世界史

古代の歴史

  • トクヴィルのフランス革命批判――「神なき新宗教」という鋭い視点

    文:クラウディオ・フェルナンデス10年に及ぶ革命の激動1789年に始まったフランス革命は、その後10年間にわたりいくつもの局面を経て展開しました。革命にある種の「安定」がもたらされたのは、ナポレオン・ボナパルトがいわゆる「ブリュメール18日のクーデター」を断行し、統領政府(コンスラート)を樹立してからのことです。この統領政府は1804年まで続きました。同年、ナポレオンは国民投票によって自らをフランス皇帝へと即位させています。1789年から1799年までの間、フランスは政治的・社会的な激動の時代にありました。そこで巻き起こった革命的な波は、ヨーロッパ大陸のほぼ全域を覆いつくし、さらにはブラジルを

  • キューバミサイル危機とは?冷戦期、核戦争一歩手前まで迫った人類史上最大の緊張

    キューバミサイル危機は、冷戦時代の二つの超大国が核戦争の瀬戸際まで迫った、人類史上最も緊迫した瞬間の一つとして記憶されています。キューバミサイル危機とは何だったのか「ミサイル危機」として知られるこの出来事は、1962年10月16日から28日にかけて発生しました。きっかけとなったのは、ソ連製の中距離弾道ミサイルR-12ドヴィナ(NATOコードネーム:SS-4サンダル)およびR-14チュソワヤの発射基地が、キューバ領内に設置されていることが発見されたことです。なぜこの事件が冷戦最大の危機、そして人類史上最も緊張した瞬間の一つとなったのかを理解するには、「軍拡競争」という現象に触れる必要があります。

  • 1929年恐慌(世界恐慌)とは?原因と影響をわかりやすく解説

    1929年恐慌の概要1929年恐慌は、1920年代にアメリカで進められた信用の過剰拡大がもたらした結果です。その影響として、アメリカ国民の一部の間に失業と飢餓が広がり、社会全体に深刻な打撃を与えました。戦間期最大のテーマ「世界恐慌」第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、すなわち1919年から1939年までの時代を学ぶうえで、最も重要なテーマの一つが「アメリカ大恐慌」です。その最大の象徴は、1929年のニューヨーク証券取引所における株価大暴落であり、一般に「1929年恐慌」と呼ばれています。この金融危機は全世界へ波及し、数百万人もの人々を失業と絶望へと追い込みました。恐慌の主因:信用の過剰拡大19

  • ソラノ・ロペスの書簡が語るパラグアイ戦争の実像

    パラグアイを荒廃させた戦争の時期における、同国の政治指導者ソラノ・ロペスの書簡は、この歴史的出来事を理解するうえで非常に貴重な一次資料となっています。 パラグアイ戦争とは――南米史上最大の戦争 1864年から1870年にかけて続いたパラグアイ戦争は、19世紀最大級の戦争であり、南米史上最大の戦争でもあります。この戦争は、ソラノ・ロペスが統治するパラグアイと、ブラジル・ウルグアイ・アルゼンチンの3か国からなるいわゆる「三国同盟」との間で行われました。 長らく歴史学では、この戦争はイギリスの資金援助を受けたブラジルとアルゼンチンが主導し、南米におけるイギリスの経済的利益を脅かしたパラグアイに対して

  • コロネリスモとは?ブラジル旧共和国を支えた「コロネル」の権力構造

    コロネリスモ(Coronelismo)は、ブラジルの旧共和国時代に広く見られた政治慣行であり、オリガルヒア(寡頭支配層)を強化すると同時に、コロネル(大佐)たちの力を通じて国民を抑圧することを可能にしました。コロネリスモとは、20世紀初頭、いわゆる「旧共和国」(1889年〜1930年)と呼ばれる時代に典型的に見られた、ブラジル特有の社会政治的慣行です。この時代、「コロネル」と呼ばれる人々が地方の下層階級に対して権力を行使し、連邦・州・地方の各政治レベルからの見返り(便宜)と引き換えに票を確保していました。コロネリスモの起源コロネリスモの起源は19世紀、国家警備隊の発展にまで遡ることができます。

