世界史

南アメリカの歴史

  • コパカバーナ砦の反乱(18人の反乱)とは?テネンチズム運動の幕開け

    コパカバーナ砦の反乱とは 「コパカバーナ砦の反乱」(ポルトガル語:Revolta dos 18 do Forte de Copacabana、通称「Os 18 do Forte=砦の18人」)は、1922年にブラジルで起こった政治・軍事運動であり、テネンチズム(尉官運動)における最初の反乱とされています。 テネンチスタ(尉官派)の理想 テネンチスタと呼ばれた若手将校たちは、実証主義的な理想を掲げ、軍隊と強い結びつきを持っていました。彼らは伝統的な大地主エリート層に権力が集中する寡頭政治体制に真っ向から反対し、より民主的な政治の実現を目指して闘ったのです。 この反乱の名称「コパカバーナ砦の18人

  • 1834年追加法(Ato Adicional)とは?ブラジル帝国の憲法改正と摂政時代の変遷

    1834年追加法は、1824年に制定されたブラジル憲法に対して導入された一連の改正です。 歴史的背景 三頭摂政のメンバー:フランシスコ・デ・リマ・エ・シルヴァ准将、ジョゼ・ジョアキン・カンポス上院議員、ニコラウ・デ・カンポス・ヴェルゲイロ上院議員。 当時のブラジルは動乱の時代を迎えていました。ペドロ1世の退位により、王位継承者はわずか5歳だったため権力の空白が生じ、国を統治するために三頭摂政(トリウムヴィレッジェンツィア)が設置されました。この時期は「摂政時代」と呼ばれています。 しかしその一方で、政治の舞台では複数のイデオロギー勢力が主導権をめぐって激しく争っていました。 同時

  • 大統領制(大統領主義)とは?特徴や議院内閣制との違いをわかりやすく解説

    大統領制(だいとうりょうせい)とは、1787年にアメリカ合衆国で創設され、民主共和制国家のモデルとして採用されてきた政治体制のことです。この制度では、行政・立法・司法の三権が互いに監視し抑制し合うことで、特定の権力が他より優位に立つことを防ぎます。これは、フランスの思想家モンテスキュー(1689年〜1755年)が提唱した「三権分立」の原理に基づくものです。大統領制の主な特徴大統領制の最大の特徴は、立法・司法・行政の三権が分離している点です。各権力は相互に機能的な依存関係を保ちながら、互いを牽制する仕組みを持っています。大統領制では、国民による直接投票(ブラジルなど)、あるいは選挙人団による間接

  • ペトロブラスの歴史|ブラジル最大の石油会社の誕生から現在まで

    ペトロブラスはブラジル最大の石油会社であり、世界有数の規模を誇るエネルギー企業です。1953年、ジェトゥリオ・ヴァルガス政権下で創設され、1950年代のブラジル経済に大きな足跡を残しました。2013年10月3日には創立60周年を迎えています。一般に「ペトロブラス」と呼ばれるこの企業の正式名称は「Petróleo Brasileiro S.A.(ブラジル石油株式会社)」です。本社はリオデジャネイロに置かれ、現在は世界各国で事業を展開する上場企業です。ブラジル連邦政府が最大株主として経営に深く関与している点も大きな特徴です。事業内容は、石油の探査・生産・販売を中心に、石油製品(誘導品)の流通など多

  • オランダによるブラジル侵攻とは?17世紀のニューホラント支配とその終焉

    17世紀にブラジルで起こったオランダの侵攻は、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)による一連の侵入でした。1624年にバイーア、1630年にペルナンブコ、そして1641年にはマラニョンへと及びました。 その目的は、北東部における砂糖の生産と交易の支配を取り戻し、維持することにありました。その結果、オランダはこの地域を約25年間にわたって支配することとなります。 しかし、ポルトガル人およびブラジル在住のポルトガル系住民による激しい抵抗に加え、気候への不適応、病気や悪天候などにも苦しんだオランダ人は、1654年についに占領地を放棄せざるを得なくなりました。 主な原因 まず押さえておきたいのは、ブラ

