世界史

歴史上の人物

  • エドゥアール・モルティエ(アドルフ=エドゥアール=カシミール=ジョゼフ、1768–1835)― フランス元帥の生涯

    エドゥアール・モルティエ(Adolphe-Édouard-Casimir-Joseph Mortier、1768年–1835年)は、ナポレオン時代のフランスを代表する軍人の一人であり、第一帝政期にフランス元帥の称号を与えられた人物である。革命戦争からナポレオン戦争、そして七月王政期の政界まで、激動の時代を軍人・政治家として生き抜いたその生涯は、近代フランスの歴史そのものを映し出している。 革命戦争での台頭 モルティエは1768年に北フランスのカトー=カンブレジで商人の息子として生まれた。1791年、フランス革命の混乱の中で北部義勇軍により大尉(キャプテン)に選出され、ここから彼の軍歴が始ま

  • ジャン=ヴィクトル・モロー(1763 - 1813)| ホーエンリンデンの英雄、ナポレオンと対立した名将

    革命軍の志願兵から総司令官へジャン=ヴィクトル・モロー(Jean-Victor Moreau、1763年 - 1813年)は、フランス革命戦争からナポレオン戦争の時代にかけて活躍したフランスの将軍です。フランス革命が勃発すると国民衛兵の志願兵として軍歴をスタートさせ、ピシュグリュー将軍の指揮下でオランダ遠征に参加しました。その後、北方軍団(アルミー・デュ・ノール)の総司令官に就任し、革命軍を代表する指揮官の一人となっていきます。ブリュメール18日とホーエンリンデンの大勝利1799年11月9日(共和暦ブリュメール18日)のクーデターではナポレオン・ボナパルトを支援し、その信頼を得てライン軍団の指

  • モンセー元帥(ボン=アドリアン・ジャノ・ド・モンセー):15歳で入隊し、信念を貫いたナポレオン麾下の軍人(1754年〜1842年)

    モンセー元帥とはどのような人物かボン=アドリアン・ジャノ・ド・モンセー(1754年〜1842年)は、フランス革命から第一帝政にかけて活躍したフランスの軍人です。後に「コネリアーノ公」の称号と元帥の地位を授けられましたが、その生涯を特徴づけているのは、華々しい戦功よりもむしろ、強い信念と名誉を重んじる姿勢でした。15歳で軍隊に入り、革命の中で頭角を現すモンセーはわずか15歳でフランス陸軍に志願入隊しました。当初は順調な昇進とは言えない時期もありましたが、フランス革命が始まると、彼の才能は一気に開花します。革命戦争において次々と功績を挙げ、実力だけで階級を勝ち取っていったのです。特にピレネー方面で

  • スタール夫人の生涯(1766-1817):ナポレオンと対立したフランスを代表する女性文人

    スタール夫人(ジェルメーヌ・ド・スタール、1766年~1817年)は、18世紀末から19世紀初頭のフランスを代表する女性文人です。著名な銀行家ジャック・ネッケルの娘として生まれ、在パリのスウェーデン公使エリック・マグヌス・スタールと結婚したことから「スタール夫人」と呼ばれるようになりました。 名門ネッケル家に生まれて 父ジャック・ネッケルは、ルイ16世のもとで財務長官を務めたことで知られる金融家でした。裕福で知的な環境の中で育った夫人は、幼少の頃から類まれな才華を示し、両親が開いていたサロンに早くから加わりました。やがて彼女自身が主宰するサロンは、革命前夜から帝政期にかけてパリ屈指の文化の

  • ミラボー伯爵オノーレ・ガブリエル・リケティ(1749-1791)|フランス革命の雄弁家

    フランス革命初期を代表する政治家・演説家として知られるオノーレ・ガブリエル・リケティ、通称ミラボー伯爵。華々しい議会活動の一方で、その人生は投獄と逃亡、そして宮廷との密約に彩られた波乱に満ちたものだった。波乱に満ちた若年期ミラボーの青年時代は非常に荒れていた。父親との対立が絶えず、父は息子を何度も投獄処分にかけた。特に有名なのがヴァンセンヌ城への幽閉である。獄中でも彼は意気消沈することなく、愛人宛てに情熱的な手紙を書き続け、1776年にはついにその愛人とともに脱獄を成功させた。この逸話は、彼の大胆不敵な性格と類まれな弁舌の才能を物語るものとして語り継がれている。国民議会での台頭1789年、エク

