世界史

歴史上の人物

  • マルクス・アントニウス(マーク・アントニー)— カエサルの右腕からローマ内戦の主役へ

    マルクス・アントニウス(紀元前83年頃 – 紀元前30年)は、古代ローマを代表する軍人・政治家です。ユリウス・カエサルの最も信頼された部将として頭角を現し、カエサル死後のローマ政界で中心的な役割を果たしました。カエサルの部将としての活躍アントニウスは、カエサルがローマの最高権力者として地位を固めていた時期にその側近として仕え、主君の権威確立に大きく貢献しました。紀元前53年にはガリアで財務官(クァエストル)の職を得て、軍事的にも政治的にも経験を積んでいきます。カエサル暗殺後の権力闘争紀元前44年のカエサル暗殺後、アントニウスはオクタウィアヌス(後の初代皇帝アウグストゥス)およびレピドゥスとの間

  • ルイ・フィリップ — 「フランス人の王」としての生涯と七月王政

    ルイ・フィリップ(Louis-Philippe、1773年〜1850年)は、ヴァロワ公(1773年〜1785年)、シャルトル公(1785年〜1793年)、オルレアン公(1793年〜1830年)を歴任し、最終的に1830年から1848年まで「フランス人の王」として君臨した人物です。 自由主義的な教育と革命への参加 幼少期のルイ・フィリップは、自由主義的な思想に基づいた教育を受けて成長しました。父であるオルレアン公ルイ・フィリップと同じく革命派に加わり、ジャコバン・クラブにも参加しています。1792年には、デュムーリエ将軍の指揮のもと、ヴァルミーの戦いおよびジェマップの戦いに従軍しました。その後、

  • ルイ18世――革命と帝政を生き抜き、王座に返り咲いたブルボン朝の王

    ルイ18世の生涯ルイ18世(本名:ルイ・スタニスラス・グザヴィエ、プロヴァンス伯)は、フランス国王ルイ16世の弟として生まれました。宮廷では「ムッシュー(Monsieur)」の称号で呼ばれる身分高い王子でした。革命期の亡命フランス革命が激化し、兄ルイ16世がテュイルリー宮殿からの脱出を試みた頃、彼もまた国外への亡命を選択します。まずブリュッセルへ、その後ライン川沿岸へと移りながら亡命生活を続けました。1793年に兄が処刑されると、亡命先で自ら摂政を宣言し、ブルボン家の正統な後継者としての立場を示しました。王位への帰還と憲章の公布彼が正式にフランス王として即位したのは、ナポレオンが退位した181

  • ルイ14世 — 「太陽王」と呼ばれたフランス絶対王政の象徴

    ルイ14世(1638年〜1715年):フランスを国力の頂点へ導いた「太陽王」ルイ14世(1638年9月5日 – 1715年9月1日)は、ブルボン朝フランスの国王です。72年以上に及ぶ長い在位期間を通じて、その威光を表す「太陽王(le Roi Soleil)」の名で広く知られています。幼少期のトラウマ —— フロンドの乱ルイ14世は幼少期、貴族や高等法院が王権に反抗した内乱「フロンドの乱」に苦しむ経験をしました。この出来事は彼の心に深い傷を残し、以後生涯にわたって貴族を服従させようと決してやめなかったといわれています。親政の開始母アンヌ・ドートリッシュの摂政期には、マザラン枢機卿が陰で国政を牛耳

  • ルイ13世:フランス絶対王政の礎を築いた王

    ルイ13世とはルイ13世(1601年9月27日 – 1643年5月14日)は、ブルボン朝第2代のフランス国王です。父はアンリ4世、母はマリー・ド・メディシス。父アンリ4世が暗殺されたとき、ルイ13世はわずか9歳でした。摂政時代から親政へ幼少期のルイ13世は、母マリー・ド・メディシスとその寵臣コンチーニによる摂政のもとで育てられました。また、政治的な事情からオーストリア家のアンヌ(アンネ・ドートリッシュ)との結婚を強いられましたが、なかなか子宝に恵まれず、王位継承をめぐる思惑が絶えませんでした。1617年、王の顧問官であるリューヌ公爵の助言を受けたルイ13世は、コンチーニを暗殺させ、母后を追放し

