世界史

アジアの歴史

  • 壬申の乱の背景とは?天武天皇と大友皇子の後継者争いの原因を解説

    今日のテーマ「壬申(みずのえさる)」は、天智天皇の崩御後に勃発した皇位継承をめぐる戦いのことです。これは、天智天皇の息子・大友皇子と、弟・大海人皇子による皇位継承争いでした。日本史上初となる天皇の後継ぎをめぐる内乱が、どのようにして起こったのかを見ていきましょう。壬申の乱の原因長年にわたり天智天皇を支えてきた弟・大海人皇子と、天智天皇の息子・大友皇子が争ったのが壬申の乱です。しかし、その引き金はどこにあったのでしょうか。当初、天智天皇は自分を長年支えてくれた大海人皇子を後継者にするつもりだったようです。ところが、晩年に考えを変え、息子に皇位を継がせようとしたことが原因だったといわれています。当

  • 斉明天皇が築いた朝倉橘広庭宮とは?白村江の戦いと鬼の伝説

    干支でいう壬申(みずのえさる)の年の記事から少し時代を遡り、白村江の戦いに向けた拠点となった朝倉橘広庭宮(あさくらたちばなひろばのみや)について掘り下げていきます。「朝倉宮」とも呼ばれるこの宮には、興味深い伝説が数多く残されています。 伝説に彩られた宮だからこそ、普段とは少し違った気分で歴史を楽しめるのではないでしょうか。 朝倉橘広庭宮の場所 現在、福岡県朝倉市には「橘広場公園」という公園があります。この一帯にかつて朝倉宮が営まれていたとされ、園内には関連する石碑や神社を見ることができます。 石碑の近くに立つ案内板には、朝倉神社をめぐる次のような背景が記されています。 「天神の杜」は橘広場公園

  • 日本の歴史に描かれた「鬼」の物語――最古の文献から読み解くその正体

    前回取り上げた、斉明天皇が崩御された朝倉橘広庭宮にまつわる記述の中の「鬼」。今回は、この「鬼」について掘り下げてみたい。少し日本史の本流から脱線する感は否めないが、最初に伝えられた「鬼」のニュアンスを理解できれば、当時の人々が何に対して危機感を抱いていたのかが見えてくるはずだ。鬼の語源と起源鬼の語源は「おぬ」「おん」、すなわち「隠(かくれる)」にあるとされる。見えないものへの畏怖や蔑みの気持ちが込められた言葉で、平安時代末期ごろに現在の「おに」という呼び方が定着したと言われている。もともと「鬼」は中国において「人の魂・亡霊」を指す言葉であり、6世紀後半、仏教とともに日本へ伝来した。一方、それ以

  • 斉明天皇と鬼と信仰 ―『扶桑略記』に見る祟りの正体

    前回の「鬼の話」の続きである。 『日本書紀』の斉明天皇の条に現れる鬼は、「怨み」や「悪鬼」といった激情的なエネルギーの具現化ではないか、という話をした。前回は『日本書紀』の記述を紹介したが、平安時代末期に成立した『扶桑略記』にも、斉明天皇と鬼の関わりを示す記述がある。今回はその文献を紹介しながら、考察を進めていきたい。 『扶桑略記』には何が書かれているのか まず、斉明天皇元年(655年)の出来事として、次のような記述がある。 さらに、斉明天皇七年(661年)夏の出来事としても、祟りにまつわる記述が見られる。 ※引用:『物部氏の謎、消された王権』 以上が『扶桑略記』に記された内容である。『日本書

  • わかりやすい日本史の流れ【旧石器時代〜古墳時代】日本人のルーツと古代国家の誕生

    歴史は、まず全体の流れをつかんでから学ぶと記憶に定着しやすくなります。この記事では、日本の歴史の流れとして旧石器時代から古墳時代までをわかりやすくご紹介します。本記事はシリーズ化を予定しています。流れを掴みたい方は、続編の奈良時代、平安時代、鎌倉時代の記事もぜひ順番にお読みください。関連記事では重要な用語や出来事について詳しく解説しています。政策や歴史的な事件をさらに深く知りたい方は、ぜひリンク先もチェックしてみてください。旧石器時代【日本人のルーツはどこから来たのか?】今からおよそ3万年前、日本の本州は現在のシベリア並みに寒冷な気候でした。マンモスやナウマンゾウなどの大型獣を追って人々が定住

