世界史

歴史物語

  • メディチ家時代のフィレンツェで行われた葬儀――市政が介入した市民の葬送習慣

    ルネサンス期のフィレンツェ。メディチ家が権勢を誇った時代、一般市民が亡くなると、その葬儀の運営にはシニョリーア(市政当局)自らが介入していました。華やかなルネサンス文化の陰で、葬送にも厳格な規律と倹約の精神が貫かれていたのです。葬儀に先立つ遺体の安置葬儀の前には、故人は簡素な藁の敷き布団の上に横たえられ、最後の別れを告げようと集まった人々の前で安置されました。故人が着せられたのは、光沢のある絹織物タフタを裏地にした白いガーゼ(薄手の木綿)の服で、頭には飾りのない帽子がかぶせられました。女性の場合は、指からすべての指輪を外すことが求められ、許されていたのはごく安価な指輪だけでした。蝋燭と松明の使

  • ルネサンス期フィレンツェの女子教育――メディチ家の時代にもたらされた静かな革命

    「ポライオウーロの女性たち」。メディチ家治下のフィレンツェでは、女性教育はかつてよりもはるかに柔軟なものとなりました。 ルネサンス期のフィレンツェ、とりわけメディチ家が隆盛を極めた時代には、文化と社会の再生という大きな波が女子教育の分野にも及びました。これは過去との決定的な断絶を意味するものであり、それまで女性の形成を縛り続けてきた陰鬱で過剰に厳しい規範は、ついに遠い記憶へと姿を変えたのです。 中世の女子教育――縫い物と家事がすべてだった時代 中世において、少女にとって大切なのは縫い物、糸紡ぎ、家事を学ぶことでした。これらは将来の花嫁であり母となるために欠かせない技能とされていたからです。読

  • ヴェルサイユ宮殿の奇妙な仕事 ― 王を喜ばせるために生まれた風変わりな職業

    使用人たちに囲まれたルイ14世。ヴェルサイユ宮殿では、人々を喜ばせるために特別に考案された奇妙な仕事が数多く行われていました。宮殿を支えた膨大な使用人と変わった役割ヴェルサイユ宮殿には、驚くほど多くの使用人と奇妙な仕事が存在していました。では、具体的にはどのような任務だったのでしょうか。ここでは、できるだけ多くの人を喜ばせるために特別に設けられた、風変わりな仕事のいくつかをご紹介します。王の居室を支える大勢の人々まずは王の居室から見ていきましょう。ここは現代の都市さながらのにぎわいを見せていました。第一侍従貴族が居室を担当し、第一従僕が部屋を管理。さらに40人の従僕と4人の時計師が常駐していま

  • ベルサイユ宮殿のトイレ:豪華絢爛なのに、ほとんど使われなかった理由

    18世紀の身の回りの衛生を描いたフランソワ・ブーシェの絵画。ヴェルサイユにはトイレがあったものの、実際にはほとんど使われていなかった華やかさの裏に隠された「想像を絶する汚れ」ヴェルサイユ宮殿といえば、豪華絢爛な装飾と優雅な宮廷生活を思い浮かべる人が多いでしょう。しかし、その華やかな外見の裏には、建物の環境もそこに暮らす人々も含めた想像を絶する汚れが隠されていました。当時の記録や研究によれば、宮殿内は悪臭に満ち、貴族たちの衛生状態も決して良好ではなかったのです。存在していたのは「芸術品のようなトイレ」とはいえ、トイレがなかったわけではありません。むしろヴェルサイユ宮殿にはトイレが数多く設置されて

  • ベルサイユ宮廷の「独創的な」ヘアスタイル――18世紀、貴婦人たちが美のために生んだ驚きの発明

    18世紀、美容師の前に座る一人の貴婦人。ヴェルサイユの淑女たちが競い合った豪華絢爛なヘアスタイルは、まさに歴史に残るものでした。 頭上にそびえる「建築物」のような髪型 ある時期のヴェルサイユ宮廷では、貴婦人たちの間で常識外れとも言えるヘアスタイルが大流行しました。その特徴は、一種の「足場(スキャフォールド)」となる骨組みの周りに髪を巻きつけ、頭部から何十センチも高い位置に髪を盛り上げるというものです。マリー・アントワネットが頭上に帆船を乗せたような髪型を披露した逸話はあまりにも有名で、これらのスタイルはもはや「髪型」というより、頭の上に築かれた小さな彫刻や建築物と言っても過言ではありません。

