世界史

南アメリカの歴史

  • エントラーダとバンデイラ――植民地時代ブラジルを変えた内陸遠征

    「エントラーダ(Entradas)」と「バンデイラ(Bandeiras)」は、17世紀から18世紀にかけて植民地時代のブラジル内陸部で行われた、戦略的・経済的目的を持つ探検遠征です。これらの侵入活動こそが、ブラジル領土の拡大と征服を確実なものにしました。 遠征の主な特徴 両者の遠征には多くの共通点がありました。とりわけ際立っていたのは、狩猟や漁労、キャッサバ(マンディオカ)、一部の果実に頼らざるを得なかった粗末な食料事情、そして数年に及ぶこともある長期にわたる旅路です。 遠征隊員の主な武器は弓と、マスケット銃などの火器でした。旅は極めて過酷で、劣悪な衛生環境による病気や、野生動物・先住民からの

  • セルタンの薬とは?植民地時代ブラジルの「新しい香辛料」とその歴史

    セルタンの薬(ドロガス・ド・セルタン)とは「セルタンの薬」(ポルトガル語:Drogas do Sertão)とは、16世紀から17世紀にかけて、植民地時代のブラジル、特に北東部の奥地(セルタン)で取引されていた各種の産物を指します。具体的には、植物、根、種子、果実、薬用ハーブなどが含まれます。この時期を「セルタンの薬サイクル」と呼ぶ研究者もいます。これらの産物はブラジルの大地で育まれ、異国情緒あふれる希少なものとしてヨーロッパ市場で高く評価され、盛んに取引されました。ヨーロッパの人々はこれらを「新しい香辛料」とみなし、強い関心を寄せていたのです。代表的な産物としては、ココア、ブラジルナッツ、ウ

  • バンデイランテスとは?ブラジル内陸を切り開いた開拓者たちの歴史

    「バンデイランテス(Bandeirantes)」は「セルタニスタ(Sertanistas)」とも呼ばれ、16世紀から18世紀にかけてブラジルの奥地(セルトン)を探索した先駆的な開拓者・探検家たちのことです。彼らの多くはポルトガル人をはじめとするヨーロッパ人の直系の子孫であり、ポルトガル植民地の領土拡大と征服を担いました。バンデイランテスはトルデシリャス条約で定められた境界線を大きく超えて領土を広げ、遠征を重ねるごとに一歩ずつ新たな土地を征服していったのです。彼らは防具や甲冑を身につけ、ピストル、アルケブス(火縄銃)、小銃、マスケット銃、散弾銃、剣、槍、クロスボウなどの武器で武装し、先住民やカボ

  • ブラジルの発見とは?子ども向けにやさしく解説|カブラル船団の冒険とトルデシリャス条約

    ブラジル発見の日「ブラジルの発見」は、1500年4月22日、ポルトガル人がこの地に到着したときにおこりました。ペドロ・アルヴァレス・カブラルという勇敢なポルトガルの探検家が、13隻の船(大型船10隻と小型帆船3隻)からなる船団を率いてやって来ました。一緒にいたのは約1,500人の船員と、経験豊富な航海士バルトロメウ・ディアスです。新しい土地への到着カブラルの船団は1500年3月9日にリスボンを出港し、はじめはアフリカの海岸沿いに進みました。ある地点で西へ針路を取ると、近くに陸がある兆しが見え始めたのです。ポルトガル人たちが陸を発見したとき、一人がこう叫びました。「陸だ!陸が見えるぞ!」最初に目

  • ジョアン・バチスタ・フィゲイレード|ブラジル軍政最後の大統領の生涯と功績

    ジョアン・バチスタ・デ・オリヴェイラ・フィゲイレード(João Baptista de Oliveira Figueiredo、1918年~1999年)は、1964年から1985年まで続いたブラジルの軍事独裁政権において、最後の大統領を務めた将軍です。1979年3月15日から1985年3月15日までの任期中、恩赦法(アムネスティ法)の制定や連邦議会・州知事選挙の直接選挙化などを通じて、ブラジルの民主化(政治開放)を主導しました。生涯と軍歴フィゲイレードは1918年1月15日、リオデジャネイロに生まれました。軍人の息子として育ち、ポルトアレグレ陸軍学校など複数の軍事教育機関で学んだ後、1935年

