世界史

古代の歴史

  • 「ピュロスの勝利」の真相――1796年ミレジモの戦いとナポレオンの偽りの戦果

    1796年、ナポレオン・ボナパルトは約4万人のイタリア方面軍を率い、北イタリアで戦っていた。モンテノッテでの勝利に続いて、フランス軍はデーゴの占領へと動いた。容易な任務になるはずだった。ところが、結果は正反対となったのである…… 両軍の配置――小規模な守備隊と廃城のコッセリア ナポレオンはアンドレ・マッセナ師団をデーゴへ、ピエール・オージュロー師団を隣接するミレジモへと派遣した。ミレジモには、イタリア出身のオーストリア将軍ジョヴァンニ・ディ・プロヴェーラが率いる、戦力を大きく減じた旅団が配置されていた。 プロヴェーラの部隊は小規模で、その主力はジュライ自由軍団の兵士たちだった。さらに第27歩

  • 水深4,736メートルの海底で発見された、神風特攻の犠牲となった護衛空母「セント・ロー」(写真)

    第二次世界大戦中、日本軍の神風特攻機によって完全に破壊されたアメリカ海軍初の大型艦が、太平洋の海底調査でついに発見されました。それが護衛空母「セント・ロー(USS St. Lo)」です。船体の主要部分は、マリアナ海溝の縁にあたる水深4,736メートルの地点で確認されています。この航空母艦は1944年、フィリピン近海で神風特攻機の攻撃を受けました。自爆攻撃による衝撃で艦内に搭載されていた魚雷と爆弾が次々と誘爆し、乗員143名が命を落としました。艦はそのまま海中へと沈んでいきました。セント・ローはカサブランカ級護衛空母の一隻です。同級は合計50隻が建造され、うち5隻が戦闘で失われています。満載排水

  • 大きな箒がイタリア軍を一掃――愚か者ムッソリーニの北アフリカ大敗北

    1940年6月10日、イタリアの独裁者ムッソリーニは、すでに崩れゆくフランスと、孤立無援のイギリスに対して宣戦を布告した。当時ムッソリーニは、戦争が自国に何ら利益をもたらさぬまま終結することを恐れていた。宣戦布告直後、イタリア軍はマリティーム・アルプス前線でフランス軍への攻撃を開始したが、惨めな形で撃退された。 しかし、フランスの降伏によって、ムッソリーニは勝者の列に加わることとなった。虚栄心という名のベールに包まれた彼は、フランスでの「勝利」の後、今度は北アフリカでその武力の運を試すことを決意した。標的は、イギリスが占領するエジプトであった。 準備される「帝国」 ムッソリーニには楽観する理由

  • 「レッドバロン」になる前のリヒトホーフェン――騎兵将校として戦った青年時代

    男爵家に生まれた次男1892年5月2日の朝、プロイセン貴族アルベルト・フォン・リヒトホーフェン男爵の屋敷に、喜ばしい騒ぎが広がった。その朝、家の伝統を継ぐべき息子の産声が初めて聞かれたのである。代々続く軍人の家系を受け継いでくれることを願う当主は、息子を腕に抱き、喜びを隠せなかった。生まれた子はマンフレート・アルベルトと名付けられた。兄弟姉妹の中では2番目の子どもだった。13歳でヴァールシュタットの士官学校に入学するが、本人は後に「特に軍人になりたかったわけではなく、単に父の意向に従っただけだ」と語っている。学業のほうも決して優秀とは言えず、無造作な性格ゆえに、なんとか「合格」ラインの成績を収

  • ピョートル大帝の少年時代の「遊び」――「生きた小さな兵士たち」が近衛連隊へと育った物語

    皇帝の死が引き起こした政治的危機1682年、ロシア皇帝フョードル3世の死去は、国家を政治的危機へと陥れました。ストレリツィ(銃兵隊)が反乱を起こし、後の「大帝」となる若き皇子ピョートルは、目の前で親族が虐殺されるという凄惨な光景を目撃することになります。その後、姉のソフィアが支持者たちとともに国政の実権を握り、ピョートルはモスクワ近郊のプレオブラジェンスコエ村へ送られました。「大いなる遊戯」軍の誕生まさにこの地で、ピョートルは「生きた小さな兵士たち」からなる軍隊、いわゆる「大いなる遊戯(グレート・ファン)」軍の結成を始めました。この軍隊は、ピョートルの友人たちを中心に、使用人や少数の正規兵によ