  • 飛鳥時代の土地制度をわかりやすく解説|班田収授法から初期荘園の誕生まで

    歴史を学んでいると、必ずといっていいほど目にする言葉が「荘園」です。 荘園というと、「貴族や寺社が私有する田畑で、農民を稲作に従事させていた土地」という漠然としたイメージを持っている人が多いのではないでしょうか。しかし、そもそも誰がどのように支配していたのか、鎌倉時代の地頭とどうつながっていくのか、意外と曖昧なままになっていることも多いはずです。 そこでこの記事では、飛鳥時代の土地事情から順を追って整理していきます。 飛鳥時代の土地は誰のもの? まず大前提として押さえておきたいのは、次の点です。 荘園が生まれる以前の土地の所有者 ⇒ 朝廷(国・天皇) それ以前の大和政権期には、豪族たちがそれぞ

  • 負名収取法の変質と荘園開発の進展をわかりやすく解説

    前回の記事では、飛鳥時代からの土地制度の流れと初期荘園についてお話ししました。今回のテーマは、負名収取法(ふみょうしゅしゅほう)の変質・崩壊と、それに伴う荘園開発の進展です。それぞれ詳しく見ていきましょう。負名収取法の崩壊まずは、農民と田畑の関係から確認しておきます。奈良時代に墾田永年私財法が制定されると、農民の間で貧富の差が次第に拡大していきました。富裕な有力農民の中には、農業経営をさらに拡大しようと貴族や寺院の家人(けにん)となり、中には無許可のまま出家する私度僧(しどそう)になる者さえ現れました。つまり、あの手この手で課税を免れようとする人が増え続けたのです。ところで、開墾した田畑が自分

  • 小村寿太郎の経歴が凄すぎる件について!〜ハーバード留学から日英同盟、ポーツマス条約まで〜

    「小村寿太郎?ああ、条約改正をした人でしょ?」小村寿太郎の名前を聞いても、こういった反応が多いのではないでしょうか。日本史にそれほど詳しかったわけではない筆者も、かつては同じような印象を持っていました。しかし、このたび宮崎県日南市飫肥(おび)にある「小村寿太郎記念館」を訪れたところ、その印象は大きく変わりました。そこで今回は、改めて小村寿太郎という人物について綴ってみたいと思います。小村寿太郎の凄まじい経歴まずは、小村寿太郎の経歴をざっとまとめてみましょう。1855年:飫肥藩に誕生(武士の家系)1870年:大学南校(東京大学の前身)に入学1870年代:ハーバード大学で法律を専攻小村寿太郎記念館

  • 初代天皇「神武天皇」は実在するのか?――宮崎神宮・鵜戸神宮・青島神社を巡って考えた

    昨日まで宮崎に滞在し、神武天皇ゆかりの神社をいくつか参拝してきました。そこで今回は「初代天皇・神武天皇」について書いてみたいと思います。 ギネスブックも悩む「最古の王朝」問題 ギネスブックには「同一血統で受け継がれてきた王朝」という項目があります。この記録に、エチオピア王室と日本の天皇家のどちらを登録すべきか、判断が見送られた時期がありました。 その原因となったのが、初代天皇「神武天皇」の存在です。 このあたりの事情はなかなかに複雑です。 エチオピア帝国は紀元前5世紀に起源を持ち、1974年のハイレ・セラシエ皇帝退位まで2500年間続きました。一方、神武天皇の即位は紀元前660年とされている

  • 文武両道、織田家臣団第2位の天才武将!丹羽長秀の生涯を解説

    あなたが好きな日本史上の人物は誰でしょうか。この問いを立てれば、多くの人がまず坂本龍馬か織田信長の名を挙げることでしょう。織田信長といえば、出自や流派にとらわれず、実力本位で家臣を評価したことで知られる戦国大名です。今回は、そんな信長の家臣団の中でも特に有能とされた武将、「丹羽長秀」の生涯を振り返ってみましょう。文武両道に優れた織田家の忠臣戦国時代、尾張を中心とする名古屋周辺では、斯波氏と織田氏が入り組んで権力争いを繰り広げていました。織田家の内部も決して安泰ではありませんでした。父・織田信秀は三男の信長を後継者に指名したものの、柴田勝家や林秀貞といった重臣たちは弟・信行(信勝)を擁して信長と