  • ルイ・ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)— 大統領から皇帝へ転身した男の生涯

    ルイ・ナポレオン・ボナパルトとはルイ・ナポレオン・ボナパルト(1808年 - 1873年)は、初代皇帝ナポレオン1世の甥にあたり、ホラント王ルイ・ボナパルトの息子として生まれました。1848年12月10日、男性普通選挙によるフランス史上初の大統領選挙で74.2%という圧倒的な得票率を獲得し、フランス共和国初代大統領に就任します。その後、1852年12月2日には「ナポレオン3世」としてフランス人皇帝の座に就き、1870年9月4日まで約18年間にわたって第二帝政を統治しました。若き日の遍歴と野望彼はスイスで育ち、幼い頃から伯父であるナポレオン1世を英雄として崇拝し、ボナパルト朝の復活を心から願って

  • 敬虔王ルイ(ルイ1世)— カール大帝の後継者として帝国を背負ったフランク皇帝

    カール大帝の息子、敬虔王ルイとは敬虔王ルイ(778年–840年)は、フランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)の息子として生まれました。わずか3歳でアキテーヌ王に立てられ、813年には父帝によって皇帝として戴冠されます。ローマ教皇庁との結びつきが強く、キリスト教の擁護者として知られた彼は、広大な帝国を相続すると、教会改革(816年〜819年)に着手し、カロリング朝ルネサンスと呼ばれる芸術文化の興隆をも継続させました。「帝国整序令」とベルナルドの反乱817年、ルイは後継体制を明確にするためOrdinatio Imperii(帝国整序令)を発布しました。これは皇帝が発した法的決定であり、長男ロタ

  • ドイツ人ルートヴィヒ――カール大帝の孫、東フランク王国を築いた王

    ドイツ人ルートヴィヒ(Louis the German)は、カール大帝の子である敬虔王ルートヴィヒ(ルイ1世)の次男として生まれました。祖父から受け継いだ広大なフランク帝国は、父ルートヴィヒによって三人の息子たち――ロタール、ルートヴィヒ、ピピン――に分割されることになります。帝国分割と継承戦争817年、「帝国整理令(Ordinatio Imperii)」と呼ばれる法的文書によって長男ロタールが共同皇帝に指名されると、これが継承戦争の火種となりました。さらに事態を複雑にしたのが、2度目の結婚で生まれた末子シャルル(後の禿頭王)の存在です。父がシャルルに広い領土を与えようとしたことで、兄弟間の対

  • ルイ9世(聖王ルイ)— フランスを黄金期へ導いた敬虔な国王

    ルイ9世とはルイ9世(Louis IX、1214年4月25日 - 1270年8月25日)は、12歳で父ルイ8世を失い、幼くしてフランス王位を継承しました。摂政となった母后ブランシュ・ド・カスティーユによる厳格な教育のもとで、統治者としての資質を磨きながら成長していきます。内政改革と王国の安定即位後のルイ9世は、1259年のパリ条約によってフランスとイングランドの長年の対立に終止符を打ち、王国に平穏をもたらしました。さらに国内行政の改革を積極的に進め、1254年にパリ高等法院(議会)を創設、1257年にはソルボンヌ大学を設立するなど、法制度と学問の充実に力を注ぎました。また、王領内における通貨の

  • ロタール1世:カール大帝の孫、帝国を三分割させた中フランキアの皇帝

    ロタール1世(795年頃 – 855年)は、カール大帝(シャルルマーニュ)の子であるルイ1世(敬虔王)の長男として生まれ、フランク王国の共同皇帝、のちに中フランキア王として君臨した人物です。彼の生涯は、カロリング朝最大の政治的危機であった帝国分割をめぐる兄弟間の争乱そのものであり、最終的にヨーロッパ大陸の政治的地図を塗り替える結果となりました。帝位継承と「帝国整序令」817年、父ルイ1世は帝位の継承順位を定めた法文書「帝国整序令(Ordinatio Imperii)」を発布し、長男ロタールに特権的な後継者の地位を与えました。さらに823年には、ロタールは父とともに共同皇帝として即位し、弟たちの

