世界史

アジアの歴史

  • 桜田門外の変と坂下門外の変――二度の要人襲撃が招いた幕府権威の失墜

    大老・井伊直弼は、朝廷の勅許を得ないまま通商条約(安政五カ国条約)に調印し、将軍継嗣問題においても強硬な手段で一橋慶喜擁立派を押さえ込みました。この独断的な政治手法は、御三家や外様大名を含む一橋派の反発を招いただけでなく、尊王攘夷派からの強い反対をも呼び起こすことになりました。反発の波が朝廷にまで及ぶことを懸念した直弼は、1858年(安政5年)から「安政の大獄」と呼ばれる大規模な弾圧に踏み切ります。この弾圧の対象となったのは、一橋派を支持した諸侯やその家臣にとどまりません。吉田松陰・梅田雲浜・頼三樹三郎ら尊王攘夷派の志士や学者たちも処刑され、多くの人々が連座しました。桜田門外の変――大老・井伊

  • テロの温床となった幕末の京都に、警察組織・新選組が誕生した

    幕末の京都は、尊王攘夷を掲げる過激派志士によるテロが横行する無法地帯と化していました。そんな乱世の中、治安維持を担う武装集団として現れ、後世に強烈な印象を残したのが新選組です。ここでは、新選組誕生に至るまでの時代背景をたどります。 安政の大獄後も燻り続けた過激な尊王攘夷運動 安政の大獄以降、とりわけ下級武士のあいだで過激化した議論は燻り続けていました。 1859年(安政6年)の日米修好通商条約調印により横浜・函館・長崎が開港されると、その翌月には水戸藩士が横浜でロシア人将校を襲撃。これを皮切りに、外国人への攻撃事件が各地で頻発するようになります。 尊王攘夷の潮流と公武合体 開港・開市に伴う物価

  • 島津久光による文久の改革と八月十八日の政変

    1862年(文久2年)、朝廷から勅使の役目を任された島津久光は、公武合体の推進を朝廷に働きかけました。その結果、久光は勅使として江戸へ赴き、幕府に対して幕政改革を求めます。 幕府はこの要求を受け入れ、改革に着手しました。この一連の幕政改革は「文久の改革」と呼ばれています。 島津久光による幕政改革【文久の改革】 勅使との約束に基づき、幕府は安政の大獄で処罰されていた松平慶永(春嶽)を政事総裁職に、徳川(一橋)慶喜を将軍後見職として起用し、幕政への復帰を実現しました。また、京都の治安維持のため新たに京都守護職を設置し、会津藩主の松平容保をその任に当てました。 さらに、参勤交代制度の緩和策を打ち出

  • 高杉晋作のクーデターと薩長同盟への転換――英仏の思惑が動かした幕末政局

    幕府保守派による弾圧を避けるため、高杉晋作はやむなく九州へと逃れていました。しかし、幕府の長州征討軍が撤退すると、すぐさま長州へ舞い戻ります。そして下関の功山寺において、戦わずして幕府に屈した保守派(俗論党)に反旗を翻し、藩の実権を取り戻すべく挙兵しました。これが歴史に名高い「功山寺挙兵」です。高杉晋作のクーデターと藩論の転換1863年(文久3年)、高杉晋作は、身分を問わず誰でも志願できる民兵組織「奇兵隊」を結成しました。隊士の3割以上が庶民で占められ、武士も農民も商人も対等な同志として集う、まさに義勇の集団でした。高杉の募集に呼応して駆けつけた仲間たちは、その後の戦いで大きな力を発揮すること

  • 犬猿の仲だった薩摩と長州が手を結んだ!坂本龍馬が仲介した「薩長同盟」の全貌

    幕末の八月十八日の政変以降、長州藩と薩摩藩は互いに犬猿の仲と呼ばれるほど険悪な関係でした。しかし皮肉なことに、両藩とも次第に公議政体論へと路線を転換させていきます。 当時の長州藩は、幕府から二度にわたる征討命令を受けて藩の存亡が危ぶまれる窮地にありました。一方の薩摩藩も、自ら推し進めた幕政改革が失敗に終わり、打開策を見出せずに苦悩していたのです。 さらに両藩は、それぞれ薩英戦争と四国艦隊下関砲撃事件という外国との戦争を経験し、攘夷の不可能性と日本の近代化の必要性を誰よりも痛感していました。だからこそ、かつてこれほど激しく対立した二つの雄藩が手を結んだことは、むしろ必然だったのかもしれません。