  • ミシェル・ド・ロスピタル(1505年–1573年)|宗教戦争期に寛容を説いたフランスの大法官

    法学者から人文学者へ ミシェル・ド・ロスピタルは、弁護士としての訓練を積んだ、16世紀フランスを代表する人文主義者の一人です。法学と古典学に深い教養を持つ彼は、単なる官僚にとどまらず、思想面でも時代を先取りした人物でした。 摂政期の王国を支えた大法官 国王シャルル9世がまだ幼かった時期、彼は母后カトリーヌ・ド・メディシスとともに摂政政治を支え、大法官(国璽尚書)として王国の運営に大きな役割を果たしました。 ユグノーへの宥和政策 ロスピタル自身、密かにプロテスタントに傾いていたとも言われており、ユグノー(フランスのカルヴァン派)に対して寛容な政策を一貫して主張しました。フォンテーヌブローの勅令

  • フィリップ・アントワーヌ・メルラン ― 通称「ドゥエーのメルラン」(1754年〜1838年)

    三部会から国民公会へ ― 革命期を駆け抜けた法律家 三部会に選出された後、立法議会および国民公会の議員として活躍し、立法委員会では精力的な活動ぶりを見せました。数々の法案の起草に関わったことでも知られています。 テルミドール反動と総裁政府の設計者 彼はテルミドール反動の中心人物の一人であり、その後成立した総裁政府の体制づくりにも深く関与しました。自らも総裁職に就き、さらに長老院の議員として政治運営を支えました。 ナポレオンによる抜擢 ナポレオンは、優れた法学者としての彼の才能を高く評価していました。そのため、第一帝政のもとで破毀院検事総長、国務参事官に任じられ、さらには帝国伯爵にも列せられま

  • マラン・ド・ティオンヴィル(1762年-1833年):フランス革命期ジャコバン派の急進派政治家

    メスの弁護士から革命政治家へ マラン・ド・ティオンヴィル(本名:アントワーヌ・クリストフ・マラン、1762年-1833年)は、フランス革命期を代表する急進派政治家の一人である。故郷ティオンヴィルの名を冠して呼ばれるこの人物は、ロレーヌ地方の都市メスで弁護士として活動し、1791年の立法議会選挙で議員に選出されて政界へ足を踏み入れた。 ジャコバン派の最左翼として ジャコバン派に所属した彼は、議会内でも最左翼に位置する過激な姿勢で知られていた。1792年8月10日には王政打倒を目指す民衆蜂起が勃発するが、マランはその暴動民の指導者の一人として中心的な役割を果たし、君主制崩壊への道を切り開いた。

  • アンドレ・マッセナ(1758年〜1817年)— ナポレオンが認めた「勝利の寵児」

    孤児から軍人へ — 波乱に満ちた出発 アンドレ・マッセナは、幼くして孤児となり、船の乗組員(キャビンボーイ)として働きながら少年期を過ごしました。しかし、その才能はやがて軍隊で開花することになります。 トゥーロン包囲戦とイタリア遠征での頭角 マッセナが一躍名を上げたのは、1793年のトゥーロン包囲戦でした。この戦いで際立った活躍を見せた彼は、若きボナパルト(後のナポレオン)とともにイタリア遠征へと赴きます。ロディ橋の戦いでは、オーストリア軍の防衛線を強行突破し、フランス軍の進路を切り開きました。 イタリア戦役における数々の武勲は、ボナパルト自身から「勝利の寵児(lenfant chéri d

  • オーギュスト・ド・マルモン(1774年〜1852年):ナポレオンの側近から「パリの裏切り者」へ

    ボナパルトとの出会い オーギュスト・ド・マルモンは、1793年のトゥーロン攻囲戦において、ジュノーとともに若きボナパルトの二人目の副官を務めた人物である。この縁が彼の人生を大きく方向づけることになった。以降、エジプト遠征をはじめとする東方遠征やイタリア戦役でナポレオンに随行し、1799年のブリュメール18日のクーデターにも参加。皇帝誕生の立役者の一人となったのである。 栄光の時代 1800年のマレンゴの戦いでは頭角を現し、1809年のワグラムの戦いでは予備軍の指揮を担当するなど、着実に軍功を積み上げた。同年には帝国元帥に列せられる。その後、半島戦争ではポルトガル方面の指揮官として、宿敵ウェリ