  • ペルナンブコ州の歴史〜先住民の時代から独立運動まで

    ブラジル北東部に位置するペルナンブコ州の歴史は、先住民とポルトガル人との対立、オランダによる支配、そして独立運動の試みなど、数々の激動の出来事に彩られています。ここでは、ブラジルで最も歴史ある州の一つであるペルナンブコの歩みをご紹介します。 ペルナンブコの先住民 現在のペルナンブコ州にあたる地域には、カエテス族、カリリス族、タバジャラス族など、多様な先住民部族が暮らしていました。 各部族は独自の言語や習慣を持ち、互いに対立することも珍しくありませんでした。この状況はヨーロッパ人にとって好都合であり、彼らは領土征服のために異なる部族と次々と同盟を結ぶことで、勢力を拡大していったのです。 ペルナン

  • カルロタ・ホアキナとは?ポルトガル王妃の波乱に満ちた生涯

    ドナ・カルロタ・ホアキナ・デ・ボルボン(Dona Carlota Joaquina de Bourbon)は、1775年4月25日、スペインのインファンタ(王女)として誕生しました。父はスペイン国王カルロス4世、母は王妃マリア・ルイサ・デ・パルマです。彼女は言語、歴史、宮廷作法、宗教を学びました。並外れたエネルギーの持ち主で、その生涯を通じてポルトガル、ブラジル、スペインの政治に積極的に関わり続けました。ポルトガル国王ジョアン6世の妻であり、ブラジル初代皇帝ペドロ1世の母としても広く知られています。ジョアンのメダルとともに描かれたドナ・カルロタ・ホアキナ政略結婚ポルトガル王子とスペイン王女の結

  • ペトロポリス条約とは?アクリ地方をめぐるブラジルとボリビアの領土協定

    ペトロポリス条約(Tratado de Petrópolis)は、1903年11月17日にリオデジャネイロ州の都市ペトロポリスで調印された、ブラジルとボリビアの間の外交協定です。この条約により、1750年以来ボリビア領であったアクリ地方が正式にブラジルへ併合されることになりました。全10条から構成される本条約には、両国間の領土交換が盛り込まれました。下アクリ(142,000km²)と上アクリ(48,000km²)がブラジル領に編入される一方、ボリビアはマットグロッソ州方面の一部地域(約3,164km²)を保持することとなりました。概要ゴムノキをめぐる「ゴム景気」は、アマゾン熱帯雨林に位置するア

  • ブラジルの歴史を徹底解説:先史時代から現代共和国までの歩み

    ブラジルの歴史は、約1万2000年から2万年前に人類がこの地に定住したことから始まりました。16世紀に入るとポルトガル人が植民地化を開始し、プランテーションでの労働力としてアフリカ人奴隷が移送されました。彼らは新しい食料や動物をもたらし、先住民の歴史を永遠に変えることとなりました。先史時代(カブラル以前の時代)ブラジルにおける人類の存在を示す証拠は、少なくとも1万2000年前にさかのぼります。原始の人類は大きく分けて3つのグループ――狩猟採集民、サンバキ(貝塚)を作った人々、農耕民――に分かれてブラジルに居住していました。先住民の痕跡は、ピアウイ州のセラ・ダ・カピヴァラやリオグランデ・ド・スー

  • 第一次世界大戦におけるブラジルの参戦:中立から宣戦布告まで

    第一次世界大戦とブラジルの参戦ブラジルが第一次世界大戦に参戦することになったのは、ドイツ軍がブラジル船を撃沈した後の1917年4月のことです。その約半年後、ブラジルはドイツ帝国に対して正式に宣戦布告し、看護師や医師、さらに地中海で偵察任務に従事する航空要員を派遣しました。歴史的背景1914年7月28日に第一次世界大戦が勃発すると、ブラジルは同年8月4日、中立の立場を採りました。この姿勢は、開戦初期の段階で中立を宣言していたアメリカの決定に沿うものでした。当時のブラジルの態度は、陸軍大臣ヘルメス・ダ・フォンセカ元帥(1850〜1923)のもとで築かれた外交路線を反映したものでした。ブラジルとドイ

