世界史

南アメリカの歴史

  • 1932年サンパウロ憲法革命とは?ブラジル史上最後の大規模武装闘争の全貌

    1932年の憲法革命(Revolução Constitucionalista de 1932)は、別名「1932年革命」あるいは「パウリスタ戦争(Guerra Paulista)」とも呼ばれ、ジェトゥリオ・ヴァルガス政権に対する最初の大規模な蜂起であると同時に、ブラジルで起こった最後の大規模な武力紛争でもありました。サンパウロ州のエリート層は、1930年の革命によって失った政治的主導権を取り戻そうと、選挙の実施と新憲法の公布を求めて立ち上がりました。憲法革命が勃発した7月9日は、今日でもサンパウロ州の祝日として記念されています。1932年憲法革命の原因1930年の革命により、ワシントン・ルイ

  • ブラジルの新自由主義とは?コロール政権からFHC政権への歩みとその影響

    ブラジルにおける新自由主義は、フェルナンド・コロール・デ・メロ政権のもとで始まり、フェルナンド・エンリッケ・カルドーゾが大統領に就任したことで本格的に定着しました。この時期には公共投資の削減と国有企業の民営化が積極的に進められました。概要軍事独裁政権の終焉後、ブラジルが直面していた最大の経済問題はインフレーションでした。加えて、ブラジルの産業は欧米諸国の技術革新に大きく立ち後れていました。こうした状況を受け、コロール大統領は新通貨の創設、労働法制の変更、国内市場の対外開放、国有企業の民営化を提唱します。これらの一連の施策は「コロールプラン」として知られるようになりました。ブラジルを国際市場へ開

  • ゴム景気(ラバーサイクル)とは?アマゾンを席巻したブラジルのゴムブームの歴史

    ゴム景気(ラバーサイクル)とは、ゴム生産のためのラテックス(天然ゴム液)の採取と販売がブラジル経済の基幹活動であった時期を指します。実際には、1879年から1912年にかけてアマゾン熱帯雨林の中央部で隆盛を極め、その後1942年から1945年にかけて短期間だけ再燃しました。1890年から1920年までのこの時期は「アマゾンのベルエポック」と呼ばれ、マナウス、ポルトヴェーリョ、ベレンといった都市は、電力・水道・下水道の整備が進み、ヨーロッパの影響を受けた博物館や映画館が次々と建設されるなど、ブラジルで最も発展した州都となりました。しかし、二度にわたる「ゴム景気」はいずれも突然の終焉を迎えます。地

  • ルーラ政権とは?経済成長と社会政策、そして汚職事件の実像

    ルーラ政権とは、ブラジル大統領ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シウバが2003年から2010年まで務めた2期8年の政権を指します。この政権は数百万人規模の人々を絶対的貧困から救い出した一方で、「メンサラオン(月例賄賂事件)」に代表される汚職スキャンダルによってもその評価は揺れました。それでもルーラは後継者として元大臣のジルマ・ルセフの当選を実現することに成功しています。ルーラ政権下の経済ルーラ政権は、前任者のフェルナンド・エンリケ・カルドーゾ大統領の経済路線を基本的に引き継ぎました。インフレの抑制と通貨レアルの安定は、引き続き政府の最優先事項でした。さらに幸運だったのは、中国やインドが急成長し、

  • サビナダの反乱とは?ブラジル・バイーア州で起こった共和制運動の全貌

    サビナダ(Sabinada)は、1837年11月から1838年3月にかけて、ブラジル帝国のバイーア州で発生した武装蜂起です。州都サルヴァドールが主な舞台となり、摂政期に相次いだ数々の反乱の中でも、特異な性格を持つ運動として知られています。この運動は、指導者であるフランシスコ・サビーノ・アルヴァレス・ダ・ロシャ・ヴィエイラ(Francisco Sabino Álvares da Rocha Vieira)の名前にちなんで「サビナダ」と呼ばれています。彼は医師でありジャーナリストでもあり、共和主義と連邦主義を掲げる革命家でした。反乱の主な原因自身の名が反乱の名称となった指導者、フランシスコ・サビー