  • アントニオ・コンセリェーロとは?カヌードスの宗教指導者の生涯と悲劇

    アントニオ・コンセリェーロ(Antônio Conselheiro、1830年〜1897年)は、ブラジル北東部の宗教指導者であり、ベロモンテ(通称カヌードス)集落の創設者として知られています。当時の共和制政府は、彼を「宗教的狂信者」とみなしました。これは、彼の追随者たちに対して行われた虐殺を正当化するための口実でもあったのです。アントニオ・コンセリェーロの生涯本名アントニオ・ヴィセンテ・メンデス・マシエル(Antônio Vicente Mendes Maciel)。彼は1830年3月13日、現在のセアラー州キシェラモビンに生まれました。父は商人で、母は彼が6歳のときに亡くなりました。両親は息

  • コーエン・プランとは?ブラジル・エスタード・ノーヴォを生んだ偽造文書の全貌

    コーエン・プラン(Cohen Plan)は、共産主義者によるものとされた文書で、ジェトゥリオ・ヴァルガス政権の転覆と、ブラジルにおける共産主義体制の樹立計画が記されているとされました。1937年9月30日、政府がラジオ放送を通じてこの計画の「発見」を公表すると、それは例外国家(非常事態)体制を樹立するための正当な根拠として利用されることになりました。コーエン・プランに描かれた脅威は、1935年の共産主義反乱(コミンテルンの意図)にも類似しており、ストライキやデモ、破壊行為、略奪、さらには政府要人への襲撃の実行手順が極めて詳細に記されていました。政府にとって重大な脅威と受け止められたこの計画の捏

  • アンシエタ神父とは?「ブラジルの使徒」イエズス会宣教師の生涯と功績

    イエズス会(イエスの会社)の宣教師であり、「ブラジルの使徒」とも呼ばれるホセ・デ・アンシエタ神父は、ブラジルの地におけるカトリック布教(カテキズム)の黎明期を支えた人物です。彼は1980年に列福され、続いて2014年に列聖されました。 略歴 ホセ・デ・アンシエタは1534年3月19日、スペイン・カナリア諸島のテネリフェ島に生まれました。父はジョアン・ロペス・デ・アンシエタ、母はメンシア・ディアス・デ・クラビホ・イ・ジャレナで、イエズス会の創立者であるイグナチオ・デ・ロヨラの親類にあたるとされています。 彼はポルトガルで学びましたが、幼い頃から患っていた骨の病気のため、医師の助言もあって、まだ

  • ビラ・リカの反乱とは?1720年のブラジル植民地解放運動とフィリペ・ドス・サントスの生涯

    ビラ・リカの反乱(Revolta de Vila Rica)は、指導者の名前にちなんで「フィリペ・ドス・サントスの反乱」とも呼ばれています。1720年にブラジルで起こったこの運動は、経済的・社会的変革を掲げ、とりわけ共和制の導入によるポルトガル植民地からの解放を目指しました。 発生の場所と時期 反乱が起こったのは、現在のオーロ・プレト(ミナスジェライス州)。当時は「ビラ・リカ」と呼ばれ、大規模な金鉱床を擁する町でした。1720年といえば、金採掘がブラジル最大の経済活動であった「黄金サイクル(ゴールドラッシュ期)」の真っ只中です。 なお、この反乱から72年後の1792年には、ブラジル史上最大の植

  • フィコの日(Dia do Fico)とは?ブラジル独立への第一歩となった1822年1月9日の決断

    フィコの日(Dia do Fico)は、1822年1月9日にあたります。この日、ブラジルの摂政であった皇太子ドン・ペドロ(Dom Pedro)は、リスボンのポルトガル議会(コルテス)からの帰国命令に背き、「ブラジルに留まる」ことを決断しました。この出来事が「フィコの日」と呼ばれるのは、ドン・ペドロがその場で発した有名な言葉——「私は留まる(Fico)」——に由来しています。この決断は、同年9月7日に実現するブラジル独立へ向けた重要な一歩とされています。なぜドン・ペドロはブラジル残留を決めたのか?ドン・ペドロの残留を望む動きは、ポルトガルがブラジルから「王国」の地位を取り上げるのではないかという