  • ライオネル・ジョスパン|元フランス首相の経歴と政治人生

    ライオネル・ジョスパン(Lionel Jospin、1937年7月12日生まれ)は、フランスの政治家です。プロテスタントの左翼活動家の家庭に生まれました。父ロベール・ジョスパンは教師で社会党(SFIO)の党員であり、母は助産師でした。パリ政治学院(サイエンス・ポ)および国立行政学院(ENA)を卒業した後、外務省(カイ・ドルセー)に入り、外務担当書記官として外交官のキャリアを開始しました。政治経歴1971年に社会党(PS)に入党し、その後1981年から1988年までの7年間、同党の第一書記を務めました。党内で着実に地位を築き、1988年から1992年にかけては国民教育大臣として教育政策を担当しま

  • レオポルド・セダール・サンゴール — 詩人にしてセネガル初代大統領

    レオポルド・セダール・サンゴール(Léopold Sédar Senghor)とはレオポルド・セダール・サンゴール(1906年〜2001年)は、セネガル初代大統領を務めた政治家であると同時に、20世紀フランス文学を代表する詩人の一人です。貴族の家系に生まれた彼は、アフリカ人として初めてフランス最難関の教員資格「アグレガシオン」を取得し、詩と政治の両分野で歴史に名を刻みました。パリ留学とエメ・セゼールとの出会いサンゴールはセネガルで学業を修め、バカロレア(大学入学資格)を取得します。22歳のときに初めてフランスへ渡り、パリで高等教育を続けました。この時期に出会ったマルティニーク出身の詩人エメ・セ

  • レオナルド・ダ・ヴィンチ――ルネサンスを代表する万能の天才

    レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci、1452年~1519年)は、イタリア・ルネサンス期を代表する画家であり、解剖学者や技術者としても類まれな才能を発揮した万能の天才です。 生い立ちと修業時代 レオナルドは1452年、フィレンツェ近郊の町ヴィンチで生まれました。父は公証人ピエロ・ダ・ヴィンチ、母は身分低き農家の女性という庶子としての出生でした。14歳の頃に父を頼ってフィレンツェへ移り、当時高い評価を受けていた芸術家ヴェロッキオの工房に入門します。ここで絵画のみならず、彫刻や金工など多岐にわたる技術を習得し、確固たる画家としての名声を築き上げていきました。 『モナ・リザ』

  • レオン・ガンベッタ:フランス第三共和政の礎を築いた弁護士出身の政治家

    レオン・ガンベッタとは レオン・ガンベッタ(Léon Gambetta、1838年〜1882年)は、19世紀後半のフランスを代表する政治家の一人です。弁護士として出発し、第二帝政に真っ向から立ち向かい、ナポレオン3世の失脚後に成立した第三共和政の基盤づくりに多大な貢献を果たしました。 弁護士としての出発と政界への足掛かり ガンベッタは法学を学び、1860年に弁護士となりました。その後まもなく政治に関心を抱くようになり、共和派(共和主義者)の陣営へと接近していきます。 彼が一躍名を馳せたのは1868年のことです。共和派の人物が裁判にかけられた際、ガンベッタはその弁護を担当し、ナポレオン3世率い

  • レオン・ブルム — 人民戦線を率いたフランスの政治家

    レオン・ブルム(Léon Blum、1872年〜1950年)は、フランス社会党(SFIO)の指導者として、1936年に成立した人民戦線政権を率いた政治家です。有給休暇や週40時間労働制など、今日のフランスの労働者保護制度の基礎を築いた人物として知られています。ユダヤ系商人の家庭から文芸批評家へ1872年、ブルムはパリでユダヤ系商人の家庭に生まれました。1890年に名門エコール・ノルマル・シュペリウール(高等師範学校)に入学し、文芸批評家としてのキャリアを歩み始めます。当時のフランス社会を二分したドレフュス事件には深い衝撃を受け、冤罪と闘った作家エミール・ゾラを擁護した一人でもありました。この経