  • アルベルト・ゲーリング――ヒトラーの敵、ナチス高官ヘルマン・ゲーリングの弟

    アルベルト・ゲーリングは1895年、ベルリンに生まれました。5人きょうだいの末っ子で、3人兄弟の末弟にあたります。長兄こそ、あの有名なヘルマン・ゲーリング――ヒトラーの側近にして、ドイツ空軍総司令官となった男です。 ところが一部の資料によれば、アルベルトは母親とユダヤ人ヘルマン・フォン・エプシュタインとの関係から生まれたとされています。2016年には、彼の娘が「エプシュタインが実の父親である」と明かしました。もし事実なら、歴史は皮肉な巡り合わせを見せていることになります。 兄はナチス高官に、弟は体制の反対者へ アルベルトは第一次世界大戦に従軍しました。しかし、人生を一変させたのは、ヒトラーが

  • 崑崙関の戦い:日中戦争で繰り広げられた大規模な戦車戦

    崑崙関の戦いは、第二次世界大戦前夜の日中戦争において最も重要な戦闘の一つと位置づけられています。中国軍が約400輌もの戦車を投入した点で、特別な意義を持つ戦いでした。戦略的要衝・崑崙関をめぐる攻防崑崙関は、現在の中越国境に近い広西省への玄関口にあたる要衝であり、戦略的に極めて重要な地点でした。日本軍の狙いは、当時フランス領インドシナを経由する中国への補給路を遮断することにありました。そのため日本軍は先んじて崑崙関を占領し、これに対して中国軍は何としても奪回しようとしたのです。日本軍の戦力日本軍は陸・海・空の三方面から兵力を投入しました。先鋒を務めたのは、他部隊によって増強された精鋭・第5師団で

  • 英雄的なワルシャワ蜂起から75年――ナチスの残虐な鎮圧が今も影を落とす

    ポーランド人の記憶に刻まれた蜂起1944年8月1日のワルシャワ蜂起は、ポーランド人の集合的記憶と歴史意識の中で特別な位置を占めています。ナチス・ドイツがこの蜂起を、彼ら自身の基準から見ても異例と言えるほどの残虐さで鎮圧したからです。犠牲者は約20万人に上り、その大多数は一般市民でした。多くの人々が集団処刑で命を落とし、数十万人が強制収容所へ送られました。1944年の蜂起とその暴力的な鎮圧は、今日に至るまでドイツとポーランドの関係に暗い影を投げかけています。ドイツの政治家が記念式典のためワルシャワを訪れることは、これまでほとんどありませんでした。25年前には当時の連邦大統領ローマン・ヘルツォーク

  • 英雄中尉と部下24名の壮絶な死闘――最期の瞬間まで貫いた忠誠心

    1945年1月、イギリス軍は当時ビルマ(現ミャンマー)領だったアラカン地方で、日本軍に対する大規模な攻勢を開始した。作戦の要諦は、精鋭である第3コマンドー旅団を日本軍陣地の南方、カンガウ周辺に投入し、同地に展開する日本軍第54歩兵師団の退路を断つことにあった。 イギリス軍はまず、戦略的に極めて重要な「170高地」を占領した。この高地を押さえれば、日本軍に強いられる撤退経路を火力で支配することができる。高地の防衛と包囲網の保持という任務は、第3旅団隷下の第1コマンドーが担うことになった。 300名超の日本兵が突撃 予想どおり、日本軍は大規模な反撃に出た。高地北側の防御線の一角は、若きジョージ・

  • ティーガーI型戦車131号車――世界唯一の走行可能な“最後の虎”(動画)

    チュニジアへ送られたティーガー131号車 ティーガーI重戦車(Panzerkampfwagen VI、Tiger I (H1)、Sd.Kfz. 181)はドイツ・カッセルで製造されました。この個体は1943年2月に完成し、同年3月から4月にかけて北アフリカのチュニジアへ輸送されています。第504重戦車大隊第1中隊第3小隊の1番車として配備され、砲塔には「131」の番号が与えられました。 1943年4月、運命の戦闘 1943年4月20日から21日にかけての夜、ドイツ軍はチュニス近郊で連合軍に対する反撃を開始しました。2両のティーガーが他の戦車や歩兵とともにジェベル・ジャファ峠への攻撃を実施し、

