世界史

古代の歴史

  • ナチスからの大脱走——“空飛ぶ”ノルウェー人スヴェン・ソンムの300km逃走劇

    第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ占領下のノルウェーでレジスタンスとして闘い、死刑判決を受けながらも奇跡的な脱走を成し遂げた男——それがスヴェン・ソンム(Sven Somme)である。年齢のため戦えなかった男の選択スヴェン・ソンムは1940年当時、ノルウェーの公務員として働いていた。しかし同年4月、ドイツ軍が祖国に侵攻し、占領体制が敷かれると、彼の人生は一変することになる。すでに高齢だったため前線で戦うことはできなかったが、ソンムは弟ヤコブ(Jakob)とともにレジスタンス(抵抗運動)への参加を決意する。弟の死が強めた闘志悲劇は1943年に訪れる。弟ヤコブはドイツ軍に逮捕され、残忍な拷問を受けた

  • スペイン内戦:ナバラの「レケテ」──フランコ軍を支えた精鋭部隊

    「レケテ(Requetés)」は「ナバラ人」としても知られる兵士たちであり、スペイン北部ナバラ州の出身です。彼らの背後には、何世紀にもわたる戦士としての重厚な伝統が息づいていました。「レケテ」という言葉の語源はフランス語で、「猟師の呼び声」を意味するとされています。 戦士の血を引くナバラの人々 「狩人」から転じて「レケテ」と呼ばれるようになった彼らは、中世以来、スペインのみならずフランスにおいても優れた戦闘能力を発揮してきました。中世のナバラ人が組織した悪名高い傭兵団の存在も広く知られています。 カルリスタ戦争と保守の牙城ナバラ しかし、レケテの名が最も高まったのは、スペインで繰り広げら

  • 鉄の手の騎士ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン――中世ドイツの「バイオニック」戦士

    鉄の手の騎士、ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンとは ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンは「鉄の手の騎士」として知られる人物です。革命的精神の持ち主で、物言いは率直、生まれながらの誇り高き気性。山賊でありながら帝国の擁護者でもあり、弱者の保護者であると同時に悪党でもありました。彼は貧しい人々のために自らの階級と戦う、いわばドイツ版ロビン・フッドのような存在となったのです。 貴族に生まれ、冒険の道へ 名門ベルリヒンゲン家の一員として1480年に生まれた彼は、兄弟姉妹10人のうちの一人でした。幼少期を一族の城で過ごした後、ニーダーハルの修道院で初等教育を受け、その後は叔父コンラートのもとへ預けられます。

  • ダンツィヒ1939年:最後まで親衛隊に抗い続けたポーランド郵便局員たちの英雄的抵抗

    55人の郵便局員、鉄道員、そして10歳の少女を含む市民たちがナチスの大群に立ち向かったその抵抗を、「英雄的」と呼ばずに何と表現できるだろうか。開戦初日、郵便局に籠城した男たち1939年9月1日、当時「ダンツィヒ」と呼ばれた自由都市(現在のポーランド・グダニスク)では、ドイツ軍の侵攻を予期していた市内のポーランド人郵便局員たちが、中心広場に面した古い石造りの郵便局ビルにバリケードを築いて立てこもった。彼らには家族のほか、鉄道員1名、さらに建物の門番とその妻、10歳の娘エルヴィナも加わった。侵攻を見越して、彼らは事前に短機関銃3丁、小銃40丁、手榴弾3箱を建物内に備蓄していた。指揮を執ったのは、ポ

  • 第二次世界大戦のヒロイン、イリーナ・レフチェンコ――看護師からT-34戦車長へ

    衛生兵として戦場に立ちながら、やがてT-34戦車の乗員となり、終戦まで戦い抜いたイリーナ・レフチェンコ。彼女は赤軍史上、最も輝かしい女性英雄の一人として名を刻んでいる。 17歳で志願した若き衛生兵 イリーナ・レフチェンコは1924年3月15日、ソ連に生まれた。1941年6月、ナチス・ドイツがソ連に侵攻した当時、彼女はまだ学生だった。しかし祖国の危機に直面すると、即座に義勇衛生兵として志願し、わずか17歳にしてブリャンスク方面の第61軍隷下、第149狙撃師団に配属された。 包囲網から168人を救出 ソ連軍にとって悲劇の連続だった開戦初期の日々、レフチェンコはドイツ軍の包囲網の中に取り残された負

