世界史

アジアの歴史

  • 江戸幕府と朝廷の関係とは?関係悪化を防ぐための幕府の戦略を解説

    江戸幕府は、朝廷から将軍に任じられて初めて成立した武家政権です。そのため、幕府にとって朝廷との良好な関係を築くことは不可欠でした。本記事では、江戸幕府の将軍と「朝廷」の関係に焦点を当て、幕府が慎重かつ大胆に関係構築に努めた朝廷との関わりについて、わかりやすく解説します。将軍の存在江戸幕府は、約260年にわたり泰平の世が続いた武家政権であると認識されている方も多いでしょう。武家政権といえば、統治体制の基盤は幕府だと思われがちですが、本当にそれだけで成り立っていたのでしょうか。それを考えるために、まず「将軍」という官職についておさらいしておきましょう。「征夷大将軍」という官職は、古くは朝廷の支配に

  • 織田信長から秀吉・家康へ――兵農分離の目的と歴史的変遷

    「兵農分離」というと、豊臣秀吉による太閤検地・刀狩・人掃令など、身分を明確化する政策として語られることが多いものです。しかし、その基本となったのは織田信長の構想であり、信長が打ち立てた方針を秀吉が発展させ、江戸時代に徳川家康が完成させたといえます。 今回は、この兵農分離について考えていきましょう。 兵農分離以前――武士と農民の境界線は曖昧だった 信長以前の時代、兵士と農民の身分の境界線は明確ではありませんでした。武士の多くは村に住み、戦が起これば自らも農作業に従事していたのです。そのため、農繁期には一度兵を引き上げなければならず、長期戦や農繁期の作戦は困難でした。 信長の兵農分離構想 そこで信

  • 織田信長が目指した天下布武とは?その由来と真の意味を解説

    文献や教科書でよく目にする「天下布武」。「武力で天下を制する」というイメージを持っている方も多いかもしれませんが、果たしてその実態はどうなのでしょうか。 今回は織田信長の旗印でもあった「天下布武」について考えていきます。 天下布武のはじまり 天下布武という旗印が使い始められたのは、1567年(永禄10年)に稲葉山城が落とされ、城名が「岐阜」と改められた頃です。現在確認できる文献によれば、同年11月に家臣・堺利貞(さかいとしただ)へ発給された朱印状が、天下布武の初使用例とされています。 天下布武の朱印 この天下布武の朱印を考案したのは、清洲寺の沢彦宗恩(たくげんそうおん)だと言われています。 こ

  • 織田信長の「天下布武」は最初は小さな世界だった?将軍・足利義昭追放との関係を解説

    「天下布武」という言葉を聞くと、一般的には全国を平定することをイメージしがちですが、近年の研究では、必ずしもそうではないという見解が出てきています。つまり、「天下=全国」という図式が当てはまらない可能性があるのです。したがって、信長が岐阜城を本拠地としていた頃に掲げた「天下布武」は、武力によって全国を支配するという意味ではなかったと考えられています。美濃・尾張の二カ国を治めるようになった信長は、次の国も平定しようと意気込んでいました。その夢は大きく素晴らしいものだと思われますが、「天下布武」の最初の意味は、実は小さな世界だったようなのです。これを知る手がかりとなるのが、足利義昭の存在です。今回

  • 保元の乱の戦後処理と信西の躍進 ― 死刑復活から保元新制まで

    保元の乱の戦後処理を中心に、そこから平治の乱へ至る流れを見ていきます。 鍵となるのは、保元の乱で参謀のような役割を果たした信西(しんぜい)という人物です。信西は後白河天皇とともに、乱の後に続く体制づくりを行いました。信西という人物と保元の乱の戦後処理を知ることで、平治の乱までの時代の流れをつかむことができます。 信西とはどのような人物か? 信西は、奈良時代の藤原武智麻呂を祖とする藤原南家の出身です。 もともと学者の家系でしたが、幼くして父を亡くし、母方の親族にあたる高階家に引き取られて育ちました。 高階家の縁故で朝廷に出仕すると、優れた頭脳を武器に鳥羽院政のもとで頭角を現していきます。 その後

  • 反信長勢力による「信長包囲網」第一期(1568年~1571年)

