世界史

アジアの歴史

  • 江戸の失業対策 ~牢人問題と由比正雪の乱~

    「江戸の文治政治」の記事の冒頭で武士の失業に触れましたが、今回はそのテーマをもう少し掘り下げてみたいと思います。 武断政治から文治政治への転換 徳川家康が江戸幕府を開き、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼすと、徳川家に敵対した大名は次々と討伐されていきました。その結果、滅亡した大名自身だけでなく、その家臣たちも職を失うことになります。 ただし江戸時代初期にはまだ「下剋上の気風」が残っていたため、「この男はあの合戦で大いに活躍した!」という名声さえあれば、採用する側から声がかかるのが普通でした。そのため、武士の失業はそれほど表面化していませんでした。 さらに言えば、武功を挙げた武将を家臣として迎える

  • 松平頼広(まつだいらよりひろ)―藩産業の振興に功を奏した名君

    江戸時代の政治体制は幕藩体制で、中央の幕府による集権支配と、各藩による地方自治が組み合わされたものでした。当時の藩の自治には、現在のような補助金や地方交付税といった制度がなく、藩に必要な経費はすべて自藩の特産品の振興によって賄わなければなりませんでした。そのため「名君」と呼ばれた藩主とは、単に人徳が優れているだけでなく、藩を豊かにした藩主のことを指します。讃岐高松藩9代藩主の名君・松平頼広江戸時代の260年間には、「名君」と称される藩主が数多く登場しました。その中でも今回は、讃岐高松藩9代藩主・松平頼広(まつだいらよりひろ)のエピソードをご紹介します。頼広が高松藩主に就任した頃、藩の財政は天災

  • 第一次世界大戦の戦争景気と米騒動――日本にもたらされた繁栄と混乱

    明治時代以来、日本は輸入超過の貿易赤字国であり、日露戦争後には国家財政が危機的な状況に陥っていた。しかしその後、第一次世界大戦の勃発がこの状況を一変させることになる。 輸出急増による国際収支の改善 第一次世界大戦では、ヨーロッパ列強が経済力を軍事に集中させた。その一方で、直接戦火を免れた日本とアメリカは、ヨーロッパ諸国への物資供給側として大きな役割を担うことになった。 また、それまで列強各国が覇権を競い合っていた中国市場は、列強の手が離れたことで逆に日本がほぼ独占できる状態となり、海外市場の確保が一気に進んだ。 この時期、日本の工業はすでに大きく発展しており、あらゆる分野で生産が増加し

  • 征韓論の高まりと明治日本の海外進出

    明治初期の日本を取り巻く世界情勢は、列強諸国が植民地獲得にしのぎを削る帝国主義の時代へと突入していた。 こうした国際環境の中で、明治政府は西洋列強と同じように、アジア諸国に対しても強圧的な対外政策を実施していくことになる。 南北の国境線の確定 政府は、主権国家として国際的に認められるためには国境の確定が不可欠であるとして、その整備を急いだ。 まず取り組まれたのが、琉球王国の日本領土化である。廃藩置県後の1872年(明治5年)、琉球藩が設置された。 琉球王国はもともと東南アジア方面との交易で発展してきた交易国家であった。江戸時代を通じて、表向きは清朝の冊封(さくほう)を受ける属国でありながら、実

  • 岩倉使節団による世界一周~明治日本の近代化を決めた約2年の旅~

    1871年(明治4年)、岩倉具視を正使とする使節団が結成されました。使節団には大久保利通・木戸孝允・伊藤博文ら明治政府の中心人物が名を連ね、使節46名・随員18名・留学生43名、総勢107名という大所帯でした。薩摩・長州など有力藩の実力者が大使・副使に任じられ、国際情勢に精通した旧幕臣たちも随行しています。平均年齢は30歳前後と、非常に若い顔ぶれが揃った使節団だったことも特徴です。岩倉使節団結成の背景と目的成立したばかりの明治政府が、政府要人をこれほど大規模に海外へ送り出したのには、次の3つの目的がありました。西洋文化・制度の調査条約を締結している各国を歴訪し、元首に国書を奉呈する幕末に諸外国

