1846年7月25日)は、フランス皇帝ナポレオン1世の三弟にあたる人物で、後にオランダ初代国王(ルイ1世)となりました。コルシカ島アジャクシオに生まれ、兄ナポレオンの栄光と転落を身近で見届けた一人です。 軍人としての出発:イタリアとエジプトでの副官時代 ルイは青年期に軍隊へ入り、イタリア遠征およびエジプト遠征において兄ナポレオンの副官(aide-de-camp)として従軍しました。戦場での経験を積む一方、詩や文学にも関心を持つなど、武人というより繊細な気質の持ち主だったと言われています。 本人の意

  • ジェローム・ボナパルト(1784年〜1860年)― ナポレオンの末弟、ヴェストファーレン王からフランス元帥へ

    ナポレオン1世の末弟として生まれる ジェローム・ボナパルト(Jérôme Bonaparte、1784年11月15日 - 1860年6月24日)は、コルシカ島アジャクシオに生まれたボナパルト家の末子であり、フランス皇帝ナポレオン1世の最年少の弟にあたる人物です。 若くして海軍士官としてキャリアを始めましたが、青年期には奔放な行動でも知られていました。1803年には渡米先のボルチモアでアメリカ人女性エリザベス・パターソンと結婚しますが、ナポレオンはこの結婚を認めず、婚姻は無効とされました。その後、彼はヴュルテンベルク王女カタリーナを新たな妻として迎えています。 1807年、ヴェストファーレン国

  • ジョゼフ・ボナパルト(1768年~1844年)―ナポレオンの長兄にしてナポリ王・スペイン王

    ジョゼフ・ボナパルト(Joseph Bonaparte、1768年1月7日 – 1844年7月28日)は、フランス皇帝ナポレオン1世の長兄であり、外交官、そして君主として知られる人物です。弟ナポレオンの台頭とともに歴史の表舞台に立った彼は、数々の重要な国際条約に署名し、やがて二つの王国の王冠を戴くことになりました。 外交官としての活躍――三大合意への署名 弁護士としてのキャリアを経て外交の道に進んだジョゼフは、革命期から執政政府期にかけて要職を務めました。彼の名声を特に高めたのは、次の三つの重要な合意への署名です。 リュネヴィル条約(1801年):第二次対仏大同盟から離脱したオーストリア

  • カロリーヌ・ボナパルト(1782–1839):ナポレオンの末妹にしてナポリ王妃の波乱の生涯

    カロリーヌ・ボナパルト(Caroline Bonaparte、1782年3月25日 – 1839年5月18日)は、フランス皇帝ナポレオン1世の末の妹であり、ナポレオン麾下の名将ジョアシャン・ミュラの妻としてナポリ王妃の座に就いた女性です。野心家として知られ、夫とともに王国の防衛に奔走しましたが、最後までそれを守り切ることはできませんでした。コルシカ島で生まれた末の妹カロリーヌは1782年、コルシカ島のアジャクシオで、弁護士カルロ・ブオナパルテとレティツィア・ラモリーノの間に生まれました。兄弟姉妹の中では三番目の妹にあたり、兄ナポレオンがフランス革命の混乱の中で頭角を現す姿を幼少期から間近に見て

  • ボワシー・ダングラス伯爵フランソワ(1756〜1826)— 革命から帝政までを生き抜いたフランスの政治家

    フランソワ・アントワーヌ・ド・ボワシー・ダングラス(1756年〜1826年)は、フランス革命からナポレオン帝政、そして王政復古に至る激動の時代を生き抜いた政治家である。パリ高等法院の弁護士として出発し、最終的には帝国伯爵、さらにはフランス貴族院議員まで上り詰めたその生涯は、18世紀末から19世紀初頭のフランス政治史を映す鏡と言えるだろう。弁護士から革命政治家へボワシー・ダングラスは当初、パリ高等法院(パルルマン・ド・パリ)の弁護士として活動していた。1789年には三部会に選出されたものの、この段階ではまだ目立たない存在にとどまっていた。その後、国民公会に選出されると、「平原派」と呼ばれる穏健派