  • 1988年憲法(市民憲法)とは?ブラジル民主化の象徴となった基本法を解説

    1988年憲法は「市民憲法(Constituição Cidadã)」として知られ、軍事独裁政権の終焉後に設置された1987年制憲議会において起草されました。概要1988年憲法は軍事独裁政権の終焉後に制定され、ブラジルの市民および政治主体の権利と義務を定めています。独裁体制の崩壊後に生まれ、幅広い国民との議論を経て成立したことから「市民憲法」と呼ばれており、現在も有効な憲法です。1988年憲法は、1985年にタンクレド・ネーヴェスとジョゼ・サルネイが正副大統領に選出されたことに始まるブラジルの民主化プロセスの中で起草されました。多くの市民団体や数百万のブラジル人が関わった広範な民主的議論の産物

  • 1891年憲法とは?ブラジル共和制の礎となった憲章の全貌

    1891年憲法は、ブラジル史上、共和制時代における最初の憲法でした。この憲章の制定は、1889年11月15日に起きた共和制宣言によって政体が変化したことによるものであり、ブラジル史上2番目の憲法として数多くの重要な変更をもたらしました。この憲法を通じて、ブラジルにおける共和制が正式に承認されました。連邦主義体制が導入されて各州に大きな自治権が与えられ、4年ごとの選挙による大統領制が確立されました。さらに国家と教会の分離(政教分離)が実現し、男子普通選挙が導入されたものの、識字層に限定されるなど一定の制限が残されました。ブラジルにおける共和制1891年憲法は、ブラジルにおける共和制樹立の直接的な

  • 1824年憲法とは?ブラジル初の憲法の成立背景と特徴をわかりやすく解説

    1824年憲法は、ブラジル史上最初の憲法として知られています。この文書は、ブラジル独立直後の混乱期に作成されました。その策定過程は緊張に満ちており、皇帝ペドロ1世と制憲議会議員たちとの激しい対立によって特徴づけられています。ペドロ1世はやがて制憲議会と敵対するようになり、最終的に憲法を「賜与(グラント)」、つまり一方的に押しつける形で公布しました。1824年憲法はブラジルにおける君主制を確認するとともに、「調停権(モデラトール権)」と呼ばれる第四権を通じて、皇帝に極めて広範な権限を与えたのです。成立までの背景1824年憲法は、1822年9月7日のブラジル独立宣言後に、国を制度的に組織するために

  • ウィーン会議とは?ナポレオン失脚後に列強が描いたヨーロッパ新秩序

    ウィーン会議とは 1814年、ナポレオン・ボナパルトの失脚を受けて開催されたのが「ウィーン会議」です。フランス皇帝との戦争に勝利した列強諸国が集結し、ヨーロッパの新たな進路を再定義するために組織されました。 会議開催の背景 1814年、ナポレオン・ボナパルトが退位し、ナポレオン時代が幕を閉じると、フランス皇帝との戦争に関わった列強国は、オーストリアの首都ウィーンに集まりました。その目的は、以後のヨーロッパが進むべき方向性を定めることでした。この一連の協議こそが「ウィーン会議」です。 参加国と代表者 会議を主催したオーストリアに加え、フランス、プロシア(プロイセン)、ロシア、イギリスが参加しま

  • チェチェン紛争とは?ロシアとの対立と独立運動の歴史を解説

    コーカサス地域の複雑な歴史的背景東ヨーロッパに位置するコーカサス地方は、バルカン半島と並んで、中世以来、民族紛争や宗教紛争が頻発してきた地域として知られています。この地域にはゲルマン系、スラヴ系の人々やイスラム教徒、キリスト教徒が混在して暮らしており、第一次世界大戦の時期には、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国という三大帝国の利害が交錯する中心地となりました。その後、これらの帝国の崩壊、ソ連(ソビエト連邦)の成立、第二次世界大戦、冷戦、そして1991年のソ連崩壊といった激動の歴史が、この地域の政治的状況を根本的に変えていきました。ソ連崩壊後のチェチェン独立宣言と第一次紛争1