  • キュロットとは?18世紀フランス貴族のファッションと「サンキュロット」の歴史

    18世紀フランス男性ファッションの象徴、キュロット1700年代のフランス貴族が身につけていた服装の中でも特に印象的なのが、「キュロット(culottes)」です。フランス革命前夜の18世紀、上流階級の男性たちの間で広く着用されたこの衣服は、単なるボトムスではなく、身分と教養を示す重要なファッションアイテムでした。キュロットの特徴と着こなし方キュロットは、膝のすぐ上で一列に並んだ高価な装飾ボタンで留められる、洗練された半ズボンでした。その下に履くのは、艶やかで光沢のある絹製ストッキング。高級かつ高価な素材でありながら、キュロットとの組み合わせで完全に見せることを前提としたデザインでした。装いを完

  • アレッサンドロ6世ボルジアの肖像(無慈悲) – グイッチャルディーニ

    テレビシリーズ『ザ・ボルジア 家族の野望』でアレッサンドロ6世を演じるジェレミー・アイアンズ悪名高き教皇アレッサンドロ6世ボルジア教皇アレッサンドロ6世ボルジアをめぐっては、膨大な筆墨が注がれてきました。その大半は、彼の醜行や残虐行為を描き出すことに費やされています。しかし、この人物像をこれほど簡潔でありながら完全に描き切った者は、ほとんどいませんでした。それを成し遂げたのが、同時代を代表する作家にして歴史家のフランチェスコ・グイッチャルディーニです。グイッチャルディーニは、本名をロドリーゴ・ボルジアというこの教皇について、次のように評しました。「きわめて卑猥な習慣、恥知らず、信義なし、宗教心

  • ルイ14世の最期:王の足を救えなかった「香り付きワイン治療」とは

    映画『ルイ14世の死(原題:La Mort de Louis XIV)』の一場面。ベッドに横たわるルイ14世のもとを訪れる宮廷医師たち。痛風から始まった左足の壊疽晩年のルイ14世は、左足に発生した深刻な壊疽(えそ)に苦しめられていた。その原因となったのは、以前から患っていた痛風である。痛風は当時、赤身肉やジビエ(野生鳥獣の肉)をふんだんに口にする生活を送っていた上流階級の人々に多く見られた病気だった。香り付きワインに浸すという奇策君主の激痛を和らげるために考案された治療法は、現代の目から見るとかなり疑わしいものであった。それは、患部となった足を香り付けした熱々のワインが満たされた樽に浸すという

  • 決闘記――ハッピーエンドに終わった17世紀の紳士の戦い

    「決闘」と聞くと、名誉にかけて命を懸ける壮絶な一騎打ちを思い浮かべる人が多いでしょう。実際、16世紀から19世紀にかけてのヨーロッパでは、決闘によって多くの貴族が命を落としました。しかし中には、剣を交えた末に互いを認め合い、友好的に幕を引いた例もあります。今回は、そんな稀有な「ハッピーエンド」を迎えた決闘の記録をご紹介します。歴史雑誌が特集した「決闘」の世界イタリアの歴史雑誌『ストリカ(Storica)』69号(2014年11月号)には、決闘だけを掘り下げた興味深い特集記事が掲載されています。当サイトで以前ご紹介した、若き天才数学者エヴァリスト・ガロアが決闘で命を落とした顛末を扱った記事も、こ

  • ルネサンス期イタリアの食卓には何が並んでいた?15~16世紀の食文化を探る

    ルネサンス時代の宴会を描いた絵画には、果物や卵が彩りを添える「豊かな」食卓が描かれています。しかし、15世紀から16世紀のイタリアで、人々の日常の食卓に実際に何が運ばれていたのでしょうか。そして、当時最も人気のあった食材とは何だったのでしょうか。身分によって大きく異なった食生活ルネサンス期に限らず、どの時代においても共通して言えることですが、食生活を語るうえでは社会階級ごとの違いを区別して考えることが重要です。富裕層と貧しい人々の食事は、内容において大きく異なっていたからです。一般的に、最も裕福な階級の人々は主に狩りの獲物(ジビエ)や果物を好んで食べていました。一方、農民をはじめとする暮らし向