  • ハプスブルク家のマリー・ルイーズ(1791年〜1847年)――ナポレオンに嫁いだ皇女の波乱の生涯

    マリー・ルイーズとは何者か マリー・ルイーズ(Marie Louise、1791年12月12日 – 1847年12月17日)は、神聖ローマ皇帝フランツ2世(のちのオーストリア皇帝フランツ1世)の長女としてウィーンに生まれた、ハプスブルク=ロートリンゲン家の大公女です。ヨーロッパ最古の名門ハプスブルク家に生まれた彼女は、1810年にナポレオン・ボナパルトと結婚し、フランス皇后となりました。 ナポレオンとの政略結婚 1809年、最初の妻ジョセフィーヌ・ド・ボアルネとの離婚により、後継者を必要としたナポレオンは、ヨーロッパ屈指の名門であるハプスブルク家との縁組を強く望みました。こうして1810年4

  • マリー・アントワネット(1755年〜1793年):断頭台に散ったオーストリア生まれのフランス王妃

    ウィーンで生まれた皇女 マリー・アントワネットは1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの娘として、ウィーンで生まれました。16人兄弟の末娘として育ち、幼少期から優雅な教育を受けて成長しました。 1770年、わずか14歳でフランス王位継承者ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)と政略結婚し、オーストリアとフランスの同盟を象徴する存在としてヴェルサイユ宮殿へ嫁ぎます。1774年、ルイ15世の死去により夫が即位すると、18歳にしてフランス王妃となりました。 国民の信頼を失った王妃 しかし、彼女の王妃としての評判は決して良いものではありませんでした。豪華な衣装や宝石、賭

  • フランスのマルグリット(1553年–1615年)— 「王妃マルゴ」と呼ばれた波乱の女王

    フランス国王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスの娘として生まれたマルグリット・ド・ヴァロワ(1553年–1615年)は、「マルゴ王妃」の名で広く知られる波乱に満ちた女性です。19歳のとき、ユグノー(プロテスタント)の指導者であったナバラ王アンリ(後のフランス国王アンリ4世)と結婚しました。実はこの結婚の前に、スペイン王フェリペ2世やギーズ公アンリとの縁談も交渉されていたと伝えられています。 政略結婚とサン・バルテルミの虐殺 この結婚は、カトリックとプロテスタントの和解を象徴するものとして大きな期待が寄せられました。しかし皮肉にも、婚礼の祝賀行事が行われていたわずか数日後の1572年8

  • フランソワ・セヴラン・マルソー=デグラヴィエ(1769-1796):フランス革命軍の若き名将

    フランス革命が生んだ若き名将フランソワ・セヴラン・マルソー=デグラヴィエ(François Séverin Marceau-Desgraviers、1769年-1796年)は、フランス革命戦争期に活躍したフランスの将軍です。シャルトル出身の彼は、わずか27歳でこの世を去りながらも、卓越した用兵術と人道的な精神によって、フランス史上最も敬愛される軍人の一人となりました。革命の始まりと国民衛兵への参加1789年7月14日、パリ民衆によるバスティーユ牢獄襲撃の報せが届くと、マルソーはただちに行動を起こしました。まもなくラファイエット侯爵の指揮下にある国民衛兵に加わり、ここから彼の軍人としてのキャリア

  • ジャン=ポール・マラー(1743–1793):フランス革命の過激派ジャーナリスト

    フランス革命の「人民の友」ジャン=ポール・マラー(Jean-Paul Marat、1743年5月24日 – 1793年7月13日)は、フランス革命期に最も過激な声として知られた医師・ジャーナリスト・政治家である。スイス・ヌーシャテル地方に生まれ、医学を修めた後、パリやロンドンで医師として活動した。一時期は王弟アルトワ伯爵の近衛隊付き医師を務め、旧体制側との縁もあったとされる。『人民の友』と扇動ジャーナリズム1789年の革命勃発後、マラーは自らの手で新聞『人民の友(LAmi du Peuple)』を創刊し、執筆から発行までほぼ一人で担った。孤独で猜疑心の強い人物だった彼は、しばしば地下に潜りなが