  • ミュンヘン会議とは?宥和政策とズデーテン危機の全貌を解説

    ミュンヘン会議は、1938年9月29日にドイツのミュンヘンで開催された国際会議です。ドイツ、イギリス、フランス、イタリアの4か国の首脳が集まり、チェコスロバキアのズデーテン地方をめぐる危機の解決策が協議されました。会議には、ドイツのアドルフ・ヒトラー、イギリスのネヴィル・チェンバレン首相、フランスのエドゥアール・ダラディエ首相、イギリスと並ぶ当事国としてイタリアの指導者ベニート・ムッソリーニが出席しました。注目すべきは、問題の当事者であるはずのチェコスロバキアの代表が一人も招かれなかったことです。この場で英仏両国の指導者が実践したのが、後に「宥和政策」と呼ばれる対応でした。新たな戦争の勃発を防

  • コニーアイランド――ニューヨークが育んだエンターテインメントの聖地

    文:ライナー・ソウザ大都市の発展は、資本主義的な活動が拡大する場であっただけではありません。都市の成長とともに、当時の無数の職人や労働者たちに日々の息抜きをもたらすアトラクションやショー、遊園地への需要も急速に高まっていきました。そうした時代の流れの中で、ニューヨークのコニーアイランド地区は、アメリカ屈指の人気を誇るエンターテインメントの中心地へと発展していったのです。新しい娯楽を生み出す「実験場」19世紀以来、ニューヨーク海岸線のこの一角は、斬新な娯楽を生み出す巨大な実験場となってきました。1884年頃には、史上初となるローラーコースターの試験がこの地で行われています。さらに1925年には、

  • パリ・コミューン1871年:史上初の労働者政権と「天への襲撃」

    著:タレス・ピント(Me. Tales Pinto)パリ・コミューンとは何かパリ・コミューンは、フランスおよび各国の労働者や民衆層が主導権を握った政権の実現であり、1871年3月18日から5月28日にかけてフランスの首都パリで展開されました。数多くの社会組織上の革新を伴い、人類史上初の「労働者の政府」として歴史に刻まれています。短い期間しか存在しなかったにもかかわらず、パリ・コミューンは労働運動の集合的記憶に深く刻まれました。その経験は、1917年のロシア革命、1918〜1919年のドイツ革命、1936〜1939年のスペイン内戦、1968年5月のフランス、そして1974〜1975年のポルトガル

  • アメリカ大統領はどのように選ばれるのか?間接選挙の仕組みを徹底解説

    はじめにアメリカ大統領がどのように選ばれるのか、ご存じでしょうか?日本やブラジルのような国民が直接投票する方式とは大きく異なり、アメリカの大統領選挙は間接選挙であり、州ごとの選挙区単位で進められる点が大きな特徴です。アメリカの政治体制アメリカ合衆国は、民主主義と共和制を基盤とした連邦制の国家です。つまり、50の州はそれぞれ政治的な自治権を持ちながら、中央政府である「連邦(ユニオン)」の統治下に置かれています。この体制は、イギリスからの独立を果たした13植民地の時代にその起源を持ちます。当時の各植民地は、社会や経済の面ですでに自律的に運営されており、イギリス王室にのみ従属していました。独立を達成

  • プレステス縦隊とは?旧共和国に挑んだブラジル史上最大の行軍

    文:クラウディオ・フェルナンデス(Me. Cláudio Fernandes)プレステス縦隊(コラナ・プレステス)とはプレステス縦隊(ポルトガル語:Coluna Prestes)は、1925年から1927年にかけてブラジルで展開された政治・軍事運動です。当時のブラジルは、大地主や地方有力者による寡頭支配が続く「旧共和国(ヴェーリャ・ヘプブリカ)」の時代であり、この縦隊はその政治体制そのものに異を唱えることを目指しました。「プレステス縦隊」という名称は、主要な指導者がリオグランデ・ド・スウル州出身の軍人ルイス・カルロス・プレステスであったことに由来します。この運動は、テネンチズモ(尉官運動)と呼

