世界史

ヨーロッパの歴史

  • イングランド建国の祖!アルフレッド大王の知られざる偉業

    世界史上最大の版図を誇った国はどこか、ご存じだろうか?正解は「大英帝国」である。かつて大英帝国の共通語だった英語は、日本では義務教育で学ばれ、議会制度についても英国式を採用してきた。それほどイギリスは、現代世界に計り知れない影響を残した国なのだ。ところが不思議なことに、中世以前のイギリス史は学校の歴史教育ではほとんど扱われない。日本の世界史の教科書でイギリス史が本格的に登場するのは、1066年のノルマン・コンクエスト(ノルマンディー公ウィリアムによるイングランド征服)からである。そこで今回は、その前時代にイングランドの礎を築いた「アルフレッド大王」の活躍を紹介したい。アングロサクソン七王国の時

  • イングランド初代国王アゼルスタンは、日本でももっと評価されるべき偉人だった

    イギリスの正式名称は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)」という、ずいぶん長いものです。そのため日本では正式名称がそのまま使われることはほとんどなく、英語の略称に倣って「UK」と表記されることも多いのです。これは、アメリカを「USA」と略すのと同じ感覚ですね。また、イギリスはサッカーの代表チームが4地域に分かれていることからも分かるように、複数の国が集まってできた「国家の連合体」です。日本人には少し理解しにくいかもしれませんが、いくつもの細胞が集まって一つの人体が構成され

  • 北海帝国の王クヌート大王 ― イングランド・デーン王朝の創始者

    アルフレッド大王が基礎を築き、アゼルスタンがイングランド王国を樹立し、エドガー王が全土を統一しました。ところがその後継者たちは不運に見舞われます。王位をめぐる混乱の中でエドワード王子が暗殺されると、弟のエゼルレッド2世が王位を継ぐことになりました。しかし彼には、後に付けられた「無策王(Unræd/良き助言を得られぬ者)」というあだ名がよく似合いました。賢人会議(ウィタン)の意見を軽視し、判断力に欠けた治世を重ねるうちに有力貴族との対立が深まり、各地で諸侯が台頭する事態となっていきます。そんな隙を突いて、デーン人(デンマーク勢)が再びイングランドへ侵攻します。エゼルレッド2世はこれに対抗するため

  • ウェストミンスター寺院を建てた聖王!エドワード懺悔王の波乱の生涯

    デーン朝の断絶とエドワードの即位デーン朝の祖クヌート大王が死去すると、イングランドでは王位継承問題が持ち上がりました。クヌートの子ハーザクヌートは一時イングランド王位に就きますが、わずか2年ほどで早世。こうしてデーン朝は三代で断絶することになりました。その後を継いだのが、後に「懺悔王」と呼ばれることになるエドワードです。エドワードはエゼルレッド2世の息子で、兄が一人いましたが、その兄はイングランド最大の実力者・ウェセックス伯ゴドウィンによって暗殺されたと言われています。ゴドウィンの野心は相当なものでした。ゴドウィンは娘のイーディスをエドワードに嫁がせ、日本で言うところの「外戚」として、イングラ

  • イギリス「ノルマン王朝」の歴史総まとめ!征服王ウィリアムからヘンリー2世誕生まで

    日本に鎌倉時代や室町時代といった時代区分があるように、イギリスの歴史にもいくつもの時代区分が存在します。今回は、1066年から1154年まで続いたイングランドの「ノルマン王朝」の歴史を、できるだけわかりやすくまとめてご紹介します。ノルマン・コンクエスト(ノルマン征服)ノルマン王朝の始まりは、ノルマンディー公ギヨームがイングランド王の座に就いたことから始まります。それ以前のブリテン島は、現在のデンマーク人であるデーン人が築いたデーン朝が支配していましたが、創設者クヌート大王の死後わずか7年で断絶してしまいます。その結果、前の王家であるウェセックス家の末裔・証聖王エドワードが、実権を握るウェセック