  • ジャニオ・クアドロスとは?ブラジル第22代大統領の生涯と7ヶ月で辞任した理由

    ジャニオ・ダ・シルバ・クアドロス(Jânio da Silva Quadros)はブラジルの政治家で、1961年1月31日から同年8月25日まで同国第22代大統領を務めました。ジュセリーノ・クビチェック(1902〜1976)の後を継いで大統領に就任し、政治家としてのほかに教師や弁護士としても活動した人物です。 ジャニオ・クアドロスの生涯 ジャニオは1917年1月25日、マトグロッソ・ド・スール州の州都カンポグランデで生まれました。 1930年まで、パラナ州の州都クリチバにある「エゼキエウ・ダ・シルバ・ロメロ・バストス学校」および「パラナ州立コレジオ」で初等教育を受けました。その後サンパウ

  • インディアンデー(4月19日):由来・歴史と先住民文化への貢献

    インディアンデー(インディオの日)は毎年4月19日に祝われる記念日で、ブラジルではヴァルガス政権時代に制定されました。 この日には、学校や各種団体、先住民コミュニティがイベントを開催し、ブラジル国民の形成において先住民文化が果たしてきた重要な役割を振り返ります。 インディアンデーの起源と歴史 1940年4月19日、メキシコのミチョアカン州パツクアロにて「第1回米州先住民会議」が開催されました。 この歴史的な会議を記念するため、ジェトゥリオ・ヴァルガス(1883〜1954)政権下の1943年、法律第5,540号によって4月19日がインディアンデーとして定められました。 会議には各国政府の要人や多

  • チラデンテスの日とは?ブラジルの国民的英雄を偲ぶ4月21日の祝日

    チラデンテスの日は、毎年4月21日にブラジルで祝われる記念日です。1965年に法律第4,897号によって制定されました。 この日は国民の祝日であり、ブラジル国家の英雄、殉教者、そして守護者とされるチラデンテスに敬意を捧げる特別な日です。 ブラジルの歴史の発展において多方面で活躍したこの人物の重要性を称えるため、記念日は彼が処刑された日に設定されています。1792年4月21日、チラデンテスは絞首刑に処せられ、その後遺体は四つ裂きにされました。 チラデンテスとは誰か? 本名ホアキン・ジョゼ・ダ・シウバ・シャビエル(Joaquim José da Silva Xavier)は、1746年11月12

  • コロル大統領の弾劾:1992年、ブラジルを揺るがした汚職疑惑と国民の怒り

    コロル弾劾(インピーチメント)とは、1992年に行われたフェルナンド・コロル・デ・メロ大統領の罷免手続きです。汚職や金融不正への関与が疑われる中、「カラス・ピンターダス(顔を塗った若者たち)」と呼ばれる市民運動が街頭で大きなうねりとなりました。最終的に上院は賛成76票、反対3票という圧倒的な結果で大統領の罷免を決議しました。 弾劾の理由 選挙戦では、コロルは若さを武器に、汚職撲滅と「マラジャー」と呼ばれる特権階級の公務員の排除を掲げて幅広い支持を集めました。マラジャーとは、職場に出勤しないのに給与を受け取り続ける公務員を指す言葉です。 しかし就任後、コロルは「コロルプラン」を実施し、5万クル

  • ジョアン6世とは?宮廷をブラジルへ移し、独立への道を開いたポルトガル王

    ジョアン6世(Dom João VI)は、ポルトガル摂政王子として国政を担い、のちに「ポルトガル・ブラジル・アルガルヴェ連合王国」の国王、さらに1825年以降はポルトガル国王として君臨した君主です。彼はポルトガル女王マリア1世と国王ペドロ3世の息子として生まれました。母后マリア1世が病に倒れたため、1792年に摂政王子に任命されます。そしてマリア1世が1816年に亡くなると、1818年にブラジルにおいて国王として即位を宣言しました。在位中にはフランスによるポルトガル侵攻が起こり、ポルトガル宮廷はブラジルへと移転します。ジョアンは現地で政府機関を整備しながら、反乱や戦争に直面し、1820年にポル

