世界史

アジアの歴史

  • 薬子の変【平城太上天皇の退位】以降の日本政治体制の変遷~藤原北家の台頭と摂関政治への道

    薬子の変(平城太上天皇の変)の後、それまで隆盛を誇っていた式家は没落し、藤原氏の中では北家が優位に立つことになりました。前回お伝えした通りですね。その後、藤原北家が権力を握るようになり、日本の政治体制は、天皇による親政から摂関政治へと大きく移行していきます。今回は、薬子の変以降の日本の政治体制がどのように変化していったのかを見ていきましょう。薬子の変に勝利した嵯峨天皇第52代嵯峨天皇は、薬子の変で勝利を収めた後、従来の律令には規定されていなかった官職である蔵人所を開設し、検非違使を置きました。もともと法令に定められていない官職は令外官(りょうげのかん)と呼ばれます。令外官の数は、大宝律令が制定

  • 平氏の始まり――武士団の誕生と桓武平氏のルーツをたどる

    政治の中心から取り残されたこの時代、地方では自らの勢力拡大を目指す豪族や有力農民が台頭していました(この流れについては後日詳しく解説します)。彼らは自らの権益を守り、さらに広げるために武装するようになり、ここに武士が誕生したのです。当時の地方は荒廃し、盗賊が横行し、私戦が頻発していました。当然ながら朝廷は治安の回復を図るため、押領使(おりょうし)や追捕使(ついぶし)を現地へ派遣します。任じられたのは主に中・下級貴族でしたが、その中には任地にとどまって現地の有力武士となった者もいれば、別の道をたどって武士化した者もいました。平氏の始まりこうした武士たちは互いに抗争を繰り返しながら、国司に反抗する

  • 古代の律令制度が生んだ交通システム――駅路と駅馬の歴史

    はじめに:律令国家と道路整備今回のテーマは「律令国家と駅路(駅道)の整備」です。飛鳥時代後期になると、天皇を中心とした強力な中央集権国家の姿が整い始め、上位の官人と下位の官人の区別も明確になっていきました。そうした中で、現在私たちが「法律」と呼ぶものに近い体系が誕生します。それが701年(大宝元年)に制定された大宝律令です。律は今日の刑法に相当し、令は行政法や民法にあたるものでした。さらに令には、行政組織の職務規定や運営方法だけでなく、民衆からの租税についても細かく定められていました。こうした法整備の流れの中で、緊急時の通信制度である駅制が本格化します。この制度自体は大化の改新の頃から存在して

  • 八色の姓(やくさのかばね)とは?天武天皇が定めた8つのカバネ制度をわかりやすく解説

    八色の姓(やくさのかばね)とは、天武天皇14年(684年)に新たに制定された8種類の姓(かばね)のことです。 制定の目的は、天皇家の地位を確固たるものにするとともに、皇族および有力氏族の序列を明確に整理することにありました。律令国家の形成が進む中で、それまで複雑に入り組んでいた氏族の身分秩序を再編成しようとした政策といえます。 そもそも「姓(かばね)」とは何か、という基礎的な部分については、古墳時代の姓氏制度を解説した前回の記事もあわせてご覧いただくと理解が深まります。 八色の姓の序列 まず全体像として、8つの姓は以下の順序で序列づけられていました。 稲置(いなぎ) 真人(まひと) 最上

  • なぜ藤原京から平城京へ遷都したのか?その理由をわかりやすく解説

    奈良時代といえば、「な(7)ん(0)と(1)も(0)立派な平城京」という語呂合わせで710年に平城京へ遷都したことを覚えた、という方も多いのではないでしょうか。平城京への遷都は、飛鳥時代と奈良時代の境目となる大きな出来事です。今回は、なぜ平城京へ遷都することになったのか、その理由を探っていきます。藤原京から平城京へ遷都した理由今から約1300年前。平城京より前に都が置かれていたのは藤原京という都市です。『日本書紀』によれば、天武天皇の時代(676年)に藤原京の造営が始まったとされます。その後、天武天皇の崩御により一時中止されましたが、持統天皇が計画を引き継いで690年に造営を再開し、694年に