  • 大政奉還の裏にあった幕府と土佐藩の思惑

    第二次長州征伐の敗北と将軍家茂の死去1866年(慶応2年)、第二次長州征伐において幕府軍は長州藩に相次いで敗北を重ねました。その最中、14代将軍・徳川家茂が戦陣の中で病に倒れ、帰らぬ人となります。敗色濃厚となった幕府は、長州藩との停戦を決断せざるを得ませんでした。この敗戦により、幕府は大きな権威を失うことになります。15代将軍・徳川慶喜の登場同年12月、徳川慶喜が15代将軍に就任します。フランスからの援助(※)を受けながら、政治・軍事の両面で改革を推進し、幕府の再建に乗り出しました。ところが同じ頃、孝明天皇が突然崩御します。暗殺説もささやかれていますが、公武合体派の柱であった孝明天皇の死は、岩

  • 長州再征の失敗と民衆反乱――幕府滅亡を加速させた世直し一揆と「ええじゃないか」

    幕末の江戸幕府を動揺させたのは、尊王攘夷運動や諸藩の動きだけではありません。全国各地で発生した民衆運動「世直し一揆」も大きな要因でした。こうした反乱の発生は、民衆による徳川幕府への不信の表明そのものであり、結果として幕府滅亡への触媒となったのです。「世直し」とは何か日本史における「世直し」とは、江戸時代中期以降に見られる、貧困からの救済と平等な社会の実現を求める民衆の変革意識を指します。不正な支配や収奪を行う為政者に対して、一揆や打ちこわしなどの騒乱として結びつけて理解される概念です。1866年(慶応2年)に一揆が多発した理由討幕派の勢いが増すなか、1866年は一揆の発生が最も多かった年となり

  • 王政復古の大号令とは?公議政体派と討幕派の攻防が導いた倒幕への道

    大政奉還によって政権を朝廷へ返上した徳川慶喜は、表向きは政権を手放したものの、実権は依然として自分の手元にあると考えていました。当時の朝廷には自ら政治を運営する能力はない――そう踏んだ慶喜は、大政奉還後も旧幕府側が主導権を握り続けられると目論んでいたのです。薩摩・長州両藩による武装討幕の動きに対しても、主導権を奪い返す好機を窺っていました。王政復古の大号令しかし、慶喜の読みは外れることになります。実は大政奉還とほぼ同じ頃、朝廷から薩摩・長州両藩に対して討幕の密勅が下されていました。この動きを受けた討幕派の公卿・岩倉具視らは、慶喜が再び政権を掌握することを徹底的に防ぐため、明治天皇がみずから権力

  • 戊辰戦争とは?鳥羽伏見の戦いから箱館戦争まで――新政府が国政を確立するまで

    鳥羽伏見の戦い――戊辰戦争の幕開け1868年(慶応4年)1月3日、京都郊外の鳥羽・伏見において、薩摩藩・長州藩の兵を中核とする新政府軍と旧幕府軍が衝突しました。これが「鳥羽伏見の戦い」です。兵力では旧幕府軍が優勢でしたが、指揮系統の混乱により次第に劣勢に陥ります。翌日には朝廷から錦旗が下賜され、新政府軍は官軍として正式に承認されました。さらに土佐藩も新政府軍に加わり、形勢は決定的となります。江戸城無血開城一方、「朝敵」となった旧幕府軍は内部から崩壊していきます。1月6日夜、徳川慶喜は自らの軍を捨てて大坂城を脱出し、海路江戸へ退却。戦う目的を失った旧幕府軍はここで解散しました。その後、新政府軍は

  • 封建制から中央集権国家へ――明治新政府の誕生

    1867年(慶応3年)12月、王政復古の大号令が発せられ、明治新政府が誕生しました。成立当初の新政府は、土佐・越前・尾張など公議政体派の雄藩を中心とする連立政権でした。しかし、戊辰戦争で武力討幕派である薩長同盟が勝利すると、政局の主導権は薩長の手に移ることになります。以後、廃藩置県が断行されるまで、新政府は薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前)を中心とする連合政権として運営されていきました。明治新政府の誕生こうして発足した新政府は、旧幕府勢力の抵抗を武力で鎮圧しながら、天皇を中心とした強力な求心力を持つ統一国家を築き、欧米列強に追いつくことを目標に掲げていました。反対勢力への対応がひと段落すると、