  • ルネサンス期イタリアが生んだ、世界初の「ブティック」の起源

    写真:現代のブティックの祖先となる「仕立て屋」の様子。イッソーニェ城(ヴァッレ・ダオスタ州)のフレスコ画より ルネサンス期、イタリアの「シルクロード」と呼ばれた都市たち ミラノ、フィレンツェ、ボローニャ、ジェノヴァ、そしてヴェネツィア。これらの都市は、ルネサンス全盛期において、イタリアにおける「シルクロード」として栄えました。街には大型の高級店が軒を連ね、そこでは貴重な織物——とりわけ最高級の絹織物——が、一般の裕福な市民や商人たちに販売されていました。 現代のブティックの祖先 こうした店舗こそが、今日私たちが知るブティックの祖先にあたります。客層は主に富裕層であり、彼らはたった一着の衣装の

  • ベルサイユに見る夜壺の進化~豪華な「小座席」から金銀の便器まで~

    絵付けがほどこされた磁器製のアンティーク夜壺(チャンバー・ポット)。一見すると美しい工芸品ですが、かつては日常生活に欠かせない実用品でした。 「小座席」――16〜17世紀の携帯トイレ おおよそ2世紀にあたる16世紀から17世紀にかけて、現在の水洗トイレと同じ役割を果たしていたのが「小座席(シャイズ・ペルセ)」と呼ばれるものでした。これは携帯用の小型木箱の内部に壺を組み込んだ構造で、いわば当時の簡易トイレです。 快適さを求めて座面にはクッションが敷かれ、さらに優雅さを演出するために上質な布地で覆われることもありました。この布地は等級によってさまざまで、特に贅沢な仕立てのものになると、装飾品と

  • ピエロ・デ・メディチはなぜ「痛風公」と呼ばれたのか?その生涯と功績

    「痛風公」ピエロ・デ・メディチとはピエロ・デ・メディチ(1416年~1469年)は、ジュリアーノ(1453年~1478年)と、後世に「豪華王(イル・マニフィコ)」の名で知られるロレンツォ(1449年~1492年)の父であり、フィレンツェで最も権勢を誇ったメディチ家の当主です。しかし彼は、歴史に「イル・ゴットーゾ(痛風公)」というあまり美しくないあだ名で記録されています。その理由は、彼の人生の大半を苦しめ続けた病気――痛風――にありました。当時のフィレンツェに蔓延した痛風痛風は、メディチ家というフィレンツェ屈指の名家の中で遺伝的に受け継がれていた病気でしたが、同時に当時非常に広く見られた疾患でも

  • レオナルド・ダ・ヴィンチの下ネタ笑い話:天才に秘められた奔放な一面

    モナ・リザと、その作者であるレオナルド・ダ・ヴィンチの顔。この芸術家にして科学者は、どうやら冗談――それもかなり際どい冗談――を好んでいたようだ。 天才が「下世話なジョーク」を言っていた? あの比類なき天才、レオナルド・ダ・ヴィンチが冗談を言い、しかもその内容がかなり下品だった――そんな姿を想像できるだろうか? 実は、ルネサンスを代表するこの芸術家兼科学者は、きわどいジョークを楽しむ趣味があり、人々を笑わせるのが得意だったようなのである。実際、彼の手稿には笑い話や寓話、風刺めいた予言が数多く書き留められており、宮廷においても機知に富んだ語り部として評判だったと伝えられている。 以下は、そんなレ

  • リンゴは本当にニュートンの頭に落ちたのか?万有引力発見の逸話の真相

    木から落ちたばかりのリンゴを見つめ、思索にふけるアイザック・ニュートン誰もが知る「リンゴの物語」学校に通い始めたばかりの子どもから大人まで、ほとんどすべての人が知っているのが「リンゴの逸話」である。枝から偶然落ちたリンゴが学者アイザック・ニュートンの頭に当たり、それがきっかけとなって万有引力の法則――科学史上まさに革命とも呼べる大発見――が生まれたという話だ。しかし、これは本当に史実なのだろうか。それとも、ここ数世紀にわたってほぼそのままの形で語り継がれてきた、人気の高い伝説にすぎないのだろうか。ニュートン自身が語った「真実の粒」結論から言えば、逸話の細部――リンゴが頭に直撃したという劇的な場