  • 英雄猫サイモン――毛沢東軍に包囲された英フリゲート艦「アメジスト号」を救った小さな猫

    犬こそ人間の最良の友とされるが、一匹の猫「サイモン」は、その称号に匹敵する存在であることを自ら証明してみせた。彼の死から数十年が経った今もなお、英国海軍はこの英雄猫を讃え続けている。長江で101日間の包囲サイモンは英国海軍フリゲート艦「HMSアメジスト号」のマスコットだった。中国内戦の終盤、同艦は毛沢東率いる人民解放軍によって長江(揚子江)上で包囲され、なんと101日間も身動きが取れなくなってしまったのだ。当時アメジスト号は、上海から南京へ向かう途中だった。現地の英国大使館員の避難計画を支援するための航行中に毛沢東軍の砲撃を受け、損傷のため座礁してしまう。イギリス側が懸命に抗議と交渉を重ねたに

  • マドリード攻防戦1936――「第五列」の誕生、国際旅団、そしてソ連戦車

    1936年10月下旬、前進を続けるナショナリスト(反乱軍)は、スペインの首都マドリード攻略を目指して兵力の集結を開始した。攻撃を仕掛けるには、これ以上ない好機であった。アフリカ軍団を中核とするナショナリスト軍は、セビリアから首都郊外まで共和国の民兵部隊を駆逐してきた。マドリードの陥落は、仮に戦争の終結こそもたらさないにせよ、フランコにとって大きな心理的勝利となり、諸外国による政権承認への道を開く可能性すらあった。当時のマドリードは、ほとんど戦わずともナショナリストの手に落ちる、熟した果実のように見えた。市の守備隊は民兵ばかりで、武装も人員も訓練も悲惨な状態だった。市内にも周辺にも要塞化は進めら

  • アレシアの戦い――カエサルの勝利はいかにして伝説となったのか

    紀元前58年からガリア征服に乗り出したユリウス・カエサルは、さまざまなガリア諸部族との戦いを重ねながら優勢を保っていた。しかし紀元前52年、ウェルキンゲトリクスのもとに結集したガリア勢力は、ついにローマ軍への総反撃を決意する。若き指導者ウェルキンゲトリクスとアレシアへの撤退若きガリアの指導者ウェルキンゲトリクスの手には大軍が握られており、騎兵だけでも1万5千人を数えた。それにもかかわらず、その後の小競り合いではカエサルの部隊が勝利を収めたため、彼は軍をアレシアへ退かせることを決断する。アレシアは現在のディジョン近郊、丘の上に築かれた都市だった。ローマ軍の圧倒的な包囲網5万人を擁するとはいえ強襲

  • リーダーシップの本質――経営にも通じる、時代を超えた戦争の教訓

    東ローマ(ビザンツ)帝国のマウリキウス皇帝(539年~602年)に帰される兵法書『ストラティギコン』は、史上最も重要な軍事文献の一つとされています。騎兵が最新鋭の戦車に取って代わられた現代においても、この不朽の名著は今なお通用する普遍的な知恵を私たちに与えてくれます。 マウリキウス自身も軍人であり、軍隊との特別な絆を育んできた人物でした。その著作に残された数々の教えは、現代においてもすべての将官が座右に置くべき「黄金の書」と言えるでしょう。 指導者はまず、部下との関係から 皇帝はまず、人と組織・統治の関係について論じています。その中で特に強調されるのは、指導者が部下に対して示すべき振る舞いで

  • ポーランド侵攻のドイツ騎兵旅団――馬蹄と血で綴られた最後の騎馬戦

    1939年9月1日、第二次世界大戦の幕開けとともに、ドイツ軍では新編成の騎兵旅団に2個騎兵連隊が配属された。一方、他の騎兵連隊は相次いで解隊され、その人員や部隊は他の編成へと分散されていった。旅団の編成と装備この騎兵旅団(以下「旅団」)の中核は、騎兵第1連隊と騎兵第2連隊である。これに加え、3個中隊からなる自転車部隊を擁し、各中隊は将兵195名、三脚架式MG34重機関銃4挺、二脚架式の同機関銃9挺、50mm軽迫撃砲3門を装備していた。重装備として37mm対戦車砲3門、75mm軽榴弾砲4門、81mm迫撃砲6門も保有していた。砲兵戦力としては、75mm砲4門を装備した砲兵中隊2個からなる騎乗砲兵中