  • 封建的身分制度の廃止と四民平等――明治政府の軍事改革への道

    封建的身分制度の廃止と四民平等 明治政府は中央集権的な近代国家の建設を進めると同時に、封建的身分制度の廃止も推し進めました。 1869年(明治2年)の版籍奉還後、封建的な主従関係を断ち切るため、公家と大名を一律に「華族」とし、武士は「士族」と「卒族」の二つの身分に区分しました。 さらに、江戸時代に農・工・商として身分を固定されていた人々は「平民」とされ、苗字の使用、居住地や職業の自由な選択、華族・士族との結婚が認められるようになりました。 しかし、この四民平等はあくまで建前であり、現実には華族・士族と平民との間には大きな格差が残り、官職の多くは士族によって占められていました。 戸籍の作成と「

  • 明治政府が主導した産業の近代化と殖産興業の全体像

    明治政府は富国強兵を掲げ、欧米列強に肩を並べることを目標としていました。そのため、政府自らが先頭に立って国内産業の育成・発展を促す政策を積極的に推進しました。 日本史において、この一連の政策は殖産興業(しょくさんこうぎょう)と呼ばれています。 官営事業による殖産興業の推進 殖産興業を進めるため、政府は諸外国に範を求めた新技術の導入と、国内産業の保護・奨励を徹底的に行いました。1870年(明治3年)には、殖産興業推進政策の中核となる組織として工部省が設置されました。工部省は、旧幕府から引き継いだ鉱山・製鉄所・造船所などを官営事業として運営しています。 特に富国強兵を目指す政府は、軍事産業を最優

  • 大江戸八百八町は、実はほんの一時期だけの呼び名だった!?

    江戸時代、将軍が暮らす日本の首都であった江戸は、人口100万人を擁する世界最大級の都市だったと語り継がれています。しかし実際のところ、当時の江戸の正確な人口データは残されておらず、その実態には謎が多く残されています。江戸の人口構成江戸の人口は、武士・町人・寺社関係者の3つに大別されます。このうち、町人と寺社関係者については、第8代将軍・徳川吉宗の時代から6年ごとの人口調査が行われるようになったため、統計が残っています。記録によれば、江戸の人口はおよそ50万人程度だったとされています。では、100万人と言われる人口の残りの半分はどこにいたのでしょうか。答えは、調査の対象外だった武士です。とはいえ

  • 古代日本はなぜ都移転を繰り返したのか?──「遷宮」と「遷都」の違いから読み解く

    7世紀末に藤原京が造られる以前の古代日本では、大王(天皇)の代替わりのたびに宮が新たな場所へ移される「遷宮」が行われていました。よく似た言葉に「遷都」がありますが、「宮」と「都」には一体どのような違いがあるのでしょうか。 「宮」と「都」──遷宮と遷都の違い 「宮」は建物を意味する「屋(や)」に敬意を表す接頭語「み」が付いた言葉で、古代日本においては「立派な建物」を指しました。一方、「都」は「ここ」「あそこ」といった場所を表す言葉です。つまり「みやこ」とは「立派な建物のある場所」という意味になります。 このことから、遷宮とは立派な建物そのものを移すことであり、遷都とは立派な建物のある場所(土地)

  • 戦国時代のとある技術が大塩平八郎の乱を引き起こしたのか?

    「戦争は技術を発展させる」とよく言われます。インターネットやデジタルカメラ、携帯保存食、電子レンジから航空産業に至るまで、さらには鉛筆にまで及ぶ、戦争が技術革新の契機となった例は数多くあります。 日本も例外ではありません。戦国時代に培われた技術が形を変えて江戸時代に普及し、結果として幕府の財政を圧迫することになったのです。今回は、戦国時代に培われた技術に焦点を当て、それが江戸時代にどのように変化していったのかを見ていきましょう。 江戸時代初期に普及した戦国の技術とは? 戦国時代、各大名は軍資金や武器の原料を確保するため、鉱山開発に力を注いでいました。この鉱山開発技術を転用したことで、治水や灌漑