  • カルス・ピンターダス運動とは?コラール大統領弾劾を掲げた1992年ブラジルの学生デモ

    カルス・ピンターダス運動の概要 「ペイントされた顔(カルス・ピンターダス)」は、1992年にブラジルで発生した学生運動です。 この運動は、当時の大統領フェルナンド・コラール・ジ・メロ(Fernando Collor de Mello)をめぐる汚職事件への抗議として誕生しました。最大の目標はコラール大統領の弾劾(インピーチメント)であり、若者たちが国旗の色(緑と黄)で顔を塗って街頭に繰り出したことから、この名称が付けられました。 プラナウト宮殿前のデモで顔にペイントをする参加者たち(1992年) なお、2013年7月にブラジル各地で発生したバス運賃値上げ反対のデモは、多くの人々から「2013年

  • 1967年憲法(ブラジル):軍事政権下で制定された憲法の歴史と特徴

    1967年憲法は、ブラジルにおける4番目の大憲章であり、共和制時代としては3番目にあたる憲法です。この憲法は軍事政権期に起草され、1967年3月15日に施行されました。歴史的背景新憲法案を担当した法律家たちが、1966年8月19日、草案をカステロ・ブランコ大統領に提出した様子。左から順に、レヴィ・カルネイロ、カステロ・ブランコ、テミストクレス・カヴァウカンティ、オロジンボ・ノナート、そしてメデイロス・ダ・シウヴァ司法大臣。1960年代のラテンアメリカでは、一連の軍事クーデターによって民主政権が次々と打倒されました。キューバ革命以降、共産主義が大陸全体に広がることを懸念したアメリカ合衆国は、地域

  • 奴隷貿易とは?1,250万人が強制移住させられた歴史の全貌

    奴隷貿易とは、黒人アフリカ人たちがアフリカから連れ出され、奴隷として売買された時代を指します。1501年から1867年にかけて、黒人アフリカ人の奴隷取引は、当時の覇権国にとって主要な商業活動の一つでした。アフリカ・アメリカ間の貿易この貿易は、イングランド(イギリス)、ポルトガル、フランス、スペイン、オランダ、デンマークの6か国によって管理されていました。アフリカ人奴隷の搾取を支えた商業上の正当化理由は、「砂糖、米、コーヒー、藍、タバコ、金属、宝石といった製品の低価格を維持できるのは、奴隷労働があってこそだ」という考え方でした。奴隷貿易によって、なんと1,250万人もの人々がアフリカから強制的に

  • プランテーション・システムとは?植民地ブラジルの農業経済体制とその特徴

    プランテーション・システムとは、ポルトガルによる植民地時代のブラジルで広く行われていた農業経済体制のことです。この制度は、スペインやイギリスの植民地支配下にあったアメリカ大陸の他の国々でも採用されていました。 プランテーション・システムの概要 このシステム自体は古代から存在していました。特にポルトガルの場合、アゾレス諸島やマデイラ島、さらにアフリカの植民地などで培われた技術をすでに習得しており、それを新大陸にも応用することができました。 つまりプランテーションとは、15世紀から19世紀にかけて主流となった植民地搾取の仕組みであり、輸出向けのモノカルチャー(単一作物)栽培が中心でした。生産された

  • ブラジルへの日本人移民の歴史:笠戸丸の到着から現在まで

    ブラジルへの日本人移民は、1908年6月18日、最初の移民船「笠戸丸(かさとまる)」がサントス港に到着した瞬間に幕を開けました。以来、ブラジルは日本国外で最大の日系人コミュニティを抱える国となっています。 移民の背景 19世紀末、明治維新(1868年)によって日本は世界に門戸を開き、社会構造を大きく変革しました。しかしその一方で、農民への課税は増え続け、数千人規模の人々が生計を求めて都市へ流れ込むことになりました。加えて人口増加も進み、日本政府は海外、とりわけアメリカ大陸への移民送出政策を本格的に推進し始めたのです。 同じ頃、ブラジル側でも深刻な変化が起きていました。1850年の奴隷貿易終

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