  • リオブランコ男爵とは?ブラジル近代国境を築いた伝説的外交官の生涯

    リオブランコ男爵(Barão do Rio Branco)は、ブラジルのジャーナリスト、政治家、そして外交官です。1902年から1912年に亡くなるまで、ブラジルの外務大臣を務めました。アルゼンチン、フランス、ボリビアといった近隣諸国との重要な国境問題を解決し、武力紛争に頼ることなく約90万平方キロメートルもの領土をブラジルへ編入させた人物として、ブラジルの歴史にその名を刻んでいます。ここでは、現代ブラジルの国境を形作った伝説的外交官の生涯をご紹介します。誕生と家族本名ジョゼ・マリア・ダ・シウバ・パラニョス・ジュニオール(José Maria da Silva Paranhos Júnior)

  • 自由子宮法(レイ・ド・ヴェントリ・リブレ)とは?ブラジル初の奴隷制廃止法を徹底解説

    ブラジルの自由子宮法(Lei do Ventre Livre)、別名リオブランコ法(第2040号法)は、同国初の奴隷制廃止関連法とされています。この法律は、保守党に属するリオブランコ子爵(1819年〜1880年)によって提出され、1871年9月28日にイザベル皇女によって裁可されました。この法律により、その日以降に生まれた奴隷の子どもたちは自由の身となることが認められました。自由子宮法の概要自由子宮法の起源は、1867年の立法議会開会式におけるペドロ2世皇帝の演説にさかのぼります。いわゆる「玉座からの演説(Fala do Trono)」の中で、皇帝は立法者たちに対し、ブラジルにおける奴隷制を段

  • ブラジル統合主義行動(AIB)とは?歴史・特徴・1938年の武装蜂起をわかりやすく解説

    ブラジル統合主義行動(AIB)は、1932年にプリニオ・サルガドによって創設された政治組織であり、ブラジル初の大衆政党でした。当初はヴァルガス政権を支持していましたが、エスタド・ノヴォ体制(1937年)の樹立に伴い、政府転覆を目指す「統合主義者の蜂起」を1938年5月11日に起こしました。反共産主義・反自由主義の思想を掲げた統合主義は、ブラジルにおけるファシズム運動とみなされています。ブラジル統合主義行動の概要ブラジル統合主義行動は、1932年にサンパウロ出身のプリニオ・サルガドが「十月宣言」を発表したことをきっかけに設立されました。サルガドは1922年のサンパウロ近代美術週間に参加した経験を

  • オランダ西インド会社とは?設立の背景から歴史・解散まで徹底解説

    オランダ西インド会社とはオランダ西インド会社(蘭語:West-Indische Compagnie、略称WIC)は、1621年に設立されたオランダの貿易会社です。その最大の目的は、スペインとポルトガルに対する経済戦争を推進することにありました。当時、ヨーロッパとアメリカ大陸を結ぶ貿易はイベリア半島諸国が独占しており、これはオランダにとって政治的・経済的な大きな障害となっていました。そこでオランダは、アメリカ大陸およびアフリカの植民地との交易を促進する手段として、この会社を設立したのです。17世紀を通じて、同社はアメリカ大陸および西アフリカとの航海と貿易の独占権を握り、やがてブラジルの一部を征服

  • 1964年ブラジル軍事クーデターの全貌:ジョアン・グラール失脚から軍事独裁体制の確立まで

    1964年3月31日の夜、軍事クーデターが発動され、ジョアン・グラール大統領が罷免されました。合法的に成立した政府に対するこの行動は、その後20年以上にわたって続くブラジル軍事独裁体制(1964〜1985年)の幕開けとなりました。クーデターの最大の口実となったのは、グラール大統領がもたらしうる「共産主義の脅威」でした。この軍事行動は、実業家、大地主、そして外資系企業からなる連合体によって強く支持されていました。カトリック教会も共産主義思想への反対の立場から、クーデター支持に重要な役割を果たしました。しかしその後、聖職者の一部はこの姿勢を見直し、教会は軍政体制の有力な批判者となっていきます。歴史