  • ターラントのボエモン1世(1050年頃 – 1111年):第一回十字軍の英雄とその転落

    ターラントのボエモン1世(1050年頃 – 1111年) 南イタリアのノルマン人領主ロベルト・イル・グイスカルドの長男として生まれたボエモンは、第一回十字軍における最も重要な指導者の一人でした。1098年6月2日、彼はシリアの要衝アンティオキアを見事に攻略し、ここにアンティオキア公国を築き上げます。 ビザンツとトルコの挟撃 しかし、新たに手に入れたシリアの公国を守り抜くことは容易ではありませんでした。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とセルジューク朝トルコという二つの強大な勢力による二重の脅威にさらされ、ボエモンはその支配を長く維持することができませんでした。 捕虜生活とヨーロッパへの帰還 11

  • カスティーリャのブランシュ(1188年–1252年)——フランス王権を支えた摂政の生涯

    カスティーリャのブランシュ(Blanche de Castille)は、イングランド王妃であり中世ヨーロッパで最も影響力のある女性の一人であったアリエノール・ダキテーヌの孫娘です。カスティーリャ王アルフォンソ8世と、アリエノールの娘エレノアとの間に生まれた彼女は、その高貴な血筋によって運命を大きく動かされることになります。 政略結婚――フランスとイングランドの和解の架け橋 1200年、ブランシュはまだ幼いながらも、将来のフランス国王となるルイ8世との結婚を約束されました。この縁組の最大の目的は、長年対立を続けてきたフランス王国とイングランド王国の和解にありました。両国をつなぐ血縁関係を作る

  • ジャン=ニコラ・ビヨー=ヴァレンヌ(1756〜1819)──フランス革命期の過激派指導者の生涯

    ジャン=ニコラ・ビヨー=ヴァレンヌは、フランス革命期において最も過激な立場を取った政治家の一人です。西部の港町ラ・ロシェルで弁護士として活動していた彼は、革命の激動の中で急速に頭角を現し、やがて恐怖政治の中枢を担う存在となりました。 革命政治家への台頭 1792年7月、ビヨー=ヴァレンヌはジャコバン・クラブの副会長に就任します。さらに同年8月10日の王政打倒(八月十日事件)の後には、ダントンの後任としてパリ・コミューンの副検事の座につきました。 続いて国民公会の議員に選出されると、国王ルイ16世の死刑に賛成票を投じます。また、ジロンド派の失脚にも深く関与し、革命政府内部での発言力を着実に強めて

  • ジャン=バティスト・ベシエール(1768年〜1813年)— ナポレオンに仕えた帝国の勇将

    ジャン=バティスト・ベシエールとはジャン=バティスト・ベシエール(Jean-Baptiste Bessières、1768年〜1813年)は、フランス革命戦争からナポレオン戦争にかけて活躍したフランス軍の将軍であり、後に帝国元帥に列せられた人物です。卓越した騎兵指揮官として知られ、その武勇は帝政期を通じて数多くの公式戦功として表彰されました。ナポレオンとの絆ベシエールは1798年のエジプト遠征でボナパルト(後のナポレオン1世)に同行し、以来、皇帝の最も信頼する部将の一人となりました。とりわけ名高いのは1799年のブリュメール18日のクーデターです。この政変の際、ベシエールはボナパルトの身辺を守

  • ベルトラン・デュ・ゲクラン(1320年~1380年)――剣で貴族たちの敬意を勝ち取ったブルターニュの英雄

    ベルトラン・デュ・ゲクランは、フランス北西部ブルターニュ地方の出身です。高貴な生まれではなかったものの、手にした剣によって貴族たちの尊敬を勝ち取り、数々の武勇伝を残した、中世後期フランスを代表する偉大な戦士の一人でした。 シャルル5世への仕官とコシュレルの戦い フランス王シャルル5世に仕えたゲクランは、1364年のコシュレルの戦いにおいて、「悪人王」と呼ばれたナバラ王シャルル2世の軍を打ち破り、その名声を不動のものとしました。しかしその同年、モンフォール派と戦ったオレイの戦いでは敗北し、一時捕虜となる苦難も経験しています。 スペイン遠征と「大傭兵団」の統率 1365年、フランス王の要請を受けた