  • 平城京の出土品が語る、奈良時代の人々の暮らしと心

    平城京に暮らした人々は、どのような生活を送り、何を思いながら日々を過ごしていたのでしょうか。今回は、数多く出土した遺物をもとに、その実像に迫ってみたいと思います。 平城京から出土した品々 平城京は国家の政治の中心地でした。そのため、行政文書である木簡をはじめ、硯・墨・筆といった官人の仕事道具とも言える品々が数多く出土しています。 では、地方についてはどうでしょうか。 墨書土器に見る文字文化の普及 実は、文字が地方まで浸透していたことを示す証拠が見つかっています。土器には所有者の名前や地名が書かれ、さらには吉祥句(きしょく=縁起の良い言葉)が記されたものもあるのです。 このように、文字や記号が書

  • 第二次世界大戦の歴史問題と戦後処理――なぜ日本とドイツの道は分かれたのか

    時事問題をもっと深く理解したいと思い、筆者は改めて歴史の勉強を始めた。今回紹介するのは、同じ目的で書かれた『PRESIDENT』誌の「“儲かる”歴史」という記事である。現代史に関わる内容だったので、その要点を整理しながら考察してみたい。ちょうど終戦記念日の時期ということもあり、今回は戦争について取り上げる。世界史(特に中国史)の話も含まれる。安倍首相は談話を発表したが、なぜあれほど混乱を招いたのだろうか。記事の内容を要約しつつ、その背景を見ていこう。近世における日中の歴史的背景現在の日中関係を理解するには、近世(特に後半期)の日中両国の歴史を押さえておく必要がある。そこで、日本の江戸時代、中国

  • 奈良時代に僧侶が増えた理由とは?鑑真が日本へ渡った背景を探る

    前回の記事で触れた「僧侶が日本へ渡った理由」。今回は特に鑑真に焦点を当てて掘り下げます。「なぜ僧侶の数が増えたのか」というテーマには、鑑真来日の理由を示唆するヒントが隠されているようです。そこで今回は、両方をあわせて探ってみましょう。 僧侶の数が増えた日本の状況 710年(和銅3年)、都は平城京へと移されました。しかし遷都当初の710年の時点では、天皇の住まいである内裏(だいり)がひと通り整っていた程度と考えられています。平城京の造営にあたっては、長期間にわたり人材や資材が絶えず運び込まれ続けたのです。 平城京の土地は奈良盆地の北側に位置し、それまでは水田が広がるごく普通の農村地帯で、集

  • 奈良時代の税の話〜租・庸・調の仕組みと民衆の重い負担〜

    奈良時代の人々も、現代と同じように税を納めていました。今回は、大宝律令の制定後に定められた、民衆に対する税についてお話しします。 租・庸・調とは 律令国家となった日本では、「郷戸(ごうこ)」と呼ばれる約25人規模の組織がつくられ、戸籍・計帳にはこの郷戸単位で登録されていました。戸籍に登録された農民には口分田が支給されると同時に、さまざまな税や義務が課されました。 さらに、5つの郷戸が集まると五保(ごほ)という、連帯責任を負う組織となります。このような連帯責任の仕組みをつくった理由は、いうまでもなく民衆の逃亡を防ぐためです。 それでは、実際にどんな税や義務があったのか、詳しく見ていきましょう。

  • 大宝律令とは?官職と政治制度の仕組みをわかりやすく解説

    ```html 飛鳥時代から奈良時代にかけて、日本は祭祀国家としての性格を強め、現代でいう法律のような規則が明確に定められていく時代を迎えました。 701年(大宝元年)に制定された大宝律令によって、政治制度はほぼ整備されたと言えます。 「律」は現在の刑法に相当し、「令」は行政組織や官吏の勤務規定にあたるものです。今回のテーマは、この令に定められた行政組織についてです。 ここに登場する官職名は、奈良時代だけでなくその後の時代にも数多く現れるため、少し詳しく見ていきましょう。 大宝律令下の官職と組織 中央行政組織 神祇官…神々の祭祀をつかさどる機関 太政官…国政全体を統括する組織 太政官の下

