世界史

歴史上の人物

  • 「ラ・イール」ことエティエンヌ・ド・ヴィニョル(1380年~1442年)— ジャンヌ・ダルクと共に戦った伝説の猛将

    気性の荒さから生まれたあだ名「ラ・イール」 エティエンヌ・ド・ヴィニョルの通称である「ラ・イール(La Hire)」というあだ名は、彼が非常に気性が荒く、すぐに怒りを見せたことに由来すると言われています。フランス語で「ire(イール)」は「怒り」を意味する言葉です。 ラ・イールは、百年戦争期のフランスにおいて最も勇猛な戦士の一人としてその名を馳せました。荒々しい性格でありながら、戦場では比類なき武勇を発揮した人物でした。 ジャンヌ・ダルクとの出会いと輝かしい戦功 1429年、彼はオルレアン包囲戦のさなかにジャンヌ・ダルクと出会いました。以降、彼はジャンヌの麾下で戦い続けます。 特にジャルジョ

  • アンゲラン・ド・マリニー(1260年 - 1315年):フランス王フィリップ4世の財務官僚、その栄光と悲劇的な最期

    アンゲラン・ド・マリニー(Enguerrand de Marigny、1260年頃 - 1315年)は、フランス王フィリップ4世(端麗王)に仕えた宮廷侍従兼大臣です。王の深い信任を得て王国財政の実権を握り、中世フランスで最も有能な財務官僚の一人とされますが、その辣腕ぶりゆえに多くの敵を作り、最終的には絞首台で生涯を閉じることになりました。 フィリップ4世の寵臣として マリニーはノルマンディー出身の下級貴族でした。当初は王族に仕えていましたが、やがてフィリップ4世の目に留まり、宮廷へ引き立てられます。1306年にはノルマンディー地方の財務を統括するために派遣され、以降は王国全体の財政運営の中核を

  • アンギャン公ルイ・アントワーヌ・アンリ(1772–1804):ナポレオンに処刑されたブルボン家の公子

    アンギャン公ルイ・アントワーヌ・アンリは、フランス貴族社会において最も名門とされるコンデ公家の末裔であり、ブルボン朝の傍系に連なる人物でした。 エッテンハイムでの静かな亡命生活 フランス革命後、彼はストラスブールの対岸に位置するバーデン領エッテンハイムに亡命し、平服姿で穏やかな日々を送っていました。フランス本土からほど近い場所ではありましたが、政治活動に直接関与していた形跡はほとんどありません。 深夜の拉致とヴァンセンヌ城での処刑 1804年3月15日から16日にかけての夜、ナポレオンの部隊が国境を越えてアンギャン公を拉致しました。彼はただちにパリへ移送され、ヴァンセンヌ城で簡素な軍事法廷に

  • モーリス・ジゴスト・デルベ(1752年〜1794年):ヴァンデ反乱を率いたカトリック王党派軍の将軍

    革命から王党派への転換 モーリス・ジゴスト・デルベは元騎兵将校であり、1789年には第三身分の議員として三部会に参加しました。当初はフランス革命に好意的な立場を取っていましたが、革命政府が聖職者を国家の管理下に置こうとした「聖職者民事基本法」に強い衝撃を受け、やがてヴァンデ地方の反乱へと身を投じることになります。 カトリック王党派軍の総司令官として デルベは農民出身の英雄ジャック・カトリノーと共に戦い、カトリノーが倒れた後にはその後を継ぎ、カトリック王党派軍の総司令官に就任しました。戦場での勇猛さは際立っており、同時に豊富な軍事的経験と冷静な判断力を持っていたため、血気盛んな若い将軍たちにと

  • アインハルト(770年頃 - 840年)――カール大帝の側近にして伝記作家

    アインハルト(Einhard、770年頃 - 840年)は、フランク王国のカール大帝に仕えた廷臣・歴史家です。彼が著した『カール大帝伝』は、大帝その人とフランク王の宮廷生活を伝える同時代史料として、今日でも最も貴重な文献の一つとされています。 カール大帝の信任を得た側近 アインハルトは文人であると同時に建築家でもあり、王の親密な顧問として宮廷に迎え入れられました。マインガウ地方の出身で、フルダ修道院で学んだ後、カール大帝の宮廷に招かれ、優れた学識と実務能力によって深い信頼を得るようになりました。アーヘンの宮廷建築にも関与したとされ、建築の分野でも才能を発揮しています。 『カール大帝伝』と