  • わずか5分で敵爆撃機6機を撃墜――冬戦争が生んだフィンランド空軍エース、ヨルマ・サルヴァントの伝説

    ソ連の巨影と小国フィンランドの抵抗1940年1月6日、フィンランド・ウッティ上空はソ連爆撃機の行動に好都合な天候に恵まれていた。約300メートルの高さから雲が空を覆い、視界は限られていた。当時、小国フィンランドは、一方的に攻め込んできたソ連という巨大国家との戦い(冬戦争)を1か月以上にわたって続けており、それでもなお持ちこたえていたのである。射撃訓練で92%の命中率を誇った男ヨルマ・サルヴァント(Jorma Sarvanto)は1912年、フィンランド南西部の港湾都市トゥルクに生まれた。予備パイロットとして訓練を受けた後、1937年に空軍へ入隊。爆撃機部隊での短期間の勤務を経て第24戦闘飛行隊

  • アンジェレッリ自由軍団――フリードリヒ大王麾下で最も精強だった自由軍団の一つ

    七年戦争と「自由軍団(Freikorps)」の誕生 七年戦争(1756年〜1763年)中、プロイセン国王フリードリヒ大王は「自由軍団(Freikorps)」と呼ばれる部隊の編成を認めていました。これらの部隊は軽歩兵としても正規の線列歩兵としても戦える柔軟性を持ち、志願兵、脱走兵、さらには集められる限りの人員によって構成されていました。当然ながら、その質には大きなばらつきがありました。そんな中で、アンジェレッリ自由軍団は最も精強な部隊の一つとして際立っていたのです。 編成と指揮官 アンジェレッリ自由軍団は1756年に創設されました。当初は5個中隊からなる単一大隊編成で、各中隊は104名。加えて

  • プリピャチ湿原掃討作戦――ソ連領土で行われたドイツ初の組織的虐殺

    1941年7月から8月にかけて、ソ連領内のプリピャチ湿地帯で実施された「プリピャチ湿地帯作戦(独:Pripjatsümpfe)」は、ソ連領土におけるドイツ軍初の大規模な「清算(掃討)作戦」でした。この作戦では数千人の民間人が犠牲となり、「バルバロッサ作戦」開始直後、ドイツ占領下のソ連地域にとどまらず、ユダヤ人絶滅を目的とした史上初の計画的作戦として歴史に刻まれています。作戦の首謀者と実行部隊この作戦の「首脳」だったのは、親衛隊(SS)全国指導者ハインリヒ・ヒムラーです。実行部隊には第2SS騎兵旅団が投入され、さらにそれまで殺戮とは無縁だった国防軍第162歩兵師団と第252歩兵師団の一部も参加し

  • 謎がついに解明…77年間行方不明だった米潜水艦、アリューシャン列島沖の深海で発見される

    太平洋の海底で眠っていた戦時中の潜水艦 1942年6月、米海軍の潜水艦「USSグリュオン(Grunion)」は、日本艦艇の哨戒任務のためアラスカ海域へと派遣されました。しかし同年7月30日、帰還命令を受けていた同艦は、乗員70名とともに突如として消息を絶ちます。そして77年後、調査チームはアリューシャン列島沖の海底火山の岩脈沿いで、失われたままだったこの米潜水艦の船体を発見したのです。 最先端技術が生んだ精緻な3Dモデル 調査チームは高度な画像解析技術を駆使し、水深900メートルの太平洋海底に沈む潜水艦の船体から、詳細な3Dモデルを作成することに成功しました。海洋探検家のティム・テイラー氏

  • 「ショック作戦」──イスラエル軍がエジプト奥深くに仕掛けた大胆な奇襲

    消耗戦争の背景第三次中東戦争(六日間戦争)の後も、イスラエルとアラブ諸国との衝突は「非公式」な形で続いた。特にエジプトとの間では、双方による攻撃や挑発、事件が1970年まで続き、この一連の戦闘は「消耗戦争」として知られるようになった。報復への決断1968年、エジプト軍の砲兵部隊がスエズのイスラエル軍陣地に激しい砲撃を行い、イスラエル兵25名が死亡した。これを受け、イスラエルはエジプトの重要インフラに対する強力な報復打撃を決意した。作戦の概要任務を担ったのは、イスラエル空挺旅団偵察中隊「サイェレット・ツァンハニム」である。目標は、ルクソールの北西約80km、エジプト奥深くに位置する都市ナグ・ハン