  • ヨーロッパ最大の帝国を築き、最愛の息子に裏切られた王――プランタジネット朝の創設者ヘンリー2世の壮絶な生涯

    1066年のノルマン・コンクエスト(ノルマン征服)によって始まったノルマン朝は、ヘンリー2世の即位によって幕を閉じ、新たに「プランタジネット朝」という王朝が誕生しました。今回は、その時代の転換点を作り上げたヘンリー2世の生涯を振り返ってみましょう。アンジュー帝国の誕生ヘンリー2世が即位する前のイングランドでは、約20年間にわたり、ヘンリー1世の娘マティルダ(皇后マティルダ)と、元ブローニュ伯のイングランド王スティーブンの間で王位継承戦争(史称「無政府時代」)が繰り広げられていました。争いは激化の一途をたどりましたが、最終的に「スティーブンは生涯イングランド王として在位し、その後継者にはマティル

  • リチャード獅子心王とは?イングランド王リチャード1世の壮絶な生涯

    かつてSMAPが歌った大ヒット曲「Lion Heart」を思い浮かべる方も多いかもしれません。実はこの「ライオンハート(獅子心王)」とは、中世イングランドの国王リチャード1世の異名です。イギリス歴代国王の中でもトップクラスの武勇を誇り、「獅子心王」と呼ばれたプランタジネット朝第2代国王リチャード1世。その波乱に満ちた生涯を、父ヘンリー2世との確執、第三次十字軍、そして弟ジョンの裏切りまで含めて詳しく見ていきましょう。プランタジネット朝第2代国王として誕生リチャード1世は、プランタジネット朝の始祖であるヘンリー2世と、その妃アリエノールの間に生まれました。夫妻の間には8人もの子供がおり、リチャー

  • ナポレオンの敗北!ネルソン提督が活躍したトラファルガー海戦をわかりやすく解説

    世界史に輝く二人の英雄――ナポレオンとネルソン世界史には数多くの英雄が登場します。フランス革命後に稲妻のごとく現れ、ヨーロッパを席巻したナポレオン・ボナパルトは、世界史上屈指の英雄と言えるでしょう。そしてもう一人。英国海軍のホレーショ・ネルソン提督もまた、世界史に名を刻む英雄です。最強対最強。天才と天才の戦いは、古代ローマにおけるハンニバルとスキピオの対決以来、人々を魅了してやみません。19世紀初頭、ナポレオンとネルソンという二人の天才が、ついに海上で激突することになります。実はこれが二度目の対決ナポレオンとネルソンの対決は、これが初めてではありませんでした。最初の対決は1798年、ナポレオン

  • 【カリブの海賊】ヘンリー・モーガンとは?私掠船長からナイト爵・ジャマイカ副総督へ転じた波乱の生涯

    「バッカニーア(Buccaneer)」と呼ばれる海賊たちがいました。日本では「カリブの海賊」として知られる彼らは、16世紀後半から17世紀にかけて、イギリス政府の公認のもとスペイン船を襲撃した海賊です。「私掠船(プリヴェティア)」とも呼ばれ、国家が発行する私掠免許を持つ、いわば公式に認められた海賊でした。その中で最も有名なのが、17世紀のカリブ海を席巻したヘンリー・モーガンです。カリブの海賊ヘンリー・モーガン1635年、イギリスのウェールズに生まれたモーガンは、若くしてカリブ海のバルバドス島へ渡り、5年間のプランテーションでの年季奉公を経て、ジャマイカ島へ移り海賊になりました。その後しばらくの

  • 『宝島』『黄金虫』『ワンピース』のモデルとなった海賊船長ウィリアム・キッドの生涯

    スティーヴンソンの『宝島』やエドガー・アラン・ポーの『黄金虫』など、海賊が隠した財宝をモチーフにした物語は数多く存在します。その元祖といえるのが「キャプテン・キッドの財宝伝説」です。本記事では、私掠船長から海賊へ転落し、処刑されながらも後世に絶大な影響を残したウィリアム・キッドの生涯をたどります。 時代に翻弄された男、キャプテン・キッド ウィリアム・キッド、通称キャプテン・キッドは、1640年代にスコットランドの港町で生まれました。 イギリスというと一つの国家のように見えますが、実際には複数の地域からなる連合王国であり、イングランドとスコットランドは長いあいだ対立してきました。 特に宗教問題