  • 桓武天皇の一大事業「東北経営」〜遷都と並ぶ二大事業の全貌〜

    桓武天皇の二大事業 桓武天皇の治世における二大事業といえば、長岡京・平安京への遷都と、東北地方の経営です。 今回はこのうち、東北地方をめぐる動きにスポットを当てて解説していきます。 当時の東北地方の歴史 まずは、当時の東北地方がどのような状況にあったのかを見ていきましょう。 東北地方は、弥生時代が始まった後も「続縄文時代」と呼ばれる時代が長く続き、大和政権や日本史の主流とは異なる文化を受け継いできました。 大化の改新が断行されると、東北(蝦夷の地)には「道奥国」が置かれます。しかしそれは名目上のものにすぎず、東北の大部分は依然として朝廷の支配圏外にとどまっていました。 こうした情勢の中で、朝

  • 古墳が造られるようになった理由――鉄の流通と首長の権威から読み解く

    3世紀後半から6世紀後半にかけて続いた古墳時代は、文字を持たない文明としては日本史上最も繁栄した時代だったと言えるかもしれません。縄文・弥生時代に育まれた文化が花開いた文化的到達点であると同時に、後の日本という国家の形成につながった重要な転換期でもありました。 今回は、弥生時代中期以降の歴史をたどりながら、古墳(墳丘墓)がどのような背景のもとで生まれたのかを考えていきます。 墳丘墓誕生までの流れ まず、古墳時代へとつながっていく出来事を確認しておきましょう。 日本列島で起きていたこと 紀元前2世紀~前1世紀頃 気温がピークを迎えた後に低下し始めます。弥生時代は温暖期から寒冷期への移行期にあたり

  • 鉄はいつから使われた?ヒッタイトから日本の神話までたどる鉄の歴史

    前回の記事「古墳が作られるようになった理由」を執筆する際に、鉄についてもあわせて調べました。今回は日本史との直接的な関わりは薄い部分もありますが、調査の中で得た気づきや豆知識としてまとめてみたいと思います。記憶をもとに書いた内容ですので、皆さまの研究の一助として、参考程度に読んでいただければ幸いです。なお、このテーマは日本史にとどまらず、世界史全体に関わるものです。世界で最初に鉄を使った国――ヒッタイト紀元前1500年頃、現在のトルコ周辺に栄えたヒッタイトが、鉄分を多く含む隕石を使って鉄器を作っていたことが知られています。このことから、ヒッタイトは「世界で最初に鉄を使用した国」として言及される

  • ヤマト政権の基盤となった「姓(かばね)制度」の仕組みと歴史をわかりやすく解説

    やや難解なテーマですが、ヤマト政権下の国内統治の基礎となる重要な制度のため、ここで詳しく解説します。 姓(かばね)制度とは、ヤマト政権における有力豪族の身分序列のことです。この姓制度を土台として、ヤマト政権の権威体系や政治体制が構築されました。 「姓」と聞くと現代の苗字・名字を思い浮かべがちですが、まずそのイメージは一旦脇に置いてください。端的にいえば、姓制度とは古墳時代における社会秩序を指す言葉なのです。 姓(かばね)制度とは ヤマト政権は、大王(のちの天皇)を頂点に、畿内周辺の有力豪族が連合して形成された「豪族連合政権」だったと考えられています。このヤマト政権がつくり出した社会的分業体制

  • 戦国時代の日本は人口が増えていた?戦乱の世で人口が増加した理由を解説

    日本の戦国時代というと、数多くの合戦によって多くの人が命を落としたというイメージが強いものです。しかし実際には、戦国時代を通じて日本の人口は増加していました。 では、なぜ戦乱の世にあって人口が増えたのでしょうか。その理由を詳しく見ていきましょう。 戦国時代の人口推移 日本の戦国時代といえば、応仁の乱(1467年)を発端として約150年にわたり続いた戦乱の時代、下剋上の時代として認識されている方が多いでしょう。 この時期の日本の総人口は、おおよそ次のように推移したとされています(前近代日本の人口動態 – Wikipediaより)。 1450年頃の日本の総人口:約1,000万人 1600年頃の

  • 卑弥呼と魏の関係|なぜ邪馬台国は魏に朝貢したのか?