  • フランス革命期の「恐怖政治」――わずか1年で何人が処刑されたのか

    1794年7月27日、マクシミリアン・ロベスピエールと彼に最も近い協力者たちが処刑され、フランス革命史上最も暗い時代とされる「恐怖政治」についに幕が下ろされた。 恐怖政治とは何だったのか 「恐怖政治(ラ・テール)」とは、フランス革命において最も暗く、最も血なまぐさい時期を指す呼び名である。この時代は1793年7月に始まり、翌1794年7月27日、マクシミリアン・ロベスピエールの処刑とともに終焉を迎えた。同日に断頭台に送られたのは彼一人ではなく、ルイ・サン=ジュストやジョルジュ・クトンといった、最も親密な同志であり協力者たちも命を落としている。 期間にしてみればわずか1年足らずの出来事だが

  • 15世紀から受け継がれるザバイオーネ――ルネサンスの料理人が伝えるクリスマスの伝統レシピ

    これは1400年代の食卓を再現した一枚です。この記事では、マエストロ・マルティーノ・ダ・コモが書き残したレシピに基づく「ザバイオーネ」の作り方をご紹介します。クリスマスの休日に向けて、いまこそ15世紀のザバイオーネに挑戦してみてはいかがでしょうか。ルネサンスを代表する料理人の手稿からご紹介するレシピは、ルネサンス期イタリアを代表する料理人のひとりであるマエストロ・マルティーノ・ダ・コモの手稿によるものです。用意する材料は、卵黄、砂糖、シナモン、甘口ワイン。あとは料理史家でもあった彼の指示に従って進めるだけです。当時の原文とその現代訳まずは古文で書かれた原文をご覧ください。「良いザンバリオーネを

  • 15世紀の味を再現!ルネサンス料理「アーモンドミルクのライス」のレシピ

    華やかなルネサンス後期の宴席に登場した一品アーモンドミルクで炊き上げるライスのこのレシピは、1400年代にまでさかのぼる由緒あるものです。今回は、ルネサンスを代表する偉大な料理人マエストロ・マルティーノ・ダ・コモの著作から直接引用した、もう一つのレシピをご紹介します。このアーモンドミルクのライスは、当時、四旬節に代表されるような斎日(肉食を控える日)や、病後の回復期に主に食べられていた料理でした。15世紀当時、北イタリアにおいて米はまだかなり「新しい」穀物でした。アラブ人によってもたらされ、輸入されてからまだ間もない時代だったのです。それでは、原文のまま伝わるレシピを見ていきましょう。用意する

  • 「老コジモ」ことコジモ・デ・メディチには双子の兄弟がいたのか?

    ポントルモ筆による肖像画に描かれた、「老コジモ(イル・ヴェッキオ)」として知られるコジモ・デ・メディチ誕生をめぐる謎フィレンツェの事実上の支配者であり、「豪華王ロレンツォ」の祖父でもある「老コジモ」のコジモ・デ・メディチ。その誕生は、ある意味で謎に包まれています。理由は日付だけではありません。生まれた年は1389年でほぼ確実とされているものの、日にちについては、9月27日とする史料と4月10日とする史料が存在し、今なお定説を見ていません。さらに興味深いのは、誕生という出来事そのものです。一部の古文書によれば、コジモはなんと双子として生まれ、その兄弟にはダミアーノ(Damiano)という名前が付

  • 絵画に見る歴史 ― ルイ15世と最後の寵姫デュ・バリー夫人

    19世紀ハンガリーを代表する歴史画家ジュラ・ベンツール(Gyula Benczúr)によるこの絵画は、フランス王ルイ15世と、その最後の公妾(公式の愛人)となったデュ・バリー夫人の姿を描いている。放埒を極めたブルボン朝の王たちフランスの歴代国王の中で、真面目で禁欲的だったルイ16世を除けば、その多くは自由奔放で大胆な私生活で知られていた。なかでもルイ15世――恐怖政治の時代にギロチン台に送られた不運の孫王ルイ16世の祖父にあたるこの王――は、こうした「遊びの芸術」において群を抜く存在だったと言われている。数え切れない愛人たち王の寝床に入った愛人の数を正確に数えることは不可能だが、その多くは名前

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