  • 私掠船(プライベーター)~『ONE PIECE』王下七武海のモデルとなり、大英帝国の発展を支えた国家公認の海賊~

    世界史の中でもイギリス史が特にユニークな存在となっているのは、16世紀から18世紀初頭にかけて存在した「私掠船(プライベーター)」の存在だろう。国家が海賊を保護する仕組み海賊の存在は、世界史に大きな影響を与えてきた。日本や中国では「倭寇」が大きな問題となり、ローマ帝国の後継者とも言えるヴェネツィアやジェノヴァの歴史においても、地中海貿易で海賊に悩まされた時代がある。近年ではアデン湾海域での海賊被害が国際的な問題となり、アメリカ合衆国の歴史の初期には「バーバリ戦争」と呼ばれる海賊との戦争まで起きている。その意味で、世界史には「海賊に苦しむ国」と「海賊を巧みに利用した国」が存在すると言えるだろう。

  • エリザベス1世 ~グロリアーナと呼ばれたチューダー朝最後の妖精女王~

    エリザベス1世は、イングランドの歴史のみならず、世界史においても極めて重要な役割を果たした君主である。 現在、世界で10億人以上が英語を話し、学術・医学・インターネットにおいて事実上の公用語として機能しているが、エリザベス1世の存在がなければ、その座はスペイン語に譲られていたかもしれない。 生き残った継承者 1533年、ヘンリー8世の娘として誕生したエリザベス。わずか2年後、母アン・ブーリンは父王の命によって処刑された。 中世ヨーロッパにおいて、王の結婚問題は国家を動かす一大事であった。一夫多妻を前提とする中国や日本とは異なり、キリスト教的価値観に基づく一夫一婦制のヨーロッパでは、離婚が教皇

  • スペイン無敵艦隊の滅亡 ~1588年アルマダ海戦、世界の歴史を変えた英西の決戦~

    世界の歴史を変えたと呼べる戦いは、確かに存在します。1588年にイングランドとスペインの間で行われた「アルマダ海戦」もそのひとつです。 16世紀、地中海と大西洋の覇者・スペイン 16世紀前半、最強を誇ったオスマン帝国はプレヴェザの海戦で、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合軍を打ち破りました。しかし世紀後半の1571年、今度はスペインがレパントの海戦でオスマン海軍に勝利することに成功します。 こうしてスペイン艦隊は「無敵艦隊(Armada Invencible)」と称されるようになり、大西洋と地中海の覇者として交易の利権を独占し、世界各地の富をスペインにもたらす存在となったのです。 ア

  • 海賊から国民的英雄へ――フランシス・ドレークの波乱に満ちた生涯

    海賊が英雄になる――歴史が残した奇妙な物語海賊が国民的英雄として讃えられる――一見すると不思議な話ですが、世界史には実際にそのような例が存在します。その代表格が、プレヴェザの海戦でオスマン帝国海軍を率いて勝利を掴んだバルバロス・ハイレッディン、そしてアルマダ海戦で副司令官としてイングランド艦隊を支えたフランシス・ドレークです。二人は今もなお、国家の英雄として語り継がれる伝説的な存在となっています。大海賊フランシス・ドレークの誕生ドレークは1543年頃、イングランド南部の農家に生まれました。父は当初農夫でしたが、後に牧師へと転身。兄弟は12人と多く、長男であるドレークは早くから家計を支える立場に

  • 時代に翻弄されたスコットランド女王メアリー・ステュアートの波乱の生涯

    イングランド最後のチューダー朝君主であるエリザベス1世が死去すると、イングランドの王位はステュアート家へと受け継がれ、ここにステュアート朝が誕生しました。初代国王はジェームズ1世ですが、その母こそ、エリザベス1世によって処刑されたスコットランド女王メアリー・ステュアートです。スコットランドの女王イギリス史を語るとき、私たちは往々にして「イングランド」と「スコットランド」が別々の王国だったことを忘れがちです。あるいは、そもそも知らない方も少なくないかもしれません。古代ローマ時代、皇帝ハドリアヌスがブリテン島に「ハドリアヌスの長城」を築いて以来、島は南のイングランドと北のスコットランドに分かれてき

