世界史

古代の歴史

  • テレビの発明史――19世紀の構想からカラー放送・衛星中継まで

    文:Rainer Sousaテレビ誕生への道のりテレビという装置を作りたいという関心は、歴史的に見ると19世紀にすでに存在していました。当時、数学・物理学・化学の分野で発展した数々の重要な概念が、テレビ受像機の創造に使われる技術の基礎となりました。1840年代頃には、多くの科学者が長距離への画像伝送の可能性を研究していました。1842年には、アレクサンダー・ベインが画像を送信する電信の仕組みを実現しています。基礎技術の確立1873年、イギリスのウィロビー・スミスが、セレンが光エネルギーを電気エネルギーに変換できる化学物質であることを証明しました。この原理を応用すれば、テレビは画像を受信し送信す

  • アビ・ヴァールブルクの芸術史――象徴的形式に宿る過去の「生存」を読み解く

    芸術の歴史とは何か。ヴァールブルクにとってそれは、象徴的な形式の中に過去のイメージが生き残る姿を知覚するという課題でした。 文:クラウディオ・フェルナンデス(Me. Cláudio Fernandes) 人文学の中核をなす芸術史学 芸術史学は、人文学(人文科学)分野において最も重要な学問の一つです。芸術作品の意味を解釈し、理解することで、私たちは人間の存在そのものについて、より広く深い認識を得ることができます。19世紀から20世紀への転換期に大きな足跡を残した美術史家の一人が、ドイツのアビ・ヴァールブルクです。彼にとって美術史家とは、あらゆる芸術作品がその形式の中に「化石」として封じ込めた

  • ブラジルの奴隷制は1888年より前に廃止できたのか?幻に終わったジョゼ・ボニファシオの解放計画

    ブラジルの奴隷制は、1888年の「黄金法(レイ・アウレア)」より前に廃止されていた可能性はあったのでしょうか。答えは「はい」です。建国の父ジョゼ・ボニファシオ・デ・アンドラーダ・エ・シルヴァが起草した段階的奴隷制廃止案が実際に施行されていれば、ブラジルの歴史は大きく変わっていたかもしれません。遅すぎた廃止ブラジルがアメリカ大陸で最後に奴隷制を廃止した国であることは、何度指摘しても足りません。1888年5月13日に公布された黄金法(帝国法第3353号)は帝国による重要な一歩でしたが、その実現までに膨大な時間を要したうえ、解放された黒人を経済活動や社会生活へ受け入れるための新しい国家プロジェクトを

  • フランス革命期の経済:農業、飢饉、そして産業危機

    18世紀後半のフランスにおいて、経済活動の中心は農業でした。人口の約80%が農村部に住み、土地とともに暮らしながら農業に従事していました。重税がもたらした飢餓18世紀半ばには、人口の大部分が飢えに苦しんでいました。その最大の原因は、民衆を疲弊させた重い税負担です。貴族や聖職者といった特権身分が事実上免税されていた一方で、税の負担は第三身分である平民に集中しており、人々の生活を極度に圧迫していました。天候異変と供給危機こうした厳しい状況は、長引く干ばつや洪水によってさらに悪化しました。1780年代にはこのような異常気象が頻発したため、食料の供給危機がたびたび発生しました。穀物の不作はパン価格の高

  • 東欧民主化の波――ソ連の影響力が揺らぎ始めた1980年代の変革

    1980年代、ソ連と共産主義体制の下に置かれていた東欧諸国では、より良い生活水準の実現、ソ連による支配からの脱却、そして自由の拡大を求める声が次第に大きくなっていきました。ポーランドから始まった民主化の波この「波」に最初に乗ったのがポーランドです。1980年、労働者たちは政府の経済政策に抗議する大規模な運動を組織し、独立自主管理労働組合「連帯(ソリダルノシチ)」を結成しました。共産主義政権は民主化運動を弾圧しましたが、もはや時代の流れを止めることはできませんでした。カトリック教会からの圧力や、ソ連で進められていたペレストロイカ(改革)の影響を受けて、政権は徐々に体制を軟化させ、政治犯の解放へと