  • 明治政府を二分した「征韓論争」とは?西郷隆盛が下野した理由を解説

    1873年(明治6年)、外務省は朝鮮問題に関する建議案を提出しました。その内容は、朝鮮側の「無礼」を武力によって正すべきだというものです。 この建議案が発端となり、新政府は真っ二つに割れることになります。これが「征韓論争」の始まりです。征韓論争は朝鮮の無礼が発端だったとされますが、そもそもその「無礼」とはどのようなものだったのでしょうか。 征韓論と明治六年の政変 日本と朝鮮の関係は、1811年(文化8年)以来、断絶状態にありました。そのため、1868年(明治元年)に新政府が成立すると、対馬藩の宗氏を通じて朝鮮に条約締結を働きかけます。しかし、清を宗主国と仰ぐ朝鮮はこれを拒否しました。 さらに日

  • 日本最後の内戦「西南戦争」と西郷隆盛――士族の反乱はなぜ起きたのか

    明治政府の成立後、政府は近代化政策を積極的に推し進めました。その結果、旧武士階級が持っていた特権は次々と剥奪されていきます。また、戊辰戦争で新政府軍に加わった武士の中にも、自らの主張が新政府の政策に反映されなかったことへの不満を抱く者たちがいました。征韓論政変と士族の不満1873年(明治6年)、朝鮮出兵をめぐる征韓論争に敗れた西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎ら征韓派の参議たちは、そろって下野しました。西郷隆盛に続いて、陸軍少将・桐野利秋ら陸海軍の将校たちも一斉に鹿児島へ戻ります。これにより、士族の不満を背景とした新政府への反対運動が各地で高まっていくことになりました。佐賀の乱武力衝突の

  • 豪農を巻き込んだ国民運動「自由民権運動」の始まりと広がり

    1874年(明治7年)1月、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らは、政府に対して建白書を提出しました。ここから、日本初の本格的な国民的政治運動である自由民権運動が幕を開けます。 「民撰議院設立建白書」と運動の出発点 提出されたのは「民撰議院設立建白書」です。この建白書は、政府官僚が思いのままに政治を行う有司専制を厳しく批判し、公議政体の確立、すなわち民選議院の設立を求める内容でした。建白書が新聞に掲載されると世間に大きな反響を呼び、これこそが自由民権運動の発端となります。 建白書を契機として、自由民権や国会開設を求める気運が全国で高まっていきました。1874年4月には板垣退助が郷里の土佐で立志社を

  • 全国へ拡大した国会開設運動――明治14年の政変と政党の結成

    武士階級の権利を求めて始まった自由民権運動は、一時的に沈静化したものの、国会(議会)開設を求める運動として再び熱を帯び、地主や都市の商工業者といった地方の有力者たちまで巻き込みながら、全国規模へと拡大していきました。政府内紛が引き金となった明治14年の政変政治結社である愛国社は、1880年(明治13年)に国会期成同盟へと改称し、片岡健吉や河野広中らを代表として国会開設の請願書を提出し、議会の即時開設を求めました。しかし政府はこれを拒否し、自由民権運動への弾圧に乗り出します。それでも政府による弾圧にもかかわらず、運動は全国へと波及し、国会の設立を求める建白書が全国各地から元老院へ提出されるほどの

  • 松方財政の始まりとインフレ解消を目指した近代日本資本主義の確立

    明治初期、政府は農民の一揆や士族の反乱、自由民権運動など相次ぐ動乱への対応に追われ、早くも財政問題に直面していました。1873年に公布された地租改正により、政府は全国での徴税権を掌握し、安定した地租収入を確保します。さらに新しい貨幣制度を整備し、各地に国立銀行を設立して兌換券を発行、殖産興業のための資金調達を進めていきました。ところが1876年の国立銀行条例改正で正貨兌換の義務が廃止されると、不換紙幣が大量に発行され、経済は混乱に陥ってしまいます。インフレ解消を目指した松方財政この混乱に拍車をかけたのが、1877年に勃発した西南戦争です。政府は士族反乱史上最大の内戦を鎮圧するため、不換紙幣を増