  • 織田信長初の“保育士”!林秀貞の裏切りと、25年後に突きつけられた代償

    戦国武将「林通勝(はやしみちかつ)」の名を正しく知っている人は、かなりの戦国好きだと言えるでしょう。林秀貞は、織田信秀が嫡男・信長のために付けた四人の宿老の筆頭格で、幼い信長の最初の「傅役(もりやく)」、いわば信長初の保育士とも呼ぶべき存在でした。信長を見限った傅役美濃の「蝮(まむし)」こと斎藤道三が、一度会っただけで信長の才能を見抜き、「わが子孫は、門前に馬をつなぐ存在になるだろう」と語ったのは有名な逸話です。道三ほどの人物ですら信長の素質を見抜いたのに、皮肉なことに、最も近くで仕えた林はそうではありませんでした。林は信長の傅役でありながら、主君を見限り、弟・織田信行(信勝)のもとへ走ります

  • 織田信長の育ての親・平手政秀――「じい」が辿った悲劇の最期

    織田信長は若くして那古野城主となりましたが、その際、父・織田信秀は信長の後見役として四人の宿老を付けています。筆頭が林秀貞で、今回の主人公である平手政秀はその次にあたる「二番手」の地位でした。若き日の信長は林秀貞よりも平手政秀を可愛がったといわれ、「じい」と呼んで強く慕っていました。うつけと呼ばれた若き信長と平手政秀の関係は、まさに実の孫と祖父のような温かいものでした……。悲劇の最期平手政秀は信長の元服前から後見役を務め、元服を見届けるほど長い付き合いがありました。まさに後見人として執事のように織田家に仕えてきた人物ですが、信長の父・信秀が死去した翌年の1553年(天文22年)、突如自害してし

  • 平成という時代を振り返って――30年の記憶とともに

    2019年4月30日、30年間続いた「平成」の時代が幕を閉じます。元号が変わることはそう頻繁にあることではありません。平成最後の日に、この30年間を振り返ってみたいと思います。 1989年〜1993年(平成元年〜5年) 平成は長いので、5年ごとに区切って振り返ります。まずは、時代を彩った年間CD売上ランキングから。 年間CD売上1位 平成元年:Diamonds / プリンセス・プリンセス 平成2年:おどるポンポコリン / B.B.クィーンズ 平成3年:ラブ・ストーリーは突然に / 小田和正 平成4年:君がいるだけで / 米米CLUB 平成5年:YAH YAH YAH / CHAGE and

  • 生き残った者が強い!――加賀百万石の祖・前田利家の波乱の生涯

    戦国時代は、数多の英雄たちが台頭しては消えていった激動の時代でした。そんな乱世の中で着実に地位を積み上げ、加賀百万石の礎を築いた武将が前田利家です。利家は、尾張海東郡荒子の領主・前田利春の四男として生まれました。嫡男ではないため家督を継ぐ立場になく、特別な才能にも恵まれていない――一見、出世とは無縁のスタートでした。それでも彼は、第六天魔王と恐れられた織田信長を「肝に毛が生えている男だ」と評したほどの度胸と胆力で、乱世を勝ち抜いていきます。今回は「槍の又左」こと前田利家の生涯を振り返ります。貧乏武士だった若き日々利家の家は決して裕福ではありませんでした。清洲城下では、誰にも知られていない名もな

  • 魏晋南北朝の狂皇帝!自ら『宇宙大将軍』を名乗った侯景の無軌道な生涯

    「絶対的な権力は人を腐敗させる」という言葉があるように、権力が大きくなるほど、ひとたび狂気が暴走したときの歯止めのなさも際限なくなっていくのが世の常です。とりわけ権力が一人に集中する国家では突飛な君主が現れやすく、それは古今東西変わらないことでした。中でも中国とローマの皇帝たちは、単なる暴君の枠を超えた「狂気のオンパレード」とも言うべき存在揃いでした。今回は、その中でもひときわ狂気が際立つ魏晋南北朝時代に現れた、「宇宙大将軍」こと侯景(こう・けい)を取り上げます。混迷極まる魏晋南北朝魏晋南北朝は、中国史ファンの間で「狂った君主が多い時代」として有名です。この状況の発端は三国時代にあります。諸葛