  • アドリアン・デュポール(1759-1798):フランス革命を駆け抜けた法学者・政治家

    アドリアン・デュポール(Adrien Duport、1759年-1798年)は、フランス革命期に活躍した優れた法学者であり、熱心なフリーメイソンでもあった人物です。貴族出身でありながら革命の理念に深く共鳴し、その短い生涯を司法改革と自由主義的な政治の実現に捧げました。 三部会と国民議会での活躍 1789年に召集された三部会では、貴族身分の代表として選出されました。しかし彼はまもなく第三身分(平民)側に合流し、革命推進の中心的な存在となっていきます。 特に有名なのは、バルナーヴ(Antoine Barnave)およびラメット(Alexandre de Lameth)とともに結成した「三頭政治

  • シャルル=フランソワ・デュムーリエ(1739年〜1823年):フランス革命を勝利に導いた将軍の栄光と転落

    デュムーリエとは何者かシャルル=フランソワ・デュ・ペリエ・デュムーリエ(Charles-François du Périer Dumouriez、1739年〜1823年)は、フランス王国とフランス革命政府の両方に仕えた軍人・外交官です。18歳で軍隊に入り、その後はルイ15世のもとで外交官としてヨーロッパ各国の宮廷を渡り歩きました。しかし、その経歴は決して平坦なものではなく、一時期はバスティーユ牢獄に投獄され、ルイ16世の即位まで釈放されなかったこともあります。外務大臣として戦争を主導1792年、デュムーリエはルイ16世の外務大臣に任命されます。彼はオーストリアに対する宣戦布告を強く推し進め、こ

  • ジャック・フランソワ・コキーユ・デュゴミエ(1738年~1794年)――トゥーロン奪還を指揮し、ナポレオンを見出した革命期の名将

    ジャック・フランソワ・コキーユ・デュゴミエ(Jacques François Coquille Dugommier、1738年~1794年)は、フランス革命期を代表する将軍の一人です。15歳で軍隊に入隊すると、アメリカ独立戦争で目覚ましい戦功を挙げ、その名を広く知られるようになりました。 グアドループ島出身の軍人 デュゴミエはカリブ海のグアドループ島の出身です。フランス革命が本格化すると、故郷を代表する議員として国民公会に選出され、軍人であると同時に政治の舞台にも足を踏み入れました。 トゥーロン奪還とナポレオンとの出会い 1793年、反乱によりイギリス軍の手に落ちた南仏トゥーロンの奪還作

  • ロジェ・デュコ(1747年–1816年)|ナポレオンと共に権力を握ったフランスの政治家

    ロジェ・デュコ(1747年3月25日 – 1816年3月16日)は、フランス革命期から第一帝政期にかけて活動したフランスの政治家である。革命の激動の中で要職を歴任し、ナポレオン・ボナパルトによる権力掌握の過程でも重要な役割を果たした人物として知られている。 革命期の経歴 デュコは弁護士出身で、1792年に国民公会の議員に選出され、前国王ルイ16世の処刑に賛成票を投じた。その後、五百人会の議員を務め、1799年6月には総裁政府(ディレクトワール)の統領の一人に就任した。 ブリュメール18日のクーデター 1799年11月9日(共和暦ブリュメール18日)、デュコはナポレオン・ボナパルトおよびエ

  • ポワティエのディアンヌ(1499年〜1566年)——フランス・ルネサンスを彩った絶世の寵姫

    フランス・ルネサンス期を代表する伝説的な女性、ディアンヌ・ド・ポワティエ(Diane de Poitiers)。彼女は自らより40歳年上のノルマンディー大元帥ルイ・ド・ブレゼに嫁ぎましたが、その人生は結婚だけにとどまらず、二人のフランス国王の寵愛を受けるという波乱に満ちたものでした。 二人の王を虜にした絶世の美女 ディアンヌはまず国王フランソワ1世の最初の愛妾となり、その後、次代の王アンリ2世の寵姫として宮廷に君臨しました。驚くべきことに、アンリ2世は彼女よりも20歳も年下でした。それでも若い王は美しく聡明なディアンヌに心を奪われ、その関係は王が亡くなるまで続いたといわれています。 王に