  • ミノア文明からナポレオンまで――戦場の女王「サリッサ」の歴史

    サリッサとは、古代ギリシャで用いられた長槍である。その起源は非常に古く、先史時代にまで遡る。クレタ島のミノア文明や初期アカイア人の歩兵たちは、すでにこの武器を装備していた。サリッサと通常の槍の最大の違いはその長さにあり、扱うには戦士の両手が必要だった。一般に、全長3メートルから3.5メートルを超える槍がサリッサと呼ばれた。通常の槍は全長2.5メートル程度にとどまり、戦士は片手で持つのが普通だったが、サリッサは両手で扱う必要があったのだ。サリッサを持つ兵士による最初のファランクス(密集隊形)は、ミノア文明および初期ミケーネ時代にまで遡る。ミノア・ミケーネ時代の起源当時のサリッサは「エンギ」と呼ば

  • ヒトラーのアルバニア人兵士たち――悪名高き武装親衛隊第21師団「スカンデルベグ」の罪と崩壊

    第二次世界大戦中、ナチス・ドイツは占領下の各地において、主にパルチザン掃討を目的とした武装師団や部隊を次々と編成した。その中でも最悪の部類に属したのが、アルバニア人によって構成された師団である。アルバニアは1939年4月にイタリアによって占領された。その後、ギリシャとユーゴスラビアが相次いで占領されると、イタリア領アルバニアは領土を拡張し、コソボまでもその版図に収めた。これはアルバニア民族主義者が夢見てきた「大アルバニア」構想の実現であった。イタリアの庇護の下、アルバニア人はギリシャ人、セルビア人、モンテネグロ人に対する虐殺を開始した。とりわけコソボでは、セルビア系住民が次々と追放されるか、命

  • ベオグラードの戦い(1717):名将オイゲン、15万のオスマン大軍を殲滅す

    再び忍び寄る「トルコの脅威」1715年、ハプスブルク帝国ひいては全ヨーロッパにとって、オスマン帝国の脅威が再び現実のものとなりつつあった。その兆候は1711年にさかのぼる。プルト川の戦いにおいて、メフメト・パシャ率いる26万のオスマン軍は、ロシア皇帝ピョートル大帝が率いるわずか4万の軍を打ち破っていたのだ。拡張主義の路線を貫くオスマン帝国は、1714年にはカルロヴィッツ条約を一方的に破棄し、ギリシャにおけるヴェネツィア領へ攻撃を仕掛けた。ヴェネツィアの防衛はあっけなく崩壊し、ペロポネソス半島全域はたちまちオスマン帝国の手に戻った。次の標的がバルカン北西部の帝国領であることは明白だった。そして1

  • 第一次世界大戦の罪なき戦士たち――塹壕の地獄で戦った動物の「英雄」たち

    エーリッヒ・マリア・レマルクは、傑作『西部戦線異状なし』の中で、衝撃的な一場面を描き出している。輓獣(ばんじゅう)の隊列がイギリス軍の砲撃を受ける場面だ。レマルクは、苦しみ続ける負傷動物を楽にしてやろうとするドイツ兵の姿を通じて、「自然そのものの悲鳴」に耐えかねる兵士の心情を見事に表現している。先史時代から続く、人間と動物の戦友関係動物が人間と共に戦ってきた歴史は、原始人が最初の狼を飼い慣らした先史時代にまで遡る。それ以来、動物は常に人間とともに戦争の最前線に身を置いてきた。その代表格といえば、やはり馬だろう。第二次世界大戦まで、そして地球の一部の地域では今日に至るまで、動物たちは彼ら特有の無

  • ストゥーカJu-87――空から舞い降りた炎、パニック、そして死

    急降下爆撃という発想は、両大戦間期に生まれた。ドイツは当時提唱されていた様々な理論を検証し、従来の水平爆撃よりも急降下爆撃の方がはるかに有利だとの結論に達した。従来の方法が「目標地域」を攻撃し、そのうちの幾らかが偶然目標に命中することを期待するだけだったのに対し、急降下爆撃は「目標地点」そのものを正確に叩ける方式だったのである。ストゥーカ誕生までの道のりこうしてドイツは、最初の急降下爆撃機として小型複葉機ヘンシェルHs 123の製造に着手した。この機体はスペイン内戦で実戦テストを受け、その有効性を実証している。同時にドイツは、さらに強力な急降下爆撃機の開発も並行して進めていた。やがてその名はド