  • 大日本帝国憲法と帝国議会の設置──明治憲政のはじまり

    国会開設の勅諭と憲法調査の開始 1881年(明治14年)、政府は国会開設の勅諭を発布し、それと同時に憲法制定の準備を進めることになりました。 この動きの背景には明治14年の政変があります。翌1882年には、政府は伊藤博文らをヨーロッパへ派遣し、各国の憲法運営の実情を調査させました。 伊藤博文は、ドイツの憲法学者グナイストから、君主的性格の強いドイツ(プロイセン)型憲法について学び、帰国後は憲法制定と議会開設に向けた準備を本格化させました。 ドイツを手本とした立憲君主制への準備 1884年(明治17年)には華族令が発せられ、貴族院の基盤が整えられました。続く翌年には太政官制が廃止され、内閣制度が

  • 40年越しの外交的挑戦――不平等条約改正への道

    幕末に江戸幕府が西洋諸国と結んだ不平等条約。そこには領事裁判権(治外法権)が認められ、日本は関税を自国で決められない状態に置かれていました。領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復は、富国強兵を掲げて近代国家を目指す明治政府にとって、最重要の外交課題となったのです。 不平等条約改正に向けた交渉の始まり 条約改正を求める動きは早くも始まっていました。1871年に出発した岩倉具視率いる岩倉使節団は、その一環としてアメリカで条約改正交渉を行いましたが、各国の同意を得られず、交渉はまったく進展しないまま失敗に終わっています。 本格的な交渉が始まるのは1876年、寺島宗則外務卿の時代です。寺島は関税自主権の回

  • 朝鮮をめぐって日本と清朝が衝突した日清戦争――開戦の経緯と勝利の背景

    日本は日清修好条規の締結によって清朝と対等な関係を築くとともに、鎖国を続けていた朝鮮の開国を実現させ、大陸進出への足がかりを獲得しました。以降、朝鮮半島は日本と清朝が覇権を争う舞台となり、二つの武装クーデターを経て、ついに日清戦争へと至ることになります。朝鮮半島で起きた二つの武装クーデター壬午軍乱(壬午事変)日本政府は1880年、漢城(現在のソウル)に公使館を設置し、貿易の拡大を図りました。当時の朝鮮では、閔妃を中心とする閔氏政権が実権を握っていました。日本は内政改革を志向する閔氏政権を支援しますが、清朝を宗主国と仰ぎ、近代化に反対する大院君ら守旧派の勢力が依然として強かったのです。それでも閔

  • 三国干渉とは?日清戦争後に起きた列強の圧力と中国分割をわかりやすく解説

    日清戦争の勝利と下関条約1895年、日清戦争に勝利した日本は、清朝との間で下関条約(講和条約)を締結しました。下関条約のおもな内容は以下の通りです。清朝が朝鮮を完全に独立した国家であることを承認する遼東半島および台湾・澎湖諸島を日本へ割譲する日本に対して賠償金2億テール(約3億1,000万円)を支払うさらに、沙市・重慶・蘇州・杭州の4つの新たな開港場を設けることも定められました。この条約によって日本は、朝鮮半島への影響力を確保するとともに、中国大陸進出の足がかりとして遼東半島を手に入れました。また、多額の賠償金は軍備拡張や資本主義発展のための財源として活用されることになります。三国干渉と「臥薪

  • ロシアの南下政策と日本の対立――日露戦争への道

    日本はロシアの南下政策に備えて軍備拡張を進めると同時に、中国(清)や朝鮮への侵略を推し進めることで、列強諸国と並ぶ帝国主義国家の形成を目指していきました。日清戦争後の三国干渉を経て、政府は対ロシア戦争を見据えた戦後経営計画を策定し、その中心に軍備拡張を据えました。陸海軍の拡充と官営軍事工場の拡張が積極的に推進されたのです。これらの計画に伴い国家予算は年々増加し、軍事費は国家予算の50%を超える水準に達しました。その財源となったのは、日清戦争で獲得した賠償金、増税、そして内外国債でした。朝鮮をめぐる日露の対立ロシアとの対立は、まず朝鮮において表面化しました。下関条約により、清が朝鮮を独立国として