  • バルカン半島の危機——第一次世界大戦への序章

    バルカン半島危機の発端1908年、オーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナ両州を自国領へ併合したことをきっかけに、バルカン半島の危機は幕を開けました。この地域は、セルビアとロシアが長年にわたって狙っていた戦略的要衝でした。文:Lilian Aguiar列強の思惑とバルカン同盟の結成オーストリアによる併合に対し、ドイツは直ちにオーストリア支持を宣言しました。一方、日露戦争で受けた損失からまだ立ち直れていなかったロシアは、フランスとの同盟を軸に外交的な巻き返しを図り、セルビア、ブルガリア、ギリシャ、モンテネグロの各国を後押ししました。これらの国々は、マケドニアのスラブ人に対するオスマン帝国の虐殺への

  • ベトナム戦争とイラク戦争の比較――二つの戦争に見る米国介入の教訓

    イラク戦争が続くなか、ベトナム戦争との比較は避けて通れないテーマとなっています。その理由のひとつは、アメリカがベトナム戦争(1964年~1975年)に参戦した際の口実にあります。複数の専門家によれば、この口実は、イラクが大量破壊兵器を保有しているとするアメリカの主張とほぼ同じくらいいい加減なものだったといわれています。 トンキン湾事件――開戦の口実 ベトナムの場合、すべては1964年7月に始まりました。アメリカ海軍の駆逐艦「マドックス(USS Maddox)」と「C・ターナー・ジョイ(USS C. Turner Joy)」が、トンキン湾で哨戒任務中に北ベトナムの共産勢力から攻撃を受けたとさ

  • 南アフリカを分断したアパルトヘイト――人種隔離政策の歴史とその終焉

    豊かな資源が引き寄せたヨーロッパからの入植者金やダイヤモンドなど豊富な地下資源に恵まれた南アフリカは、イギリス人やオランダ人をはじめとする数多くのヨーロッパ人入植者の渡航先となりました。彼らの子孫たちは、「白人は他の人種より優れている」という根拠のない優越思想を背景に、20世紀に入ると人種差別政策——すなわち「アパルトヘイト(分離・隔離を意味する言葉)」——を作り上げていきました。1948年、アパルトヘイトの法制化1948年、南アフリカにおいてアパルトヘイトが正式な国家政策として確立されました。職場、学校、教会、スポーツ、公共交通機関など、生活のあらゆる場面で黒人を差別する法律が次々と制定され

  • 11月20日は黒人意識の日──ズンビとパルマーレスの抵抗、そして人種差別との闘い

    ブラジルでは毎年11月20日に「黒人意識の日(Dia da Consciência Negra)」という記念日が祝われます。この日は、17世紀にポルトガルによる支配に対してパルマーレスのキロンボ(逃亡奴隷共同体)の抵抗を率いたズンビ・ドス・パウマーレスの軌跡を偲ぶ日です。同時に、ブラジル社会に今も深く根付く人種差別の問題を想起し、その撲滅に立ち向かうための日でもあります。 なぜ11月20日なのか? 11月20日は、ブラジルの「国民的黒人意識の日」として定められています。この日は2011年11月10日に制定された法律第12.519号によって正式に確立され、パルマーレスのキロンボの指導者ズンビが1

  • ズンビ・ドス・パルマレス――ブラジル史に輝く抵抗の英雄の生涯

    ズンビ・ドス・パルマレス(Zumbi dos Palmares)は、ブラジルの歴史を語るうえで欠かせない偉大な人物の一人です。彼は、ブラジル史上最大かつ最も長く存続したキロンボ(逃亡奴隷たちが築いた共同体)である「キロンボ・ドス・パルマレス」の指導者の一人でした。ズンビは1678年にキロンボの指導権を引き継ぎ、約20年間にわたりポルトガル軍の攻撃に抵抗し続けました。1695年11月20日、隠れ家の場所が密告されたことにより、ズンビは殺害されました。今日、ズンビはブラジルにおける黒人とアフリカ人の奴隷制への闘争を象徴する偉大な存在の一つとされています。その記憶は現代においても、ブラジル社会に根強