  • ペトロヴァラディンの戦い1716──オイゲン公の奇襲と、トルコ人への容赦なき報復

    1715年、ハプスブルク帝国の東部国境に再び「トルコの脅威」が迫りつつあった。オスマン帝国の拡張の野心は1711年、メフメト・パシャ率いる26万の大軍が、ピョートル大帝率いるロシア軍4万をプルート川の戦いで打ち破ったときから再燃していた。従来どおりの拡張主義政策を貫くトルコ人は、1714年にはカルロヴィッツ条約を一方的に破棄し、ギリシャにおけるヴェネツィア領へ攻撃を仕掛けた。ヴェネツィアの防衛はあっけなく崩壊し、まもなくペロポネソス半島全域がオスマン帝国の手に戻った。次の標的がバルカン半島の帝国領であることは明白だった。しかし、先に宣戦布告したのはハプスブルク側ではなかった。新帝カールはコンス

  • モハーチでの復讐──ハンガリーの平原はトルコ兵の死体で埋め尽くされた

    1526年の悲劇から161年後、同じ平原で運命は逆転した1526年、スレイマン大帝率いる巨大なオスマン帝国軍は、南ハンガリーのモハーチの野で、ハンガリー王ラヨシュ2世の小規模な軍を粉砕した。この「栄光ある」勝利の後、オスマン軍は死と破壊を撒き散らしながらハンガリーの残りの地域をほぼ無血で征服し、ウィーンにまで達したが、包囲攻撃は失敗に終わった。しかし運命は皮肉にも、161年後の1687年8月13日、まさに同じ平原でトルコ軍に似たような結末を用意していた。ロートリンゲン公カールとバイエルン選帝侯マクシミリアン・エマヌエルが指揮するキリスト教連合軍は約5万人。一方、クロアチア出身の司令官サル・スレ

  • A34コメット――第二次世界大戦におけるイギリス最高の巡航戦車

    第二次世界大戦中、イギリス軍は戦車設計の分野でドイツに大きく後れを取っていました。しかし1942年、ドイツ軍の重戦車ティーガーIが登場すると、その圧倒的な火力と防御力はイギリス軍戦車部隊に大きな衝撃を与えたのです。この脅威に対抗するため、イギリスはクロムウェル巡航戦車をベースに、当時イギリス軍で最強の対戦車砲とされていた17ポンド砲(77mm)を搭載する新型戦車の開発を決定しました。A34コメットの誕生新型戦車は「コメット(Comet)」と命名され、正式名称はA34巡航戦車(A34 Cruiser Tank)となりました。最大装甲厚は102mmに達し、重量は35,696kg、全長7.66m、全

  • ナポレオン・ボナパルトとは?生涯・功績・失脚の原因をわかりやすく解説

    ナポレオン・ボナパルトの生涯ナポレオン・ボナパルトは1769年8月15日、コルシカ島の首都アジャクシオで生まれました。父の名はカルロ・ボナパルトといいます。ナポレオンはブリエンヌ陸軍学校やパリの陸軍士官学校で教育を受け、若くして軍事的な才能を開花させました。1796年、ナポレオンはイタリア遠征においてオーストリア軍を打ち破り、その名をヨーロッパ中に轟かせることになります。フランスでは1799年に総裁政府による統治が終わり、ナポレオンは同年統領(コンスル)に就任しました。1802年には終身統領となり、さらに1804年にはフランス皇帝として即位します。ナポレオンは近代フランスの建設者と評価されてお

  • 第一次世界大戦とは|開戦のきっかけから終結・ヴェルサイユ条約まで徹底解説

    第一次世界大戦は、1914年7月28日、オーストリアによるセルビア侵攻によって始まり、約4年間に及んだ世界規模の戦争です。本記事では、開戦の引き金となった事件、参戦した二つの陣営、戦争の主な経過、そして戦後処理までを、よくある質問とあわせてわかりやすく解説します。 第一次世界大戦の概要 第一次世界大戦は、1914年7月28日にオーストリア(オーストリア=ハンガリー)がセルビアに宣戦布告したことで始まり、4年間続きました。開戦の直接的なきっかけとなったのは、1914年6月28日、ボスニアの首都サラエボで起きたオーストリア皇位継承者フランツ・フェルディナント大公の暗殺事件です。 世界を二分し

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