世界史

アジアの歴史

  • 貧農から皇帝へ!南朝「宋」の創始者・劉裕(武帝)の壮絶な成り上がり人生

    三国時代が終わり、司馬懿の孫・司馬炎が晋を建国しました。しかし晋はその権力を維持できず、西方の領土を失い、東晋としてかろうじて命脈をつなぐことになります。一時期、氐族の苻堅が強大な力で華北を統一し、大軍をもって東晋の滅亡を目指しましたが、東晋は歴史に名高い「淝水の戦い」での勝利により、滅亡を免れます。その戦いから40年の歳月が流れ、ついに東晋を滅ぼす男が現れます。その名は劉裕。後に「宋の武帝」として知られることになる人物です。成り上がり皇帝世界史を見渡すと、貧しい身分から大帝国の皇帝へと上り詰めた人物が何人か存在します。漢王朝を築いた劉邦もその一人ですし、漢室の末裔とされる劉備も蜀を建国しまし

  • 北魏全盛期の皇帝!孝文帝(拓跋宏)は本当に偉大な人物なのか?

    三国時代の終焉と西晋の統一崩壊後、中国は五胡と呼ばれる異民族と漢族が覇を競う五胡十六国時代へと突入しました。五胡の最初の覇者は氐族です。前秦の苻堅は華北統一目前まで勢力を伸ばし、東晋の都・建康へ進軍しますが、383年の淝水の戦いで大敗。前秦はあっけなく崩壊してしまいました。代わって華北の覇者となったのが、鮮卑拓跋部が率いる北魏です。今回は、世界史の教科書に頻出する北魏第6代皇帝・孝文帝(拓跋宏)について解説します。誕生の秘密孝文帝の実の父母は誰なのか――これは古くから議論されてきたテーマです。公式には、父は献文帝、母は李夫人とされています。献文帝が14歳のときに儲けた子でした。北魏には「子貴母

  • 前秦に仕えた王猛は、中国史上最強の宰相と言っても過言ではない

    五胡十六国から魏晋南北朝の時代には、名だたる名将が数多く登場しました。陳慶之、楊大眼、高長恭など優れた武将は枚挙にいとまがなく、その中からただ一人の「最強」を選び出すのは非常に難しいことです。しかし、将軍ではなく宰相という立場でありながら、この「最強」論争に必ず名を連ねる人物がいます。それが前秦に仕えた王猛(おう・もう)です。豪快な理想主義者と冷徹な実務家の出会い五胡と呼ばれる異民族が中国を支配していた時代、漢民族の子として生まれた王猛は、幼い頃から学問を好み、風貌にも優れていました。彼は自分に仕えるべき主君を静かに待ち続けていたのです。そんな王猛のもとを訪れたのが、東晋最大の権力者・桓温でし

  • 世界史上最大級の戦い!383年「淝水の戦い」の全貌

    世界史には、歴史の流れを大きく変えた戦いが数多く存在します。日本でいえば桶狭間の戦いや関ヶ原の戦いがそれにあたり、中国史では赤壁の戦いなどが有名です。今回は、その中でも中国の歴史を一変させた、世界史上最大級とされる「淝水の戦い(ひすいのたたかい)」について詳しく見ていきましょう。 前秦側の事情 淝水の戦いは、383年に起こった、氐族が建てた「前秦」と、漢民族の政権「東晋」との間で行われた戦いです。 巨大国家だった後漢が滅亡すると、中国は魏・呉・蜀の三国が覇を競う、いわゆる「三国志」の時代へと突入しました。しかし、最終的に三国を統一したのは曹操や孫権、劉備の子孫ではなく、魏の重臣・司馬懿の孫にあ

  • 桓温とは?「竹馬の友」「断腸の思い」の故事で知られる東晋の名将・その生涯と評価

    桓温(かんおん)は、中国・東晋時代に絶大な権勢を誇った武将です。「竹馬の友」や「断腸の思い」といった、現代でも使われる故事成語の由来となった人物として知られています。残念ながら世界史の教科書にはほとんど登場しませんが、中国の歴史を語るうえでは非常に重要な人物です。この記事では、桓温の生涯、数々の北伐、そして後世に残した言葉について詳しく解説します。東晋の成立と北府・西府西晋は316年の永嘉の乱によって滅亡しました。司馬氏の皇族である司馬睿は江南へ逃れ、翌317年に東晋を建国します。江南はかつて三国志の呉の領土であり、呉そのものが地元豪族の連合体のような国家でした。そのため東晋は、建国当初から中