  • ベルトラダ・ド・ラオン(?〜783年)――カール大帝の母となったフランク王国の王妃

    ベルトラダ・ド・ラオン(Bertrade de Laon、?〜783年7月12日)は、フランク王国の王妃であり、カール大帝(シャルルマーニュ)の母として知られる歴史上の人物です。「大足のベルタ」という異名でも広く知られています。 ラオン伯カルベールの娘として生まれる ベルトラダは、ラオン伯カルベール(Caribert)の娘として生まれました。生年については710年代から720年代まで諸説ありますが、当時の貴族女性としては珍しく、その名前と出自が比較的明確に記録に残っている人物です。 ピピン3世との結婚と王妃への道 当初、ベルトラダは後のフランク王ピピン3世(小ピピン)にとって正式な妻ではなく

  • ルイ=アレクサンドル・ベルティエ(1753〜1815)― ナポレオンの右腕となった参謀総長の生涯

    軍人であり、同時に優れた技師・地理学者でもあったルイ=アレクサンドル・ベルティエは、アメリカ独立戦争にも従軍した経験を持つフランスの将軍です。ナポレオン・ボナパルトの参謀総長として帝国の軍事機構を支えた「皇帝の右腕」でしたが、その最期は深い謎に包まれています。 アメリカ独立戦争から革命期へ ベルティエは工兵および地理学者としての高い能力を備えており、ロシャンボー伯爵率いる遠征軍に加わってアメリカ独立戦争に参加しました。ところがフランス革命が勃発すると、王党派の疑いをかけられ一時職を追われることになります。その後、西部ヴァンデ地方で蜂起した「白軍」と呼ばれる王党派反乱軍との戦役に従軍して武功を

  • クレルヴォーのベルナルド(1090〜1153)― 中世キリスト教西欧を導いたシトー会の聖人

    貴族出身から修道士へ クレルヴォーのベルナルドは、ブルゴーニュ地方の貴族の家に生まれました。1113年、彼はシトー会の母院であるシトー修道院に入り、厳しい修行生活への一歩を踏み出します。当時のシトー会は創立間もない改革派の修道会であり、ベルナルドの入会は、親族や友人たちをも巻き込む大きな決断でした。 クレルヴォー修道院の創設と発展 1115年、わずか24歳のベルナルドは新たな修道院の設立を命じられ、シャンパーニュ地方にクレルヴォー修道院を創設しました。彼の卓越した指導力のもとで同修道院は急速に発展し、やがてシトー会全体で最も名高い修道院となりました。周囲には「ベルナルドが奇跡を起こす」という

  • ベルナール7世(アルマニャック伯)の生涯 ― フランス内戦期の貴族・軍人(1360年~1418年)

    はじめに ベルナール7世(Bernard VII dArmagnac、1360年頃 – 1418年)は、中世後期フランスの有力貴族であり、「アルマニャック派」と呼ばれる政治勢力の指導者として名を残した人物です。百年戦争の混乱の中でフランス宮廷に影響力を広げ、ブルゴーニュ派との熾烈な権力闘争を展開しましたが、最期は悲劇的な死を迎えます。本記事では、その波乱に満ちた生涯をたどります。 アルマニャック伯への継承 1391年、兄の死去に伴い、ベルナールはアルマニャック伯の地位を継承しました。南仏ガスコーニュ地方を本拠とするアルマニャック家の当主となった彼は、しだいにフランス王宮廷において発言力を高め

  • ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット(1763-1844)―フランス元帥からスウェーデン国王へ

    フランス元帥にしてスウェーデン王朝の祖となった異色の人物、ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット(Jean-Baptiste Jules Bernadotte、1763-1844)。フランス革命とナポレオン戦争で頭角を現し、皇帝に疎まれながらも北欧の王座に就き、その血筋は現代まで続いています。革命軍人からフランス元帥へベルナドットは1763年、南仏ポーで検事の息子として生まれました。16歳で軍隊に入り、フランス革命の勃発とともに急速な出世を遂げます。ライン方面軍などで旅団長・師団長として活躍し、1794年には准将に昇進しました。1804年、ナポレオン帝政の成立とともにフランス元帥に列せられ

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