  • セクサジェナリオ法(サライヴァ・コテジペ法)とは?1885年ブラジルの奴隷解放法を解説

    セクサジェナリオ法(六十歳奴隷解放法)、別名サライヴァ・コテジペ法(第3270号法)は、エウゼビオ・デ・ケイロス法、自由胎児法、黄金法と並ぶ、ブラジルの奴隷廃止関連法の一つです。1885年9月28日に公布され、60歳以上の奴隷に自由を与えました。概要1884年、上院議員兼大臣のマヌエル・ピント・デ・ソウザ・ダンタス(1831〜1894)、通称「ダンタス上院議員」によって、この法案が議会に提出されました。当時の議会では、賠償金を支払わずにブラジルの奴隷制終焉を目指す廃止論者と、国家の農業エリート層を形成する大地主たちが対立していました。地主の多くは奴隷所有者であり、廃止派政治家の提案に強い危機感

  • 剣の共和国(1889~1894)とは?ブラジル軍政時代の全貌を解説

    剣の共和国(ポルトガル語:República da Espada、1889年~1894年)は、ブラジル旧共和国(第一共和政)の最初期にあたり、国家の政治権力が軍部の手に握られていた時代です。 この時期の大統領は、デオドロ・ダ・フォンセカとフロリアーノ・ペイショットの二人の元帥が務めました。 暫定政府 共和政クーデターの翌日、リオデジャネイロではデオドロ・ダ・フォンセカ元帥を首班とする暫定政府が組織されました。これにより、陸軍が国家の政治的主導権を掌握することになったのです。 暫定政府は以下のような施策を実行しました。 州議会・市議会・代議院の解散 従来の「州」を「連邦州」へ改称し、軍人を介

  • AI-5(第5号制度法)とは?ブラジル軍事独裁政権の最も抑圧的な時代

    第5号制度法(Ato Institucional nº 5、通称AI-5)は、1968年12月13日に発布され、当時のアルトゥール・ダ・コスタ・エ・シルヴァ大統領が署名しました。この法令は、ブラジルにおける軍事独裁政権期(1964年~1985年)の中で最も過酷な段階の始まりを画するものでした。AI-5発布の直接の引き金となったのは、下院議員マルシオ・モレイラ・アウヴェス(1936年~2009年)が提案した、軍部へのボイコット(非協力)呼びかけでした。AI-5の概要AI-5の発布により、大統領は以下のような強大な権限を獲得しました。連邦・州・市町村レベルの議員や行政職の公職辞職命令(解任)市民の

  • エンボアバ戦争とは?ブラジル金鉱山をめぐる紛争の原因と影響

    エンボアバ戦争とは「エンボアバ戦争(ポルトガル語: Guerra dos Emboabas)」は、1707年から1709年にかけてブラジルで起こった武力紛争です。サンパウロの旗本隊(バンデイランテス)がミナスジェライス地方で発見したばかりの金鉱山の採掘権をめぐって争われました。鉱山監察官でありパウリスタ(サンパウロ出身者)の指導者でもあったマヌエル・デ・ボルバ・ガトに率いられた開拓者たちは、鉱山地帯の金鉱床を独占的に採掘する権利を主張していました。しかし、「エンボアバ」と呼ばれる人々(ブーツを履いていたよそ者に対する蔑称)は、裕福な商人マヌエル・ヌネス・ヴィアナに率いられ、主にポルトガル人や植

  • プライエイラ革命――ブラジル帝国末期に起こった自由主義者の武装蜂起

    プライエイラ革命(Praieira Revolution)、別名ペルナンブコ・プライエイラの乱は、リベラル(自由主義)かつ共和主義的な性格を持った武装蜂起でした。 ペドロ・イヴォ・ヴェローゾ・ダ・シルヴェイラ(Pedro Ivo Veloso da Silveira)率いるこの反乱は、ブラジル帝国時代(1822年〜1889年)の末期、第二帝政期(ペドロ2世の治世)にあたる1848年から1850年にかけて、ペルナンブコ州で発生しました。 この革命は帝政期における最後の大規模な反乱とされており、その主な目的は、当時の保守派エリートによる政治体制、すなわちカヴァウカンティ(Cavalcanti)家と

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