  • カミーユ・デムーラン(1760年 - 1794年)— フランス革命を煽ったジャーナリスト

    カミーユ・デムーランとはカミーユ・デムーラン(Camille Desmoulins、1760年3月2日 - 1794年4月5日)は、フランス革命期に活躍した弁護士、ジャーナリスト、政治家です。雄弁な演説と過激なパンフレットによって民衆の感情を巧みに煽り、革命の火付け役となった人物として知られています。バスティーユ襲撃への導火線となった演説1789年7月12日、デムーランはパレ・ロワイヤル(王宮広場)に立つと、テーブルの上に立ち上がって群衆に向かって演説を行いました。この演説はパリの民衆を蜂起へと駆り立てるきっかけとなり、その熱気は2日後の7月14日のバスティーユ牢獄襲撃という歴史的な事件へと結

  • ドゼー将軍 ルイ・シャルル・アントワーヌ(1768〜1800)――「恐れを知らぬ無比の戦士」の生涯

    ブルゴーニュ出身の若き軍人ルイ・シャルル・アントワーヌ・デゼー(Louis Charles Antoine Desaix、1768年〜1800年)は、フランス革命戦争からナポレオン時代初期にかけて活躍した名将です。貧しい貴族の家に生まれた彼は、若くしてブロイ公爵の副官として軍歴をスタートさせ、その後はピシュグリュ、さらにオッシュ将軍のもとで頭角を現していきました。ライン戦線での華々しい活躍1796年のライン方面作戦において、デゼーは卓越した戦術眼を遺憾なく発揮します。とりわけカイザースラウテルンの戦いでは、劣勢にあったフランス軍を巧みな指揮で立て直し、「奇跡的な用兵」と称えられる活躍を見せまし

  • ダヴー・ルイ=ニコラ(1770 - 1823):無敗を誇った「鉄の元帥」

    ダヴー・ルイ=ニコラ(Louis-Nicolas dAvout、1770年 - 1823年)は、「鉄の元帥」という異名で広く知られるフランス第一帝政の元帥です。厳格な規律と冷静な用兵で部隊を鍛え上げ、ナポレオン麾下でも屈指の実力者として恐れられました。 フランス革命期〜エジプト遠征 フランス革命期、ダヴーは敵陣へ寝返ろうとしたデュムーリエ将軍の阻止に動くなど、早くからその剛胆さを見せています。その後ボナパルト(後のナポレオン)に従ってエジプト遠征に参加し、騎兵旅団の指揮官として頭角を現しました。 アウステルリッツの戦い(1805年) 三皇会戦として名高いアウステルリッツの戦いでは、オース

  • ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748年-1825年):フランス新古典主義の巨匠

    ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748年-1825年)とは ジャック=ルイ・ダヴィッドは、18世紀末から19世紀初頭にかけてのフランスを代表する画家です。古代ギリシャ・ローマの美学規範への回帰を掲げた新古典主義の中心人物として、同時代の美術界に絶大な影響力をふるいました。画家にとどまらず、フランス革命期には政治家としても活動するなど、激動の時代を駆け抜けた人物でもあります。 新古典主義の旗手として ダヴィッドはパリに生まれ、王立絵画彫刻アカデミーで学んだ後、1774年にローマ大賞を受賞してイタリアへ留学しました。古代遺跡やルネサンス美術に直接触れたこの経験が、彼の様式形成に決定的な影響を与えま

  • ダゴベルト1世(604年〜639年)|フランク王国を再統一したメロヴィング朝の名君

    ダゴベルト1世(604年頃〜639年)は、フランク王国メロヴィング朝の王です。父クロタール2世の死後、アウストラシア・ネウストリア・ブルグントの全域を掌握して王国を再統一し、内乱のない平和と秩序をもたらした、メロヴィング朝でも指折りの名君として記憶されています。幼少期――二人の摂政のもとでダゴベルトはクロタール2世の子として生まれ、10歳のときにランデンのピピンとメスのアルヌルフという二人の有力貴族の後見・摂政のもとに置かれました。622年(一説には623年)には父によってアウストラシアの王位につけられますが、実権はこの二人が握っていました。彼らは後にカロリング朝へと発展する貴族家門の祖であり