  • ハンス・シュターデンのブラジル旅行記――トゥピナンバ族の捕虜となった9ヶ月

    ハンス・シュターデンとはどんな人物かハンス・シュターデン(Hans Staden)は、ドイツのホムベルク出身の傭兵砲手です。1547年から1549年にかけて二度ブラジルへ渡り、その体験を記録に残しました。とりわけ有名なのは、二度目の航海でトゥピナンバ族インディオの捕虜として9ヶ月間を過ごした経験です。この捕虜生活の中で、シュターデンは先住民の食人儀礼(カニバリズムの儀式)に関する貴重な証言を後世に残しました。富を求めてブラジルへ渡ったシュターデンは、帰国後の1557年に自らの体験を書物として出版します。この本は「ブラジルへの二つの旅」として広く知られていますが、原題はずっと長く、「新大陸アメリ

  • イタリア統一(リソルジメント)とは?19世紀イタリア国家形成の歴史をわかりやすく解説

    イタリア統一とは イタリア統一(イタリア語では「リソルジメント/Risorgimento」=復興・再生の意)とは、19世紀後半に現在のイタリアという国民国家が形成された一連の歴史的過程を指します。この運動は、サルデーニャ王国(ピエモンテ=サルデーニャ)の国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と、その首相となったカミッロ・カヴール伯爵によって主導されました。両者はサヴォイア家の掲げる王政による統一という路線を貫き、分裂していたイタリア半島をひとつの国家へとまとめ上げていきました。 19世紀のイタリア情勢 19世紀前半のイタリア半島は、統一国家として存在しておらず、多数の小国や王国が分立していま

  • イベリア連合とは?1580年~1640年、スペイン・ポルトガル同君連合の歴史とブラジルへの影響

    イベリア連合は、1580年から1640年にかけて続いた、スペイン王冠とポルトガル王冠の同君連合です。1580年、スペイン王フェリペ2世がポルトガル王として即位したことを契機に始まりました。イベリア連合とはイベリア連合は、ポルトガル史およびブラジル植民地史において1580年から1640年まで続いた時代であり、ポルトガル王冠とスペイン王冠の統合を特徴とします。これにより、ポルトガル帝国が有していた所領はスペイン帝国の支配下に置かれることになりました。イベリア連合がもたらした最大の帰結の一つが、オランダによるブラジル北東部への攻撃です。なぜイベリア連合は起こったのかイベリア連合の発端は、16世紀末に

  • マドリード条約(1750年)とは?ポルトガルとスペインの南米領土紛争を解決した歴史的な外交協定

    マドリード条約は、1750年にポルトガルとスペインが署名した外交協定であり、南アメリカにおける両国間の領土紛争の問題を扱ったものです。マドリード条約の概要マドリード条約は、1750年1月13日にポルトガルとスペインの間で調印された外交協定です。この条約は、イベリア連合(16世紀)の終焉以来、両国の間で続いてきた領土紛争を解決するために締結されました。この条約によりブラジルの領土拡張が公式に承認され、その人口増加も促されることとなりました。関連記事:大航海時代とヨーロッパの海外拡張アメリカ大陸におけるポルトガルとスペインの領土分割は、1494年のトルデシリャス条約に基づいていました。イベリア連合

  • 封建制から資本主義へ――14世紀に始まった経済体制の大転換

    封建制から資本主義へ――14世紀に始まった経済体制の大転換封建主義から資本主義への移行は、14世紀に始まった歴史現象であり、これまで多くの歴史家たちによって議論されてきたテーマです。文:クラウディオ・フェルナンデス「移行」という概念をめぐる論争いわゆる封建制から資本主義への移行(封建的経済体制から資本主義的経済体制への転換)は、中世後期、とりわけ14世紀から始まりました。しかし「移行」という表現には、漸進的で連続的な過程であるかのような含意があります。実際には、この時期には農村と中世都市の双方において、経済の前進と後退が複雑に交錯していたのです。封建経済から資本主義経済への「移行」あるいは「過