  • どうしようもない国?~魏晋南北朝時代の南朝「梁」の興亡をわかりやすく解説

    魏晋南北朝時代に存在した国の一つに「梁」があります。建国からわずか50年余りで滅亡した短命な王朝でありながら、なんと7人の皇帝が即位した、まさに「どうしようもない国」でした。高校の歴史の教科書では、南朝に宋・斉・梁・陳の4王朝があったことだけがさらっと紹介される程度で、それぞれの国がどんな国だったのか、詳しく知っている人は多くありません。そこで今回は、南朝4王朝の一つ「梁」について、その波乱に満ちた興亡の歴史を見ていきましょう。梁の皇室は、斉と同じ蕭氏蕭氏は、楚漢戦争を制した漢の功臣・蕭何(しょうか)の子孫を自称する一族ですが、その出自の詳細はよく分かっていません。東晋を実質的なクーデターで滅

  • 六朝最後の王朝「陳」の歴史を紐解く!宇宙大将軍を倒した英雄から最悪の暗君まで

    中国の歴史において、三国時代の呉にはじまり、東晋、宋、斉、梁、陳と続き、いずれも現在の南京(建康)を都とした六つの王朝は「六朝」と呼ばれています。 この時代には、王羲之の『蘭亭序』に代表されるように文化が大きく花開きました。しかし一方で政治は安定せず、短命に終わる王朝が相次いだ乱世でもありました。 今回は、そんな六朝最後の王朝である「陳」の歴史を見ていきましょう。 宇宙大将軍・侯景を倒した英雄が築いた「陳」 陳を建国したのは、中国史上屈指の奇人として名高い「宇宙大将軍」こと侯景を打ち破った武将・陳覇先(ちん・はせん)です。 建国者でありながら、その名を知る日本人はほとんどいません。というの

  • 超短命王朝・魏晋南北朝「斉」と呼ばれた国の歴史〜わずか23年で滅んだ南朝斉〜

    六朝時代と「斉」 南京の前身である建康に都を置いた呉・東晋・宋・斉・梁・陳の六つの王朝は「六朝」と呼ばれますが、いずれも寿命が非常に短いことで知られています。今回はその中でも特に短命だった「斉」の歴史を見ていきましょう。 なお、宋・斉・梁・陳は「南朝」と総称されます。他の南朝についても、ぜひ以下の記事をご覧ください。 成り上がり皇帝・高帝蕭道成 矢沢永吉ではありませんが、「成り上がり」が好きな人は多いものです。戦国時代が人気なのは、下剋上で身を起こした武将が数多く存在するからですし、三国志も劉備や曹操の物語だと言えるでしょう。 その意味で言えば、斉の高帝・蕭道成も物語の主人公として十分な資格

  • 悲劇の名将!中国史上最高のイケメン・蘭陵王「高長恭」の短くも壮絶な人生

    魏晋南北朝時代は、優れた君主が少ない一方で、名だたる武将が数多く登場した時代でした。 今回ご紹介する高長恭(こうちょうきょう)も、その中でも傑出した軍事指揮官の一人と言えるでしょう。 日本の雅楽「蘭陵王」で謡われ、三島由紀夫の最後の短編小説「蘭陵王」の題材ともなった名将。その波乱に満ちた人生を振り返ってみましょう。 ※なお、残念ながら三島由紀夫の小説の中に高長恭本人は登場しません。 北斉の皇族・高長恭 高長恭の祖父は北魏の重臣・高歓(こうかん)、父は北魏分裂後の東魏の重臣・高澄(こうちょう)です。 中国文化では子の地位は母の身分に大きく左右されましたが、高長恭は母の出自が低かったため、あま

  • 三国志以降初の英雄・苻堅の壮絶な生涯 ―淝水の戦いと後世の日本への影響―

    三国志以降、知られざる大混乱の時代数多くの英雄たちが活躍し、散っていった三国志の舞台は、184年の黄巾の乱から234年の諸葛亮の死まで、およそ50年間です。その後の歴史の展開を詳しく知る人は、実はそれほど多くありません。曹操が血のにじむ努力で礎を築いた魏は、司馬懿とその子孫によって滅ぼされ、司馬氏による晋が建国されます。蜀と呉も晋に滅ぼされ、中国は漢帝国以来の統一を取り戻しました。ところが統一を成し遂げた晋では、今度は司馬氏一族同士の内乱が勃発。中国は三国時代を超える大混乱期へと突入してしまいます。そこに付け込んだのが、「五胡」と呼ばれる五つの異民族でした。彼らは華北を占拠して次々と国家を建て

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