  • ジェームズ1世――スチュアート朝初代国王の生涯と治世

    はじめに:テューダー朝の終焉とスチュアート朝の始まりエリザベス1世は生涯結婚せず、子孫を残さないままこの世を去りました。これによりテューダー朝はここに断絶し、同王朝の始祖ヘンリー7世の血を引くスコットランド王ジェームズ6世が、イングランド王ジェームズ1世として新たに即位することになりました。今日では「イギリス」という一国として捉えられがちなイングランドとスコットランドですが、両者が本格的に結びついたのは17世紀前半のことであり、当時はまだ別々の国家でした。そのため、この時代について「イングランド」と呼ぶのは正確ではなく、「イングランド・スコットランド同君連合(パーソナル・ユニオン)」と表現する

  • 三国戦争を引き起こし、断頭台に散った英国王チャールズ1世の生涯

    世界史の授業で取り上げられる出来事は数あれど、イギリス史からはごくわずかな出来事しか登場しません。その数少ない例外のひとつが、チャールズ1世の時代に起きた「ピューリタン革命」です。今回は、ピューリタン革命の渦中で処刑されたチャールズ1世の生涯を振り返ってみましょう。父とは正反対だった少年時代チャールズ1世は1600年、ステュアート朝イングランド初代国王ジェームズ1世の子として生まれました。兄がおり、本来なら王太子は兄のほうでしたが、1612年に兄が疱瘡(天然痘)で亡くなったため、チャールズが次期国王に確定します。父の期待に応え続けた優秀な兄に対してコンプレックスを抱いていたらしく、それも含めて

  • イングランド王チャールズ2世――「怠惰な王」の異名を持つ復古の君主

    三王国戦争(清教徒革命を含むイングランド内戦)が終結すると、一度断絶したイングランドの王政は復活することになりました。 復位したのは、処刑された国王チャールズ1世と、フランス王ルイ13世の妹アンリエッタ・マリアとの間に生まれた王子チャールズ。即位後は「チャールズ2世」を名乗ることになります。 王政復古とブレダ宣言 1660年、フランスへ亡命していたチャールズ2世は、帰国・即位すると同時に「ブレダ宣言」を発布しました。その内容は以下の通りです。 革命に関与した者への大赦 宗教の自由の承認 革命中に所有者が移動した土地の所有権の承認 軍への未払い給与の支払い こうしてイングランドでは、清教徒

  • 英雄か、独裁者か──ピューリタン革命の指導者オリバー・クロムウェル

    世界史には評価が揺れ動く人物が数多く存在するが、ピューリタン革命(清教徒革命)の中心人物となったオリバー・クロムウェルほど、その評価が真っ二つに割れる人物も珍しいだろう。 名門ジェントリ階級の出身 オリバー・クロムウェルは1599年、イングランドのジェントリ(郷紳)階級の家庭に生まれた。当時のイギリスは依然として厳格な身分制社会であり、貴族とそれ以外の間には大きな格差があった。ジェントリは貴族ではなかったものの、地主として権力と富を蓄え、その政治的発言力は日増しに強まっていた。 生来のピューリタン(清教徒)であったクロムウェルはケンブリッジ大学で学び、1628年に庶民院(下院)議員となる。こ

  • 名誉革命で退位したイングランド王ジェームズ2世――その評判と功績を徹底検証

    ピューリタン革命の結果、王政復古が実現し、イギリスはステュアート家を王家として再出発することになりました。王位に就いたチャールズ2世は「怠け王」と呼ばれましたが、議会との衝突を極力避け、巧みに議会と付き合うことで安定した統治を実現していました。そして1685年、チャールズ2世が死去。歴史は再び大きく動き始めます。ジェームズ2世の即位ジェームズ2世は1633年、チャールズ1世と、フランス国王ルイ13世の妹であるアンリエッタ・マリアとの間に生まれました。幼少期にピューリタン革命が勃発すると、ジェームズは女装してオランダへ脱出します。一方、国内に残った父チャールズ1世はクロムウェルによって処刑されま

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