  • 恐怖の異端審問官トルケマダ ― スペイン異端審問に刻まれた「悪魔」の実像

    文:ライナー・ソウザカトリック教会が生んだ「異端審問」とは中世後期から近世にかけて、カトリック教会は自らの支配権を脅かす存在に対抗するため、「異端審問(インクイジション)」という装置を用いました。審問の手続きを通じて人々は逮捕され、尋問され、処罰され、極端な場合には火刑台で命を落としました。教会側から見れば、異端思想、ユダヤ教、魔術信仰などがヨーロッパのキリスト教世界を解体させないよう、迫害こそが不可欠な手段だったのです。「自白」を引き出すための拷問拷問は、自白を得るために必要な手段とみなされていました。尋問された者が罪を認めない理由として最も多用されたのが「悪魔に憑依されているから」という口

  • ピューリタン革命とは?イングランド市民戦争の背景と経過をわかりやすく解説

    ピューリタン革命(清教徒革命)は、17世紀のイングランドにおいて、国王と議会が激しく対立した市民戦争(1640年~1648年)の過程で起こった革命です。絶対王政への批判から始まり、最終的には国王の処刑と共和政の樹立という、当時としては画期的な結果をもたらしました。革命の背景:国王と議会の対立対立の発端は、議会が国王チャールズ1世に「権利の請願」を突きつけたことにあります。この請願では、課税・逮捕・裁判・軍隊の召集などは、すべて議会の承認なしには行えないと定められていました。チャールズ1世は一応これを受け入れたものの、実際には遵守しませんでした。議会が国王の態度を批判すると、国王は議会を解散し、

  • 産業革命とは?18世紀イギリス発の技術革新がもたらした社会変革を徹底解説

    18世紀に始まった産業革命は、産業の誕生と資本主義の確立を象徴する出来事であり、世界に大きな変革をもたらしました。産業革命は、18世紀後半にイギリスで機械の出現とともに始まりました。これにより工業が確立され、資本主義が本格的に定着することとなります。生産形態や労働関係は根本的に変化し、労働者たちは自らの労働力を酷使される厳しい状況に直面することになりました。産業革命のポイント蒸気機関を動力とする機械の出現により、産業革命が始まりました。政治・経済・社会の条件が整っていたイギリスが、この過程の先駆けとなりました。革命の始まりは18世紀後半とされています。この過程は労働者の生活に深刻な変化をもたら

  • 名誉革命とは?イングランド立憲君主制確立の転換点をわかりやすく解説

    名誉革命は、1688年にイングランド国王ジェームズ2世が退位へ追い込まれ、代わってオラニエ公ウィレム(ウィリアム)とメアリー・スチュアートが即位したことで、イングランドにおける立憲君主制の確立を決定づけた歴史的転換点です。清教徒革命――名誉革命の前提となった動乱名誉革命は、1640年から1688年にかけてイングランドで展開された一連の変革の延長線上にあり、歴史家たちはこれを「イギリス革命」の一部と位置づけています。この時代の幕開けとなったのが、清教徒革命、すなわちイングランド内戦でした。これは、ステュアート朝の国王とイングランド議会との間に蓄積した摩擦が引き起こした最初の重大事件でした。清教徒

  • フランス革命とは?歴史的背景から三大段階まで徹底解説

    1789年に勃発したフランス革命は、一部の歴史家によれば、いわゆる現代(同時代史)の幕開けを告げる出来事とされています。19世紀の歴史家たちは、この革命を近代と現代を分かつ画期的な転換点と位置づけました。その理由は、フランス革命が持っていた政治的急進主義の性格にあります。フランス革命を理解するためには、まず18世紀フランスの経済・社会状況について知ることが不可欠です。本記事では、革命の背景、原因、そして三大段階に分けて詳しく解説します。フランス革命の歴史的背景18世紀までのフランスは、絶対王政(君主専制)のモデルに従う国家でした。当時のフランス国王ルイ16世は国家そのものを体現し、立法権・行政

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