  • ダゴベルト2世(652年–679年):陰謀に翻弄されたメロヴィング朝アウストラシア王

    ダゴベルト2世(652年–679年):陰謀に翻弄されたメロヴィング朝の王ダゴベルト2世(Dagobert II、652年頃–679年)は、フランク王国メロヴィング朝のアウストラシア分王国の王です。父はアウストラシア王シギベルト3世、母は王妃キムネキルディス。その短い生涯は、宮宰たちの権力闘争に翻弄された悲劇的なものでした。出生と宮宰グリモアルドの陰謀シギベルト3世には長らく男子の後継者がいませんでした。そこで宮宰グリモアルド(大グリモアルド)は、自分の息子キルデベルトを国王の養子として迎えさせ、将来の王位継承を画策していました。しかし、その後にダゴベルトが誕生します。656年にシギベルト3世が

  • ダゴベルト3世(699年~715年)

    ダゴベルト3世(699年~715年)ダゴベルト3世は、フランク王国メロヴィング朝の国王であり、先代の王シルデベール4世の息子として生まれました。父王の死後、まだ幼少であった彼が王位を継承します。後見者・ピピン2世の影響下での治世ダゴベルト3世の治世において、王国の実権は宮宰(マイヨール・ド・パレ)であるピピン2世、すなわち「ヘルスタルのピピン」が掌握していました。ダゴベルト3世はこの強力な後見者の支配のもとで、ブルグントとネウストリアの両地域を名目上統治することとなりました。しかし、実際の政治的な決定権はピピン2世の手にあり、ダゴベルト3世自身が主体的に政治に関与することはほとんどありませんで

  • ジャン・コットロー、通称ジャン・シュアン(1757年〜1794年)

    ジャン・シュアンとは何者かジャン・コットロー(Jean Cottereau、1757年〜1794年)は、フランス革命期に西部フランスで王党派の反乱を指揮した人物であり、「ジャン・シュアン(Jean Chouan)」の名で広く知られています。彼は三人の兄弟(シュアン兄弟)とともに、メーヌ地方南部でカトリック信仰と王政を守るための武装蜂起を起こしました。この反乱運動はやがて「シュアヌリー(chouannerie)」と呼ばれるようになります。「シュアン」というあだ名の由来彼が「ジャン・シュアン」と呼ばれるようになったのは、仲間同士の合図としてフクロウの鳴き声を採用していたことに由来します。夜間の山野

  • シャルロット・コルデー(1768年〜1793年):マラーを暗殺したフランス革命の女性

    敬虔な王党派の家庭に生まれながらも共和主義者となり、カーンのジロンド派と親交を深めたシャルロット・コルデー。1793年7月13日、ジロンド派失脚の張本人と目されていたジャン=ポール・マラーを短剣で刺殺しました。裁判は短期間で結審し、同年7月17日にギロチン刑に処されましたが、彼女は最期の瞬間まで冷静さと大きな勇気を示したことで知られています。また、彼女は17世紀を代表する劇作家ピエール・コルネイユの直系の子孫でもあります。 敬虔な王党派の家に生まれて マリー=アンヌ・シャルロット・ド・コルデー・ダルモンは、1768年にノルマンディ地方のサン=サトゥルナン=デ=リニュリで、小貴族の家系に生ま

  • ジャン=マリー・コロ・デルボワ(1750年〜1796年):俳優から恐怖政治の実行者へ

    俳優から革命家への転身 ジャン=マリー・コロ・デルボワは、俳優として舞台人生をスタートさせ、やがてリヨン劇場の監督を務めるまでになった。その後、革命運動に身を投じ、ジャコバン・クラブの書記に就任するなど、急進派の中心人物として頭角を現していく。 革命の激動期における役割 パリ・コミューンの一員として、1792年8月10日の王政打倒(チュイルリー宮殿襲撃)の主要な担い手の一人となった。さらに、続いて起こった九月虐殺についても、これを容認・支持する立場を明確にしている。 国民公会と公安委員会での活動 国民公会議員に選出された後、公安委員会のメンバーとして、ビヨー=ヴァレンヌとともに内政政策を担当

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