  • 「書聖」王羲之の幸せすぎた生涯――東晋の名門に生まれ『蘭亭序』を遺した男

    中国書道史上最高の傑作とされる『蘭亭序』の作者として知られ、中国のみならず日本の歴史においても絶大な名声を誇る人物がいます。それが、東晋の名門貴族・琅邪王氏に生まれた王羲之(おうぎし)です。「書聖(しょせい)」と称えられる彼は、一体どのような人生を送ったのでしょうか。今回はその生涯を詳しく見ていきます。名門貴族への生まれ「人は生まれながらにして平等である」――これは現代では常識ともいえる考え方ですが、この思想が提唱され主流となったのは18世紀以降のことです。それ以前は、ギリシャやローマの例外を除けば、人間は平等であるという発想自体がほとんど存在しませんでした。人間は生まれながらにして不平等。そ

  • 古代中国史入門:紀元前5000年〜前551年、商(殷)と周の時代

    紀元前5000年頃:農耕の始まり 農業の起源 現在の中国にあたる地域では、太古の人々が黄河(英語では Yellow River、中国語では Huang He)の河岸で農耕を始めました。彼らはアワ(きび)などの穀物、果物、木の実、野菜を栽培し、豚・犬・鶏などを飼育して生活していました。 最古の農村の出現 中国最初の農民たちは村落を築き、石器を使って畑を耕し、色鮮やかな彩文土器と呼ばれる美しい装飾土器を作り上げました。 紀元前4000年頃:稲作のはじまり さらに南に位置する長江(揚子江)の流域は気候が温暖で湿潤だったため、この地では稲作が可能でした。こうして中国では、北の粟・雑穀農業と南の稲作と

  • 紀元前1500年~紀元後535年:アーリヤ人侵入からグプタ帝国までの古代インド史

    紀元前1500年頃アーリヤ人の侵入中央アジアから移動してきたアーリヤ人が、インダス川流域および北インドに侵入し、定住しました。ヒンドゥー教の誕生アーリヤ人の司祭たちは、創造神インドラをはじめとする多くの神々を崇拝していました。当時はまだ文字を持たなかったため、神々を讃える賛歌は口承によって世代から世代へと受け継がれました。はるか後になって、これらの賛歌は聖典「ヴェーダ」として文字に記されます。ヴェーダは、今日のインドにおける主要な宗教であるヒンドゥー教にとって、極めて重要な经典となりました。紀元前563年~483年頃シッダールタの生涯と仏教の誕生インドの王子シッダールタ(釈迦、ゴータマ・ブッダ

  • インダス文明の興亡――紀元前3500年から1500年の歴史

    紀元前3500年頃:農民たちがインダス川流域(現在のパキスタン)に定住 インダス川のほとりは非常に肥沃な土地でした。エジプトやシュメールと同様に、川は毎年氾濫し、豊かな土壌をもたらしました。人々は収穫量を増やすため、複雑で中央集権的な組織をつくり上げていきます。 最初の都市と交易の始まり:やがて、すべての農民が土地を耕す必要がなくなり、一部の人々は別の活動に専念できるようになりました。彼らは都市を建設し、新しい職業を身につけ、商売を始めます。土器やビーズがシュメールで発見されていることから、シュメール人との交易があったと考えられています。また、木材、綿、香辛料なども売っていたとされています。

  • 紀元前5年頃~紀元391年:キリスト教の開花

    紀元前5年頃 イエス・キリストの誕生 ナザレのイエスは、当時ローマ帝国の一州であったユダヤに生まれたユダヤ人です。30歳頃に12人の弟子を選び、布教活動を始めました。イエスが奇跡を起こすという噂が広まるにつれ、大勢の人々がその教えを聞きに集まるようになりました。当時のモザイク画には、イエスが死者を蘇らせる場面を描いたものも残されています。イエスは、ユダヤの律法を遵守することよりも、神を愛し隣人に仕えることのほうが重要であると説きました。さらに、人は悪行をやめて新たに生まれ変わり、神の王国での居場所を勝ち取らねばならないと語りました。 紀元29年頃 イエス・キリストの磔刑 イエスの教えはユダヤ