  • ギヨーム=クレティアン・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブ(1721年-1794年)

    マルゼルブとして知られるギヨーム=クレティアン・ド・ラモワニョンは、1721年12月6日にパリで生まれ、1794年4月22日に処刑された、フランスの司法官・政治家です。 啓蒙思想の保護者として 彼は間接税に関する訴訟を扱う王立裁判所「クール・デ・エード(助成法院)」の第一院長を務めるとともに、出版検閲を管轄する出版管理局長官にも就任しました。この職にあった彼は、ディドロやダランベールが編纂した『百科全書』の刊行を陰ながら擁護し、啓蒙思想の発展に大きく貢献しました。検閲官でありながら自由な言論を守ろうとしたその姿勢は、後世に高く評価されています。 政界での浮沈 1775年には国王家政部長官(大臣

  • エティエンヌ・ジャック・ジョゼフ・アレクサンドル・マクドナルド(1765-1840)――ナポレオン麾下の元帥

    エティエンヌ・ジャック・ジョゼフ・アレクサンドル・マクドナルド(Étienne Jacques Joseph Alexandre Macdonald、1765年-1840年)は、フランス革命戦争からナポレオン戦争、さらには王政復古期までを生き抜いたフランスの軍人です。スコットランド系ジャコバイト亡命者の息子として生まれ、やがてタラント公爵に叙せられ、ナポレオン麾下の元帥の一人となりました。その軍歴は、栄光と失脚、そして見事な復活を繰り返す波乱に満ちたものでした。 デュムーリエの副官としての出発 マクドナルドのキャリアは、革命戦争初期に将軍シャルル=フランソワ・デュムーリエの第一副官を務めたこ

  • サヴォワのルイーズ(1476年~1531年)――フランス王フランソワ1世を支えた母

    サヴォワのルイーズとはサヴォワのルイーズ(Louise de Savoie、1476年~1531年)は、サヴォワ公フィリッポ2世(「土地なし公」と呼ばれたフィリップ)とブルボン家出身のマルグリット・ド・ブルボンの間に生まれた娘です。後にフランス王となるフランソワ1世の母として、フランス史の転換期において重要な役割を果たした人物です。アングレーム伯シャルルとの結婚1490年、ルイーズはヴァロワ家の分家であるアングレーム伯シャルル・ド・ヴァロワと結婚しました。この結婚により、二人の子供が生まれました。一人は後にナバラ王妃となり文人としても名を残すマルグリット・ダングレーム、もう一人が後のフランス王

  • ルイ・フィリップ1世(1773年〜1850年)――七月革命で即位した「市民王」の激動の生涯

    ルイ・フィリップ1世とはどんな人物かルイ・フィリップ1世(Louis-Philippe Ier、1773年〜1850年)は、フランス七月王政の国王(在位:1830年〜1848年)です。「王権神授の君主」ではなく国民の代表として君臨する「フランス人の王(roi des Français)」を体現した最初の王であり、「市民王」「ブルジョワ王」という異名でも知られています。革命、亡命、即位、失脚と、波乱に満ちた一生を送った人物でした。ヴァルミーの戦いから亡命生活へルイ・フィリップは、フランス革命期に「フィリップ・エガリテ(平等公)」と名乗ったオルレアン公ルイ・フィリップ・ジョゼフの息子です。若くして

  • オルレアン公ルイ(1372年〜1407年):アルマニャック派とブルゴーニュ派の内戦を招いたフランス王弟

    オルレアン公ルイ(Louis Ier dOrléans、1372年 – 1407年)は、フランス国王シャルル5世の息子であり、のちに精神を病むことになる国王シャルル6世の弟として生まれました。兄の統治が困難になった時期には王国政治の中心人物となり、フランス史における激動の転換点に関わった人物です。 ブルゴーニュ公家との権力闘争 シャルル6世の病により王権が不安定化すると、ルイは叔父にあたるブルゴーニュ公フィリップ豪胆公(フィリップ・ル・アルディ)、そしてその死後は従兄のジャン無怖公(ジャン・サン・プール)と、王国の主導権をめぐって鋭く対立しました。ルイは宮廷内で影響力を拡大し続けましたが、

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