  • 日本が銃社会にならなかったのは豊臣秀吉の刀狩りのおかげ!?歴史から紐解く日本の治安の秘密

    日本が好きな外国人に「日本の良いところは何?」と聞くと、最も多く返ってくる答えが「治安の良さ」です。私たち日本人にとっては当たり前すぎて実感こそ薄いものの、そもそも日本はなぜこれほど安全な国になったのでしょうか。その答えの一つは、戦国時代から続く「武器規制の歴史」に隠されていると言われています。日本とアメリカ、対照的な銃規制現在の日本の治安は、戦国三英傑の一人である豊臣秀吉が行った刀狩りのおかげだ、と語られることがあります。戦国時代における刀は、現代でいうところの銃のような存在でした。しかし日本では、ごく限られた人しか銃を所持・使用できず、世界でも類を見ないほど厳しく規制されています。一方アメ

  • 本能寺の変直後、各大名はどう動いた?毛利・上杉・北条の対応を解説

    1582年6月、明智光秀が起こした本能寺の変により織田信長が討たれると、同年、中国大返しで急遽帰還した羽柴秀吉が山崎の戦いで光秀を撃破します。その後、賤ヶ岳の戦いにおいて織田家筆頭家老の柴田勝家をも破り、秀吉が織田政権の後継者の座を確立するまでには、およそ1年を要しました。 その間、毛利輝元や上杉景勝といった有力大名たちは、どのような行動を取っていたのでしょうか。 主君を失った織田家に付け入る好機と捉え、失地回復を図ったのか。それとも、もはやその力すら残っていなかったのか。 本記事では、本能寺の変直後の日本列島を、各大名家の情勢とあわせて解説していきます。 本能寺の変直後の各大名家の情勢 織

  • 石田三成の旗「第一大万大吉」に込められた意味とは?

    石田三成の旗といえば、「第一大万大吉」という文字が記されたものが有名です。旗といえば武田信玄の「風林火山」があまりにも有名で、その意味を知っている方も多いのではないでしょうか。では、石田三成の旗「第一大万大吉」には、一体どのような意味が込められていたのでしょうか。石田三成の旗の由来実は「第一大万大吉」は三成自身の発案ではなく、1184年(元暦元年)に木曽義仲を討ち取った武将・石田為久が用いた旗だと言われています。石田為久は、源頼朝の命を受け、源義経とともに上洛し、京で暴れ回っていた木曽義仲を討ったことで知られる武将です。その際に使用したのが「第一大万大吉」の旗だったと伝えられています。三成と同

  • 不利とされた日清戦争・日露戦争――なぜ日本は勝つことができたのか?

    明治維新後20年以上にわたり富国強兵を掲げ、急速な国際化を進めていた日本にとって、近隣諸国との良好な関係の構築は喫緊の課題でした。 しかし当時の日本を取り巻く環境は、決して楽なものではありませんでした。政治的に不安定な朝鮮半島、日本と利権を争う列強各国、そして北の広大な国土を持つロシア帝国が、相次いで領土拡大への動きを見せていたからです。 その結果、日本は近代国家として歩み始めてから40年足らずの間に、二つの近代戦争を経験することになります。 それが「日清戦争」と「日露戦争」です。 日本史において必ず登場するこの二つの戦争は、蒸気機関で航行する軍艦や速射砲が戦場の主役となったという点で、世界の

  • 日本の首都が東京ではなく「広島」だった時代があった?大本営移転の意外な歴史

    日清戦争は、朝鮮に対して宗主国を自称する清と、その宗主権を認めず清を朝鮮半島から排除しようとした日本との対立が主な発端となった戦争です。 開戦前、主戦場は朝鮮半島とその周辺海域になると、誰もが予想していました。日本にとって初めての本格的な対外戦争であり、取り巻く環境は決して楽なものではありませんでした。 大本営が広島に置かれた理由 明治20年代の日本は、交通インフラが十分に整備されておらず、人員や物資を全国規模で輸送することが困難な時代でした。こうした状況の中、日清戦争の開戦を受けて政府が真っ先に着手したのが、指揮命令系統の構築と前線への補給路の確保です。 その第一歩として設けられたのが、陸軍

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