  • ペルシア帝国の興亡|紀元前559年から紀元前146年までの歴史年表

    古代オリエントを席巻したペルシア帝国(アケメネス朝)は、キュロス2世によって建国され、ダレイオス1世の時代に世界史上類を見ない大帝国へと発展しました。本記事では、ペルシア帝国の勃興から滅亡、そしてローマによる中東征服まで、紀元前559年から紀元前146年に至る主要な出来事を年表形式でわかりやすく解説します。 紀元前559年〜紀元前530年:キュロス2世の治世 ペルシア帝国の建国 キュロス2世(キュロス大王)は、紀元前550年にメディア王国を打ち破り、その領土を併合して広大なペルシア帝国を築き上げました。当時のペルシア人たちは、預言者ザラトゥストラ(ゾロアスター)の教えに従っていました。彼は「

  • 紀元前883年〜紀元前627年:アッシリア帝国の興亡

    紀元前883年〜859年頃アッシュルナツィルパル2世の治世アッシリア王アッシュルナツィルパル2世はニムルドの街を築き、ここをアッシリアの首都としました。アッシリアの王たちは「世界の王」といった壮大な称号を名乗りました。これは、自らが神々に選ばれ、アッシリアを統治し新たな領土を征服する使命を帯びていると信じていたためです。残虐な征服者アッシリア人アッシリアに征服された地域の人々は、王に重い貢物を納めなければなりませんでした。これを拒否すれば容赦ない制裁が待っています。反乱を起こした都市は攻撃されて破壊され、家々や果樹園は焼き払われ、住民は殺されるか捕らえられるか、あるいは拷問の末に命を落としまし

  • 紀元前1195年〜紀元前926年:海の民とヘブライ人、イスラエル王国の興亡

    紀元前1195年頃:海の民、ヒッタイト帝国を滅ぼす 海の民は、ギリシャ本土やエーゲ海の島々、アナトリア半島(現在のトルコ)南西部から来たと考えられています。彼らは新しい定住地を求めて移動を続け、その途上で出会ったあらゆるものを略奪し、破壊していきました。やがてカナン地方(フェニキアを除く)に侵入し、強大だったヒッタイト帝国を崩壊へと追い込みます。 紀元前1190年頃:海の民、エジプトを攻撃 勢いに乗る海の民は、次にエジプトへの侵攻を試みました。しかしエジプトはこれを撃退することに成功します。この敗北の後、海の民はまとまりを失い、地中海世界の各地へと散っていきました。 紀元前1150年頃:ペリ

  • 紀元前2000年〜紀元前1200年:バビロニア帝国とヒッタイト帝国の時代

    紀元前2000年頃 メソポタミアの分裂 この時代、メソポタミア全土では戦乱が絶えませんでした。 アモリ人の台頭 アモリ人はメソポタミア南部とアッカド地方を支配下に置き、バビロンを含む複数の都市を掌握しました。 アッシリア王国の成立 メソポタミア北部では、アッシリアの君主たちが権力の確立に努め、アッシリアに王国を建国しました。シャムシ・アダド1世はこの時代の重要人物で、「宇宙の征服者」を自称しましたが、永続する帝国を築くことには失敗しました。 アッシリア人は、自らの土地は主神アッシュルのものであると信じており、最初の首都にその神の名を冠しました。彼らは他にも多くの神々や女神を崇拝し、悪霊を恐れ

  • 中国の宗教とその歴史 ― 儒教・道教・仏教がたどった道

    はじめに儒教と道教は中国発祥の宗教として広く知られていますが、その起源はどちらも哲学思想にさかのぼります。孔子やその後継者たちは神々にはあまり関心を向けず、現実の行動と倫理を重視しました。一方、道教は中国の民間信仰や仏教の制度・構造を取り込みながら発展し、やがて老子(ラオツー)や荘子(ズアンツー)といった古代の思想家に結びつく「哲学的道教」とは別に、「宗教的道教」という独自の潮流が形成されることになりました。仏教が中国に伝来したのは後漢時代の終わり頃です。仏教は瞬く間に根を下ろし、各地に寺院が建立されました。しかし1949年に共産党政権が成立すると、組織的な宗教活動は排除され、多くの寺院は世俗