    天下布武と上洛後の苦難1567年、織田信長は美濃を平定すると「天下布武」の印判を用い始めました。そして足利義昭を奉じて上洛を果たし、室町幕府の再興という大義名分を手に入れます。しかし、その直後から周辺諸大名の抵抗に直面し、信長は苦しい立場に追い込まれていくのです。今回から全3回のシリーズとして、1568年頃から1582年の本能寺の変まで、信長が「天下布武」を達成するまでの10年以上に及ぶ過酷な道のりを辿ります。第一回となる今回は、最初期の「信長包囲網」の形成と終結までを見ていきましょう。畿内の反信長勢力たち桶狭間の戦いで奇跡的な勝利を収めた織田信長は、破竹の勢いで尾張・美濃を平定しました。天下

  • 天下布武後の織田信長は、天皇と朝廷をどうするつもりだったのか?

    織田信長は、長い歴史を持つ天皇や朝廷に対して、どのような態度で接しようとしていたのでしょうか。 正親町天皇への譲位の勧めや、朝廷から提示された三職の拝命を保留するといった行動から、信長は朝廷に対しても何らかの改革を構想していた可能性があります。古い権威に頼ることなく、自らが絶対的な存在となり、強い秩序でもってこの国を統治しようとしていたのだと考えられているのです。 当初は将軍の権威を利用していた 信長の野望を実現するためには、当時の二大権力である幕府と朝廷を排除する必要がありました。しかし、旧来の権力を否定しながらも、利用価値のあるものは最大限に活用していたことが歴史から見て取れます。 156

  • 平安・鎌倉時代の戦いは「一騎打ち」が基本!武士同士の戦闘スタイルの変遷を解説

    日本の歴史を振り返ると数多くの合戦が登場し、二つの軍勢が命を懸けてぶつかり合う壮絶な戦いの姿を思い浮かべる方が多いでしょう。しかし、平安時代から鎌倉時代にかけての戦いは、実は非常にシンプルで分かりやすいルールに基づいて行われていました。 その戦い方とは…… 平安〜鎌倉時代は「一騎打ち」が基本 鎌倉時代の武士は騎馬武者であり、その周りには薙刀を持った従者が付き添っていました。戦いの主役はあくまで騎馬の武士であり、従者たちは補助的な役割を担っていたのです。 戦いの始まりは「矢合わせ」です。音を鳴らす鏑矢(かぶらや)を放つことで、開戦を互いに告知しました。 その後、武士たちは自分と釣り合う相手を見つ

  • 戦国大名の軍事力はどのくらい?石高から読み解く最大動員兵力の実態

    戦国時代の合戦と動員規模 戦国時代の合戦を思い浮かべると、壮大で勇壮な戦いが数多く登場します。1560年の桶狭間の戦いでは、今川義元率いる圧倒的な大軍に対し、織田信長が少数の兵で奇襲を仕掛けて勝利を収めました。 また1575年の長篠の戦いでは、織田信長が鉄砲隊を活用し、武田氏が得意とした騎馬部隊を打ち破ったことで有名です。 このように、戦国時代の合戦には大量の兵士が動員され、激闘が繰り広げられました。しかし、兵士を動員するには莫大な費用がかかることは言うまでもありません。 石高と兵力の関係は「1万石=250人」 一般的に、戦国大名の動員兵力の目安は「1万石につき約250人」とされています。こ

  • 刀伊の入寇とは?1019年の襲撃事件とその背景をわかりやすく解説

    10世紀に発生した承平・天慶の乱以外にも、武士団が次第に形成されていたことを示す出来事があります。それが1019年(寛仁3年)の刀伊の入寇です。 大宰権帥(だざいのごんそち)・藤原隆家の指揮のもと、九州の武士たちが敵を撃退したと伝えられています。 今回は、この刀伊の入寇について、その背景を詳しく見ていきましょう。 刀伊とは何者か? 刀伊(とい)とは、高麗の人々が主に女真(じゅしん)族を指すのに用いた言葉です。この言葉がそのまま日本でも使われるようになり、1019年に刀伊の人々が対馬・壱岐・北九州に侵入したことから、この事件は「刀伊の入寇」と呼ばれるようになりました。 当時の女真族は、現在の中国