  • トレント作戦――英陸軍精鋭SASがアルカイーダの聖戦戦士に「教えた」4時間の死闘

    2001年10月中旬、米国で発生した9.11同時多発テロの余波が世界を覆う中、英国軍最精鋭としてその名を馳せるSAS(特殊空挺部隊)第22連隊のA中隊とG中隊は、アフガニスタンの大地に足を踏み入れていた。2001年11月、「トレント作戦」の実施が決定された。その目標は、カンダハール周辺地域、パキスタン国境から約20km離れた標高1,800mの山岳地帯に位置する、アルカイーダのアヘン製造施設の破壊である。施設には少なくとも80~100人のジハード戦士が配備され、戦闘陣地が構築されていた。情報機関が収集した情報によれば、彼らは重武装であり、何より狂信的な男たちだった。この施設は地域の司令部としての

  • 「死の試合」から77年――ナチス占領下のキエフでドイツ軍に挑んだウクライナ人選手たち

    歴史に名を刻む「死の試合」とは1942年8月9日、ナチス・ドイツ占領下のキエフで行われたサッカーの試合――後に「死の試合」と呼ばれることになるこの一戦から、今日でちょうど77年が経過しました。ウクライナ側のチームは、ディナモ・キエフ出身の8人とロコモティフ・キエフ出身の3人で構成されていました。彼らはドイツ占領下で強制労働を強いられていた選手たちであり、ドイツ兵チームと対戦することになったのです。この試合とその後の悲劇は、1990年代後半以降、歴史家たちによる研究の対象となってきました。ソ連のプロパガンダ説をめぐる論争この事件には、主にソ連がドイツ政権に対して仕掛けたプロパガンダ戦術にまつわる

  • ユトランド半島:ドイツ侵略軍に望みなく戦い抜いたデンマーク兵たちの記録(動画あり)

    1940年4月9日、ドイツがデンマークに侵攻した際、「デンマーク人は戦わずして降伏した」と非難されることが多い。しかし、それは事実ではない。同国の小規模な軍隊は、政府と状況が許す限り戦い続けたのだ。当時の左派政権は、ドイツを「挑発」することを恐れ、軍司令部からの懇願にもかかわらず、総動員令の発布を拒否し、既存の防衛計画に基づく軍の防御的展開も許さなかった。ドイツの圧倒的な優勢を考えれば、仮にそれらが行われても最終的な結末は変わらなかったかもしれない。だが、今日まで語り継がれてきた「無抵抗降伏」という神話を打ち消すことはできただろう。ブレデヴァッド(Bredevad)の戦い中央の「前線」にあたる

  • 170高地の攻防戦――英軍コマンドー部隊、ビルマで日本軍の退路を遮断

    1945年、連合軍はビルマ(現ミャンマー)で日本軍を着実に圧迫していた。イギリス軍首脳部はアラカン地方を占領し、ラングーン方面へ向かう日本軍の退路を断つことを画策。その目的のため、敵の背後に第3コマンドー旅団を上陸させる奇襲作戦が決定されたのである。作戦開始――コマンドー旅団に託された重要な役割1944年12月下旬、イギリス領インド帝国軍第15軍団が本格的な攻勢を開始した。軍団司令部は、キャンベル・ハーディ(Campbell Hardy)准将が指揮する第3コマンドー旅団(第1、第5、第42、第44コマンドー部隊)に極めて重要な任務を与えた。作戦計画では、まず先鋒として第5コマンドーを上陸させ、

  • 「黒い旅団」は3日間、10倍のドイツ軍と対峙した――ヨルダヌフの戦い(写真)

    1939年のポーランド侵攻は、しばしばドイツ軍による一方的な「軍事行進」として語られる。しかし、それは誤りだ。ポーランド軍が敗北した理由は複数あるが、彼らは最後まで、そしてしばしば英雄的に戦い抜いたのである。 その好例が、1939年9月1日から3日にかけて行われたヨルダヌフの戦いである。この戦いでドイツ第18軍団と対峙したのは、スタニスワフ・マチェク大佐率いるポーランド第10機械化騎兵旅団。通称「黒い旅団」として知られた精鋭部隊だった。 タトラ山脈を越えて迫るドイツ軍 ドイツ第18軍団は、スロバキア国境からポーランドへ侵入する第14軍の一部だった。ドイツ軍はタトラ山脈の峠を越え、クラクフ方面に

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