  • トロピカリア(トロピカリズモ)とは?ブラジル発の前衛文化運動の歴史と代表曲

    トロピカリア(Tropicália/トロピカリズモ)は、1967年から1968年にかけてブラジルで芸術、とりわけ音楽の分野において展開された前衛的な文化運動です。 自由と解放を掲げた革命的な運動として知られ、ボサノヴァが持っていた知的・洗練された側面から一歩距離を置き、ブラジル音楽を大衆文化、サンバ、ポップ、ロック、サイケデリアといった多様な要素へと近づけることを目指しました。 この開放的で融合的(シンクレティック)かつ革新的な美学の実践は、ブラジル大衆音楽(MPB)のみならず、国全体の文化のあり方を大きく変え、ブラジルの近代性を模索する一大ムーブメントとなりました。 トロピカリアを牽引した主

  • ドン・ペドロ1世とは?ブラジル帝国初代皇帝の生涯と功績

    ドン・ペドロ1世(Dom Pedro I)は、ブラジル帝国の初代皇帝であり、1822年から1831年まで在位しました。彼は1822年9月7日にブラジルの独立を宣言し、1824年にはブラジル初の憲法を公布した人物として広く知られています。生涯シンプリシオ・ロドリゲス・デ・サー筆「ドン・ペドロ1世の肖像」(1830年)ペドロ1世は1798年10月12日、ポルトガルのケルズ(リスボン県)で生まれました。父はポルトガル王ジョアン6世、母はスペイン王女カルロタ・ホアキナです。ドン・ペドロ1世の正式な名前は「ペドロ・デ・アルカンタラ・フランシスコ・アントニオ・ジョアン・カルロス・シャビエル・デ・パウラ・ミ

  • ブラジルの「発見」:1500年4月22日、ポルトガル人が新大陸に到達した日

    ブラジルの「発見」は、1500年4月22日、現在のブラジルにあたる土地にポルトガル人が到達したことで起こったとされています。この出来事はブラジルの歴史における重要な転換点であり、ポルトガル人航海者たちによる知的努力と数々の海洋探検の成果でした。しかし近年、「発見(discovery)」という表現はこの歴史的な事実を正確に描写していないとして、研究者たちの間で疑問が呈されています。「発見」という言葉はヨーロッパ中心主義的な用語であり、ポルトガル人がたどり着いた土地に住民が存在しなかったかのような印象を与えるためです。そのため、「ポルトガル人のブラジル到達」という表現の方がより適切だと考えられてい

  • ブラジル第一帝政期(最初の統治)とは?ペドロ1世の治世とその終焉をわかりやすく解説

    第一帝政期は、1822年9月7日から1831年4月7日までの期間を指し、ブラジル初代皇帝ドン・ペドロ1世(D. Pedro I)が国を統治した時代です。 つまり、この時期はブラジル独立の達成に始まり、ペドロ1世の退位によって終わります。 第一帝政期は、農業エリート層と皇帝との対立、北東部やシスプラチナ地方での地域紛争などに特徴づけられます。しかし同時に、ブラジルが国家としての基盤を築き上げた重要な時代でもありました。 第一帝政期の特徴 第一帝政期は、ブラジル国家が形成された時期として特徴づけられます。政治体制は立憲君主制であり、その元首はドン・ペドロ1世でした。 経済面では、砂糖、タバコ、綿花

  • 1917年サンパウロ・ゼネスト――ブラジル初のゼネラルストライキの軌跡

    1917年のゼネストは、同年6月から7月にかけてブラジル・サンパウロの労働者や商人たちによって引き起こされた大規模な運動でした。労働者たちは労働条件の改善と賃上げを求めました。5日間に及ぶゼネストの末、スト参加者たちの要求は受け入れられることとなりました。1910年代のサンパウロにあった工場の様子。歴史的背景19世紀末、第二次産業革命の波に乗って、イギリス、スペイン、ドイツなどの国々では労働者階級が自らを組織し、雇用主に対してまっとうな労働条件の保障を求めて圧力をかけるようになりました。しかし、問題が常に平和的に解決されたわけではありません。例えば、1909年に起きたバルセロナの「悲劇の一週間