  • 藤原道長を輩出した藤原氏とは?飛原氏とは?飛鳥時代から続く栄華の歴史

    平安時代を代表する権力者といえば、真っ先に名前が挙がるのが藤原道長です。そんな道長を深く理解するためには、彼が属した藤原氏の歴史を押さえておくことが欠かせません。藤原氏は飛鳥時代からたびたび歴史の表舞台に登場する、まさに日本史を彩ってきた名家です。今回は道長を語るうえで避けて通れない「藤原氏」のルーツを、あらためて見ていきましょう。藤原氏の誕生――乙巳の変と中臣鎌足藤原氏の始まりは、飛鳥時代の645年(乙巳年)に起こった乙巳の変にさかのぼります。当時の朝廷では、神事や祭祀をつかさどる大伴氏や物部氏の勢力を牽制する形で、渡来人と深い繋がりを持つ蘇我氏が台頭していました。大伴氏と物部氏の力が次第に

  • 織田信長はなぜ次々と居城を移したのか?①名古屋城~小牧山城

    織田信長について調べると、居城が次々と移り変わっていることに気づきます。当時の戦国大名は、そう簡単に本拠地を変えることはありませんでした。この記事では、信長の「居城を移す」という行動を、戦略や領国経営の観点から見ていきます。信長は那古野城 ⇒ 清洲城 ⇒ 小牧山城 ⇒ 岐阜城 ⇒ 安土城と、その時々の状況に合わせて居城を変えてきました。こうした発想ができるのは、父・織田信秀の存在が大きいでしょう。信秀も当初は勝幡城を居城としていましたが、1532年に那古野城を奪取して居城とし、その後古渡城へと移っています。父の背中を見て育ったからこそ、「居城を移すこと」自体が戦略になり得たのだと言えるでしょう

  • 織田信長はなぜ居城を次々と移したのか?② 岐阜城から安土城へ

    稲葉山城の戦いで宿敵・斎藤氏を滅ぼした織田信長。ここから信長は天下統一への歩みを加速させていきます。稲葉山城陥落後、信長は本拠地を小牧山から稲葉山へ移すことを決めました。そして城と城下町の名を「岐阜」と改称します。これは古代中国において、周の文王が岐山に拠って天下を平定した故事にちなんだ命名だといわれています。この頃から信長は天下を強く意識するようになり、「天下布武」の印判を使用し始めたとも伝えられています。岐阜城への移転――合理的な判断に基づく要塞それでは、なぜ信長は本拠地を岐阜へ移したのでしょうか。岐阜城は金華山の頂にそびえる山城です。一般的に山城は水場に乏しく、兵糧などの補給も蓄えた分だ

  • 武士が重用されるようになった理由とは?院政期の武士と僧兵の台頭

    白河天皇・鳥羽天皇・後白河天皇と3代にわたり続いた院政は、100年以上もの間平安後期の政治を支配しました。しかし、この院政は平氏が本格的に政治へ参入したことで終わりを迎えます。では、なぜ平氏が政治に参加するようになったのでしょうか。その経緯を理解する前に、まず武士が重用されるようになった理由を見ていきましょう。地方で多発した争乱当時は中央だけでなく地方でも政治が混乱し、各地で争乱が発生していました。主要な出来事を時系列で整理してみます。承平・天慶の乱(939年)関東では平将門の乱、瀬戸内海では藤原純友の乱がほぼ同時に発生しました。この際、朝廷の軍事力の弱さが露呈します。刀伊の入寇(1019年)

  • 竹中半兵衛と黒田官兵衛――戦国二兵衛と呼ばれた天才軍師たちの深い絆

    戦国時代の天才軍師といえば、竹中半兵衛(重治)と黒田官兵衛(孝高)の二人、「戦国二兵衛」と並び称されるほど有名です。 軍師のイメージといえば、常に主君の側に仕え、合戦の戦術や戦略を練る際に助言を与え、主君が困難に直面したときに知恵を貸す参謀役といったところでしょう。 しかし実は、当時の信頼できる史料の中に「軍師」という呼称は存在せず、代わりに「軍配」という言葉が使われていました。 戦国時代には「軍師」という呼び名はなかった!? 軍配とは、兵士の配置や分担を補佐する人物、いわば参謀に近い存在を指します。その指示は陰陽道や占いによって吉凶を判断した結果に基づいて行われるのが通例でした。ちなみに、中