  • レーニンとは?ロシア革命を指導したソ連建国の父の生涯

    1870年、ロシア帝国のシンビルスク(現在のウリヤノフスク)に生まれたウラジーミル・イリイチ・レーニンは、恵まれた家庭環境の中で育ち、当初は弁護士としての道を歩み始めました。しかし、労働者のストライキを支援し生産活動を停止させた責任を問われ、1897年にシベリアへ流刑となります。釈放後はスイスへ亡命し、そこで本格的な革命活動への道を進むことになりました。革命理論の確立とボリシェヴィキの結成亡命生活の中で1902年に『何をなすべきか?』を出版し、マルクス主義に基づく独自の革命理論を打ち出しました。彼の主張によれば、革命はプロレタリアートの階級意識を体現する中央集権的な党が、職業革命家たちの推進力

  • カール・マルクス ― 科学的社会主義の父

    はじめにカール・マルクス(Karl Marx、1818年〜1883年)は、ドイツ・トリーア出身の哲学者・経済学者・ジャーナリストであり、科学的社会主義の理論的支柱となった人物です。資本主義の分析を通じて歴史を捉え直そうとした彼の思想は、後世の政治・経済・社会思想に計り知れない影響を与えました。生涯と経歴1818年、プロイセン王国のトリーアに生まれたマルクスは、ボン大学およびベルリン大学で学び、1841年に博士論文を提出しました。当初は学者としての道を志していましたが、やがてそれを断念し、1842年にはプロイセン政権に批判的な反体制紙『ライン新聞』の編集主筆に就任します。しかし同紙は検閲の対象と

  • ジュール・マザラン|ルイ14世を支えたフランス宰相の生涯と功績

    ローマで育ったジュール・マザラン(Jules Mazarin、1602年7月14日-1661年3月9日)は、若くして卓越した外交の才能を発揮しました。スペイン滞在を経て、ローマ教皇庁に仕える使節(聖座の外交代理官)としてミラノに赴任し、外交官としてのキャリアを本格的にスタートさせます。 リシュリューに見出された外交官 1630年のカザーレ包囲の解除(三十年戦争の一環として起こった紛争)、1631年のケラスコ条約(マントヴァ継承戦争を終結させた条約)への貢献、さらに1640年にサヴォイア公たちをフランス側へ引き込んだ同盟工作などにより、マザランは宰相リシュリューとルイ13世から高い評価を受けるよ

  • ジュール・フェリー — フランス第三共和政を支えた政治家の生涯と業績

    ジュール・フェリーとはジュール・フェリー(Jules Ferry、1832年〜1893年)は、フランスのジャーナリスト、政治家です。政界に入る前はジャーナリストとして活動し、第二帝政に反対する一連のパンフレットを執筆して名を上げました。1869年に共和派の国会議員に当選すると、1870年9月4日にはパリ市庁舎で行われた第三共和政樹立の宣言に参加します。以降、順風満帆とは言えないものの、実り多き政治キャリアを歩むこととなりました。主な経歴国防政府のメンバー(1870年)プロイセンとの戦争中のパリ市長(1870年)ヴォージュ県選出代議士(1871年〜1889年)公共教育・美術大臣(1879年〜18

  • ジュリアス・シーザー(ガイウス・ユリウス・カエサル)— 共和政ローマを終わらせた終身独裁官

    ジュリアス・シーザーとはパトリキ(ローマの上流階級)の出身であるジュリアス・シーザーは、伝説的な英雄アイネイアースの子ユールス、すなわち女神ウェヌス(ヴィーナス)の孫の血筋を引くと自称していました。当時共和政ローマを率いていたスッラに反対したため、カエサルは亡命を余儀なくされます。帰国を果たしたのはスッラの死後であり、そこから彼の輝かしい政治経歴が幕を開けました。政治家としての出世カエサルは神官(ポンティフェクス)、クァエストル(財務官)、プロプラエトル(法務官)を歴任し、紀元前60年にはポンペイウスとクラッススとともにローマ史上初の三頭政治(第一回三頭政治)を結成します。この同盟によって、彼

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