  • 万里の長城とは?始皇帝が築いた世界最長の城壁の歴史

    万里の長城とは 万里の長城は、中国の北部および北東部の国境沿いに築かれた巨大な防御施設です。東は河北省の秦皇島付近から渤海湾沿岸を経て高台付近まで、西は甘粛省まで延びています。さらに、北京付近から南へ向かう内側の城壁(内長城)も存在し、ほぼ邯鄲まで達しています。 始皇帝による大規模な建設 最も長い区間が造られたのは、秦の始皇帝(在位:紀元前221年〜210年)の時代です。当時、中国を脅かしていた北方遊牧民族の侵入を防ぐため、それ以前に存在した諸国の城壁をつなぎ合わせ、土・石・レンガなどを用いて大規模な要塞として再構築されました。 世界最長の人工建造物 万里の長城は、世界最長の人工建造物とし

  • 元代の地図 – モンゴル帝国期に花開いた中国地図学の歴史

    13世紀、モンゴル民族は中国の北西部から侵入し、やがて中原全土を支配下に収めました。モンゴルの指導者であったフビライ・ハン(クビライ・カアン)は1271年に国号を「大元」と定め、元王朝を樹立しました。フビライの治世には、マルコ・ポーロをはじめとするヨーロッパの商人たちがシルクロードを通じてモンゴル帝国との交易や交流を盛んに行い、東西世界をつなぐ大きな架け橋となりました。 広大な版図が生んだ地図づくりの需要 元王朝の領土はモンゴル高原から中国本土、さらに中央アジアへと及ぶ巨大なものでした。広大な国土を統治するうえで、正確な地理情報は不可欠であり、これが元代における地図作製技術の飛躍的な発展を促

  • 中国文学史の全体像:古典期から現代までの流れを解説

    中国文学史の概要中国文学には、大きく分けて二つの伝統があります。ひとつは知識人階級による文語文学、もうひとつは民衆に根ざした口語文学(通俗文学)です。後者の起源は紀元前1000年以上前にさかのぼり、今日まで受け継がれてきました。当初は詩歌として始まり、やがて戯曲や小説へと発展し、さらに歴史書や民間説話をも取り込んでいきました。しかし、文学的趣味を支配していた官僚階級の知識人たちは、この種の文学を格下とみなし、研究する価値がないと考えていました。そのため20世紀に至るまで、通俗文学は知的階級からの正当な評価を得られませんでした。一方、優雅で洗練された文体を特徴とする正統な文学伝統は、約2000年

  • 中国語の歴史と特徴|世界最大の話者数を誇る言語の全体像

    中国語は、中国国内で10億人以上の人々に話されており、中国人口の約95%を占めています。少数民族の間ではチベット語、モンゴル語、ロロ語(イ語)、ミャオ語、タイ語など、異なる語族に属する言語も使用されていますが、中国語は世界で最も多く話されている言語です。東アジアで支配的な地位を占める中国語は、日本語、韓国語(朝鮮語)、ベトナム語など、中国語とは別の言語系統に属する近隣諸言語の語彙や表記体系に多大な影響を与えてきました。また、18世紀までに出版された世界の書籍の半数以上が中国語であったと考えられています。中国語の一般的な特徴中国語は、ビルマ語やチベット語、さらに東南アジアの小規模な民族集团の多く

  • 紫禁城:14年の歳月をかけて建てられた中国皇帝の巨大宮殿、その歴史と秘密

    現在、中国を代表する観光名所の一つとして知られる紫禁城(故宮)は、古代中国文明が生んだ最も魅力的な建築作品の一つとされています。その建設は明王朝第三代の皇帝・永楽帝の時代に計画されました。紫禁城は中国帝国の政治的・軍事的な意思決定の中心であるだけでなく、皇室と臣民を隔てる格差の象徴でもありました。 14年を要した壮大な建設 紫禁城の建設には14年の歳月が費やされました。この長い工期は、皇帝一族、大勢の使用人、后妃、皇位継承者、そして宦官たちが暮らす72万平方メートルという広大な敷地の規模を物語っています。 「紫禁城」という名称は、城への出入りを厳しく管理する厳重な警備体制に由来しています。

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