  • 桓武天皇の政治改革とは?平安初期の制度改革をわかりやすく解説

    桓武天皇の主な功績といえば、二度にわたる遷都と東北地方の安定化です。しかし、それ以外にも数々の政治改革を実施しています。今回は桓武天皇を中心に、平安初期の政治改革について詳しく見ていきましょう。 桓武天皇の大事業が成功した理由 まず最初に、桓武天皇はなぜ遷都(二度)や国土の拡張といった大事業を実現できたのか、その点について考えてみます。 先代が敷いてくれたレール ひとつ目は、先代である光仁天皇の功績です。光仁天皇は、行政や財政の簡素化、民衆の負担軽減といった政治再建政策にすでに取り組んでいました。 これは現代でも、どの国でも同じことが言えます。前の指導者の政治が失敗し続ければ、その時点で支持を

  • 奈良時代の建築様式(寺院編)~唐招提寺と正倉院にみる仏教建築の魅力~

    これまでの記事では、飛鳥・奈良時代の政治の裏側についてお伝えしてきましたが、今回は少し視点を変えて、文化面、特に建築にスポットを当てて見ていきたいと思います。奈良時代の寺院建築奈良時代の建築といえば、まず思い浮かぶのが寺院でしょう。下の写真は、鑑真和上(がんじんわじょう)ゆかりの寺として名高い唐招提寺(とうしょうだいじ)です。こちらは同じ唐招提寺を別の角度から撮影したものです。「僧伽藍(そうぎゃらん)」とは寺院建築を語るとき、「僧伽藍(伽藍・がらん)」という言葉をよく耳にします。実はこの僧伽藍こそ、唐招提寺のみどころの一つでもあります。ここでいう僧伽藍とは、寺院そのもの、あるいは寺院の主要な建

  • 奈良時代の建築史(平城宮編)~朱雀門・第一次大極殿の復元とその魅力~

    建築史シリーズの今回は、天皇のご住居であった平城宮についてご紹介します。 平城宮跡歴史公園でよみがえる復元建造物 奈良県にある平城宮跡歴史公園では、朱雀門と第一次大極殿が復元されており、今でもその威容を目にすることができます。 しかも、この復元工事を手がけたのは、あの竹中半兵衛ゆかりの末裔とも言われる超一流ゼネコン・竹中工務店。まさに心強い組み合わせです。 平城宮の基本レイアウト 平城京の正門である羅城門から、南北にまっすぐ伸びる朱雀大路を北へ進むと、平城宮の正門である朱雀門にたどり着きます。 朱雀門をくぐって少し歩くと中央区朝堂院が現れ、その奥には大極殿がそびえています。(下図は奈良文化

  • 桓武天皇はなぜ兵団を廃止したのか?その背景と理由を解説

    桓武天皇が行った政治改革の一環として兵団と兵士が廃止されましたが、今回はその廃止の理由について詳しく掘り下げてみました。 桓武天皇による兵団廃止 桓武天皇による兵団の廃止は、792年(延暦11年)に行われました。ただし、東北地方と九州には兵団が残されている点に注意が必要です。 東北では774年から「三十八年戦争」と呼ばれる蝦夷との戦乱が続いていたことを考えると、「兵団を廃止してよいのか」と疑問に思うかもしれません。実際、東北がようやく平定されたのは811年のことでした。 そもそも桓武天皇の時代以前、701年に制定された大宝律令のもとで日本は軍事力を維持してきました。この大宝律令は、唐・新羅連合

  • 遣唐使の派遣状況――唐・渤海・新羅の情勢と航路の変遷

    これまでの記事でも遣唐使について触れてきましたが、説明しきれていない部分があったため、補足として改めて記事をまとめました。平安時代に入ると、遣唐使は894年(寛平6年)に廃止されることになります。そこで今回は、その廃止までの間に遣唐使がどのように派遣されていたのか、当時の東アジア情勢とあわせて解説していきます。遣唐使派遣当時の「周辺諸国の情勢」■ 唐――618年に隋に代わって建国し、アジア各国へ大きな影響を与える【初唐(618~712)】唐は高祖(李淵)によって建国されました。隋末には群雄割拠の時代が訪れましたが、それらの勢力はすべて唐の支配下に置かれ、第二代太宗の時代にはモンゴル高原方面にも

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