  • ブラジル1988年憲法とは?「市民憲法」の概要と主な特徴をわかりやすく解説

    「ブラジル連邦共和国憲法」は「市民憲法(Constituição Cidadã)」とも呼ばれ、一般的には「1988年憲法」の名称で知られています。この憲法は1988年10月5日に公布されました。1822年のブラジル独立以来7番目の憲法であり、共和制時代としては6番目にあたります。概要公布当日、ウリセス・ギマリャエス下院議員が憲法の写しを掲げる様子この憲法は、1986年11月15日に民主的に選出され、ウリセス・ギマリャエス(Ulysses Guimarães)が議長を務めた国民制憲議会によって起草されました。当時の共和国大統領はジョゼ・サルネイ(José Sarney)でした。制憲議会での審議は

  • 「鞭の反乱」とは?1910年ブラジル海軍で起きた水兵たちの蜂起(チバータ反乱)

    鞭の反乱(ポルトガル語:Revolta da Chibata、通称「チバータ反乱」)は、1910年11月22日から27日にかけてリオデジャネイロで発生した、ブラジル海軍の軍事的騒乱です。体罰の廃止を求める闘い、低賃金、劣悪な労働条件への不満――これらこそが、反乱を引き起こした主な原因でした。歴史的背景当時のブラジル海軍において、水兵の大多数は奴隷制から解放されたばかりの黒人たちでした。彼らはわずかな賃金と引き換えに、過酷な労働を強いられていました。少しでも不満を示せば処罰の対象となり、艦内の規律は将校による体罰によって維持されていました。なかでも最も一般的だったのが「鞭打ち」という刑罰です。世

  • ブラジル最初の首都はサルバドール!歴代首都の変遷と植民地時代の歴史を徹底解説

    ブラジルには、これまでに複数の首都が存在してきました。最初の首都はサルバドール(1549年〜1763年)、次いでリオデジャネイロ(1763年〜1960年)、そして現在の首都ブラジリア(1960年4月21日〜)へと移り変わっています。また、あまり知られていない豆知識として、クリチバが1969年3月24日から27日までのわずか3日間、「ブラジルの首都」に指定されたという逸話もあります。植民地時代のブラジルの行政組織世襲制の「カピタニア(分封領)制度」は、ポルトガル王室がブラジルに導入した最初の政治・行政組織でした。1534年から1549年にかけて、ブラジルは「カピタニア」と呼ばれる帯状の土地に分割

  • 1891年憲法とは?ブラジル共和政最初の憲法の特徴と歴史的背景

    1891年憲法は、ブラジルが共和制へ移行してから最初に制定された憲法です。その最大の特徴は、大統領制を中心とする共和政体の確立と、国家と教会の分離(政教分離)でした。 歴史的背景 ブラジル最初の共和制憲法の前文 当時のブラジルは、君主制から共和制へ移行する過渡期にありました。1824年以来、国を統治してきた大憲章(憲法)を新体制に合わせて改める必要があり、政府は新しい現実に適応した憲法の制定を迫られていたのです。 そこで新しい憲法の起草を担う立法議会が選出され、わずか3か月で草案がまとめられました。実際には、法学者のルイ・バルボーザ(Rui Barbosa)とプルデンテ・デ・モライス(Pru

  • ブラジル民族の形成:先住民・ヨーロッパ人・アフリカ人が織りなす混血の歴史

    ブラジル民族は、複数の民族が混ざり合うことで生まれた存在です。その主な構成要素は、先住民(インディオ)、ポルトガル人、そしてアフリカ出身の人々です。さらに、19世紀以降を中心にブラジルへ渡ったヨーロッパやアジアからの移民たちも、ブラジル民族の形成に大きく寄与しました。先住民とブラジルの形成現在のブラジルにあたる地域には、1万2000年前から人類が暮らしていたことが記録されています。先住民は沿岸部を中心に国土全体に分布していました。ただし、彼らを単一の民族と考えるのは誤りで、実際にはそれぞれ独自の言語と習慣を持つ多数の部族が存在していました。最も人口の多かった民族集団はトゥピ・グアラニー族であり