  • チェ・ゲバラの生涯:アルゼンチン生まれの革命家、その軌跡と最期

    チェ・ゲバラとはどんな人物かチェ・ゲバラ(Che Guevara)はアルゼンチンに生まれ、医師としての教育を受けた人物です。1959年にフルヘンシオ・バティスタの独裁政権を打倒したキューバ革命に積極的に参加した革命家として、世界中にその名を知られています。その後もコンゴやボリビアでの革命運動に身を投じましたが、いずれの場所でも成功を収めることはできませんでした。チェ・ゲバラは次第に革命家へと歩みを進めていきました。読書好きな青年時代にはマルクスやレーニンの著作を読みふけり、旅の中で目にしたボリビアやグアテマラの進歩的な動き、そして民衆の貧困の実態が、彼を革命闘争へと駆り立てることとなったのです

  • ブダペスト包囲戦――第二次世界大戦末期、ソ連軍がハンガリー首都を攻略した激闘の全貌

    ブダペスト包囲戦は、第二次世界大戦の最終段階において、ソ連軍がハンガリーの首都ブダペストを攻略するために行った戦いです。 ブダペスト包囲戦とは ブダペスト包囲戦は、1944年から1945年にかけての年明け頃に発生し、第二次世界大戦中にソ連軍がドイツ本国へ向かって進軍する過程で行われた大規模な戦闘の一つでした。この都市での戦いは、同時期に西欧で展開されていたもう一つの重要な戦いであるバルジの戦い(アルデンヌ攻勢)と並行して起こっており、歴史家たちは、数ヶ月後にベルリンで何が待ち受けていたのかを先取りして示す出来事だったと評価しています。 ブダペスト包囲戦当時の大戦の情勢 ソ連軍によるブダペスト

  • カウディリズモとは|ラテンアメリカ独立戦争後に台頭した権威主義的政治体制

    カウディリズモとは何かカウディリズモ(caudillismo)とは、ラテンアメリカ諸国の独立戦争後に広まった、強力な指導者「カウディージョ」を頂点とする権威主義的な政治形態です。19世紀初頭から20世紀初頭にかけて、新興独立国家の多くでこの政治様式が見られました。ブラジルの「コロネル」との違いブラジルでは、いわゆる「寡頭制共和国」の時代(1894年〜1930年)、権威主義的で家父長的な性格を持つ地方政治勢力として「コロネル(大佐)」と呼ばれる存在が有力でした。同様に、他のラテンアメリカ諸国でも同じ時期、「カウディージョ」と呼ばれる指導者が支配的な地位を占めていました。両者の相違は成立の文脈にあ

  • 「パンと仕事がほしい」――カタリーナ・ユーフェミアの死とサラザール独裁への抵抗

    1954年5月19日、ポルトガル南部アレンテージョ地方の小さな村バレイザンで、一人の農業労働者が命を落としました。その名はカタリーナ・ユーフェミア(Catarina Eufémia)。彼女の死は、アントニオ・サラザールのファシズム独裁政権下で搾取と弾圧に苦しめられていたポルトガルの労働者たち、とりわけ農村労働者の闘いを象徴する出来事となりました。カタリーナ・ユーフェミアとは誰か正式にはカタリーナ・エフィジェニア・サビノ・ユーフェミア(Catarina Efigénia Sabino Eufémia)といい、ポルトガルでは単に「カタリーナ・ユーフェミア」として広く知られています。1928年、ベー

  • カルテル・トラスト・ホールディングスとは?市場競争を排除する独占の形態を解説

    独占がもたらすもの――自由競争の排除と利益の最大化カルテル、トラスト、そしてホールディングス(持株会社)は、いずれも自由な市場競争を排除し、資本主義企業の利益を最大化することを目的とした企業結合の形態です。文:レアンドロ・カルヴァリョ(Leandro Carvalho)歴史的背景:19世紀末の資本集中19世紀末、イギリス、フランス、ドイツなどのヨーロッパ諸国では工業化が加速し、それに伴って資本の集中が急速に進みました。1880年から1896年にかけての「大恐慌」と呼ばれる時期を経て、企業や産業は資本を集中させ、大規模な独占体を形成していきました。つまり、激しい企業間競争の中で勝ち残った強力な企

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