    以前、邪馬台国についての記事を書きましたが、今回は「卑弥呼はなぜ魏に朝貢したのか」という点を、もう一歩踏み込んで掘り下げていきます。その理由は「鉄を手に入れるため、朝鮮半島南部で優位に立つこと」だと言われていますが、当時の中国大陸と朝鮮半島の情勢を眺めると、倭国が魏に朝貢した理由が見えてきます。今回は「卑弥呼と魏の関係」について書いていきます。卑弥呼の時代の中国大陸卑弥呼が活躍した時代、つまり248年頃(卑弥呼が亡くなったとされる年)以前の中国大陸は、どのような状況だったのでしょうか。239年(『魏志倭人伝』の記述では238年)、卑弥呼は難升米(なしめ)を正使、牛利(うしり)を副使とする使節団

  • 古事記・日本書紀はどこまで信頼できる?「記紀」の成り立ちと信頼性を検証

    飛鳥時代について書くとき、主な史料となるのはほぼ『古事記』と『日本書紀』です。とはいえ、この二つは後世の人々が独自に編纂したものであるため、すべてを鵜呑みにしてよいのかと疑問に思うところですが、実際には他に代表となる史書が少なく、どうしてもこの二つに頼らざるを得ません。『古事記』と『日本書紀』を合わせて「記紀(きき)」と呼びますが、今回はそれぞれの特徴や、記紀が編纂された時期・編者・目的を整理したうえで、「果たして本当に信頼できるのか」という点を検証していきます。『古事記』と『日本書紀』の特徴の違い書名古事記日本書紀成立時期天武天皇即位直後(40歳代?)に構想(即位=673年)↓712年(和銅

  • シルクロードと飛鳥文化――仏教と珍品がもたらされた東西交流の道

    シルクロードとは、現在の中国・新疆ウイグル自治区を東西に横断する交易路のことです。中国側の起点は長安、ヨーロッパ側の終点はローマとされることが一般的ですが、実はシルクロード自体は特定の国が管理していた道路ではないため、どこから始まりどこで終わるのかを厳密に定めるのは難しいのが実情です。 ただし、唐代における東西交通路の東端は日本と認識されており、シルクロードの東の果ては飛鳥京や平城京だったと考えられています。 当時の日本は、中国をお手本として文化や文物を積極的に取り入れていました。そのため、中国文化を学ぶべく遣隋使・遣唐使がたびたび派遣されました。その回数は、607年から894年までの約290

  • 大化の改新後の政治体制とは?改新の詔の内容と主要人事をわかりやすく解説

    これまで、大化の改新そのものの存在に疑問があるという話をしてきましたが、もし実際に大化の改新が行われていたのだとしたら、どのような政治体制がしかれたのでしょうか。今回はそのあたりを少し掘り下げてみたいと思います。 改新の詔(かいしんのみことのり)とは 改新の詔とは、大化の改新において新しい政治の方針を示すために出された詔(みことのり)のことです。その主な内容は、以下の4点にまとめられます。 公地公民 地方行政組織の整備 戸籍の作成 新しい税制の導入 さらに、品部(しなべ)の廃止も示されました。 ※品部とは、古墳時代以降の大和王権のもとで、農民以外の専門技術をもって仕える労働者のことを指しま

  • 飛鳥時代の豪族・蘇我氏の内紛とは?蝦夷と摩理勢の対立とその背景

    飛鳥時代の朝廷を眺めてみると、宮廷内部や豪族同士の対立が頻繁に起こっていたことがわかります。なかでも日本古代史上最大の内乱とされる壬申の乱は有名ですが、この時代は皇位継承をめぐる争いや豪族間の権力闘争が絶えず、中央集権国家が形成されていく一方で、その内実は混乱に満ちていました。では、当時の権力者の内部はどのような状況だったのでしょうか。今回は、飛鳥時代を代表する有力豪族である蘇我氏に焦点を当てて解説します。蘇我氏の内紛――推古天皇の後継者をめぐる対立乙巳の変(645年)の際、中大兄皇子や中臣鎌足の側に与して蘇我本宗家を裏切った人物がいます。それが蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわの

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