  • 現在の47都道府県は実は再編途中だった?幻の「28道府県」計画の全貌

    日本は明治時代以来、47都道府県に分かれてきました。この区分は、明治初期に行われた廃藩置県によって生まれたものです。 廃藩置県は、新政府が権力を中央集権化するために、大久保利通らによって強力に推し進められました。 明治期の府県統合の推移 廃藩置県直後、全国には3府302県という膨大な数の府県がありましたが、第一次府県統合により、1871年(明治4年)までに3府72県へと大幅に整理されました。 ところが、この3府72県も、わずか5年足らずでさらなる統廃合の対象となります。 第二次府県統合は1876年(明治9年)に実施されました。 その結果、3府72県から3府35県へと再編され、多くの県が姿を消し

  • アンガウル島の戦いとは?「不死身の兵長」船坂弘ゆかりの地で起きた太平洋戦争の激戦

    今回は、「不死身の兵長」として知られる船坂弘氏をご紹介する予定でした。 しかし、船坂氏の部隊が配置されていた場所について、「なぜ戦いが起こったのか」「どのような戦いだったのか」を先に理解しておいたほうが、その生涯の物語がより深く伝わるのではないかと考えました。 そこで今回は、「アンガウル島の戦い」について詳しく見ていきます。 アンガウル島の戦いは、太平洋戦争中に発生した戦いの一つです。1944年(昭和19年)9月17日から10月19日にかけて、パラオ諸島を構成するアンガウル島において、日本軍とアメリカ軍との間で繰り広げられました。 アンガウル島の戦いが起こった背景 日本の「絶対国防圏」構想

  • 世界を驚かせた小国・日本の日露戦争勝利

    当時の日本は、朝鮮半島と満洲をめぐってロシアとの緊張が高まっていたものの、1903年からは日露間で交渉が続けられていました。交渉の中で国内では対露開戦論が強まり、近衛篤麿が対露同志会を組織して対露強硬外交を主張する一方、内村鑑三や幸徳秋水・堺利彦らが反戦論を唱えるなど、世論は大きく対立していました。しかし、日清戦争での勝利に沸く日本では、次第に開戦論へと傾いていったのです。日露戦争の開戦ロシアとの交渉は1904年(明治37年)2月になっても長期化の一途をたどりました。シベリア鉄道の全通を待てば待つほど日本にとって不利になると判断した日本政府は、ついに国交断絶を通告します。こうして日本軍は旅順港

  • 天下布武を目指した織田信長の軍事改革②【武器の有効活用】

    織田信長の軍事改革シリーズ第2回となる今回は、戦況に応じて武器を使い分けることで、いかに武器を有効活用していたのかを冷静に分析しながら見ていきます。人の身長の約3倍にもなる長槍信長は鉄砲といった最新兵器を積極的に活用したことで有名ですが、それ以外にも、従来の武器の常識を覆すような取り組みを行っていました。そのひとつが、通常より格段に長い槍の採用です。戦国時代に主流だった槍の長さは二間(約3.6m)でした。長槍を取り入れた大名は信長以外にも存在し、北条氏は二間半(約4.5m)、武田氏は三間(約5.4m)の長さの槍を使用していたとされています。『信長公記』によると、短い槍で突き合う様子を見た信長が

  • 開国と安政の大獄──井伊直弼による強権政治の軌跡

    ペリー来航以前、老中・阿部正弘は幕府に改革の必要性を感じ、改革に着手しました。この改革は「安政の改革」と呼ばれ、享保の改革・寛政の改革・天保の改革という三大改革に続く幕府の改革であるとされています。 阿部正弘による安政の改革 改革の内容としては、まず諸外国からの脅威に備えるため、品川や浦賀に台場(砲台)を築き、江戸湾の防備を強化したことが挙げられます。また、各藩に対して空気銃や実弾を用いた発砲訓練の制限を緩和し、軍事訓練の充実を図りました。 さらに、有能な外様大名にも幕政への参加を認め、広く意見を求める仕組みをつくりました。元水戸藩主の徳川斉昭、薩摩藩主の島津斉彬、越前藩主の松平慶永らが参与

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