  • ブラジル移民の歴史と現在:ヨーロッパ・アジア・中東から渡った人々の軌跡

    ブラジル移民の始まり ブラジルへの移民の歴史は、1850年の奴隷貿易廃止に始まります。 奴隷制の負の遺産を払拭したいブラジル政府は、人口の「白人化」を促進するため、ヨーロッパからの移民受け入れを積極的に推進しました。 ブラジル移民の特徴 1808年の港開放により、ポルトガル以外の国々からの移民がブラジルに入国できるようになりました。この時期には、複数のヨーロッパ科学探検隊がブラジルを訪れ、ヨーロッパにおいてポルトガル植民地としてのブラジルを宣伝しました。また、リオデジャネイロを中心に、医師や技術者といった自由職業者の定住も記録されています。 1850年の奴隷貿易禁止に加え、コーヒー農園の急速

  • ブラジル第二帝政期:ペドロ2世の治世とその終焉

    第二帝政期とは第二帝政期(セグンド・レイナード)は、1840年7月23日から1889年11月15日まで、皇帝ペドロ2世(1825年〜1891年)がブラジルを統治した時代を指します。この時期は、ブラジル各州間の比較的平穏な時代であり、奴隷制の段階的廃止やパラグアイ戦争(1864年〜1870年)といった出来事によって特徴づけられます。そして1889年11月15日の共和派によるクーデターをもって、この時代は幕を閉じました。第二帝政期の概要第二帝政期は、ブラジルが一つの国家として確立された時期です。政治体制は立憲君主制(議会君主制)で、皇帝は閣僚評議会議長(首相に相当する役職)を、3名の候補者リストの

  • ハルター投票(カブレスト投票)とは?旧共和政ブラジルにおける選挙の実態

    ハルター投票(voto de cabresto)とは、コロネル(大佐)と呼ばれる地方の大地主たちが有権者に強いた、威圧的かつ恣意的な選挙形態を指す言葉です。 定義 「ハルター投票」という表現は、二つの言葉を組み合わせたものです。すなわち、「投票(Voto)」は民主主義の完全な行使を意味し、「ハルター(Cabresto)」はラテン語の「カピストゥルム(capistrum)」に由来し、「口輪」や「手綱」を意味します。 このように、この概念は一種の逆説を含んでいます。民主主義が口輪をはめられ、荷役動物のように導かれる姿を表しているからです。 旧共和政におけるハルター投票 ブラジルの貧しい地域、特に

  • 第二次世界大戦とブラジル――遠征軍FEBがイタリア解放に挑んだ7ヶ月

    第二次世界大戦におけるブラジル ブラジルの第二次世界大戦への参戦は1944年9月16日に始まり、約7か月間にわたって続けられました。その目的は、ドイツ軍に占拠されていたイタリアの解放です。 ブラジルはどのように参戦したのか ブラジルは、ゲトゥリオ・ヴァルガス政権が採っていた中立政策の終了をアメリカ合衆国政府に迫られ、第二次世界大戦へと参戦することになりました。 1937年まで、ブラジルはドイツと友好関係を維持していましたが、翌年にその関係は崩れます。 それでもブラジルは中立を保っていました。しかし状況が大きく変わったのは1942年、枢軸国との国交断絶です。 これにより、ドイツ軍はブラジル沿岸で

  • 表現の自由とは?意味・限界・政治との関係、ブラジルの歴史と名言を解説

    表現の自由とは、報復を恐れることなく自らの意見を表明できる権利です。同時に、さまざまな手段を通じて情報を受け取る権利も含まれており、外部からの検閲を受けずに独立した状態が保障されるべきものとされています。 言い換えれば、個人または集団の意見を、常に他者への配慮を忘れず、情報の真実性に裏付けられた形で発信する権利ということです。 この権利は「世界人権宣言」によって保障されています。 メディアと表現の自由の関係 メディアと表現の自由の関係はきわめて重要です。メディアは、文章や造形表現など多岐にわたる表現活動の可能性を大きく広げる手段を一つに束ねる存在だからです。 ただし、自己表現の権利があるから

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