世界史

古代の歴史

  • 東郷平八郎元帥――日本海海戦の英雄、その生涯と武士道精神

    東郷平八郎(1848年1月27日~1934年5月30日)は、大日本帝国海軍の元帥である。イギリス海軍で教育を受けた彼は、日清戦争の緒戦に参加し、やがて提督の地位に昇りつめた。1904年から1905年にかけての日露戦争では日本艦隊全体の指揮を執り、日本海海戦(対馬沖海戦)において歴史に残る大勝利を収めた。 東郷とはいかなる人物だったのか 東郷とは、いったいどんな男だったのか。ビスマルクのように「鉄と血」の人であったのか。それとも第二のネルソンなのか。あるいは、悪魔のように狡猾で冷酷なアジア人、向こう見ずな男なのだろうか。 当時、世界はこの指揮官について語り合い、人々は画報誌に掲載された彼の肖像を

  • 日露戦争の歴史:旅順奇襲からポーツマス講和、そして太平洋戦争まで

    開戦:1904年2月8日、旅順奇襲1904年2月8日深夜から9日にかけて、日本艦隊は宣戦布告なしに旅順(ポート・アーサー)に停泊するロシア艦隊を攻撃し、敵艦7隻に魚雷攻撃を加えた。この奇襲により日本は一挙に制海権を掌握し、翌年日本の勝利で幕を閉じることになる戦争が始まった。対立の背景:満洲と朝鮮をめぐる日露の角逐紛争の舞台は北太平洋地域、具体的には満洲と中国であった。イギリス、アメリカ、フランスも経済的足場の確保に躍起になっていたが、とりわけ日本とロシアは、1891年のシベリア鉄道着工以来この地で覇権を競い続けてきた。紛争の直接的な原因となったのは、ロシアの強硬な南下政策である。1895年、日

  • 日本海海戦(1905年):バルチック艦隊を壊滅させた東郷平八郎の伝説的決戦

    新興軍事大国の誕生大日本帝国海軍が帝政ロシア海軍に圧倒的な勝利を収めたことは、アジアに新しい軍事大国が誕生したことを世界に示す出来事でした。旧式艦ばかりのロシア艦隊に対し、日本の最新鋭戦艦は速度でも火力でも優位に立っていました。これは西洋列強にとって痛烈な警告となりました。1870年の普仏戦争での勝利がプロイセンに自国軍事制度への絶大な自信をもたらしたのと同じように、日本もまたロシアに勝利したことで自信を深め、20世紀初頭には西洋列強との戦争へと踏み出していくことになります。それまでの日本は、自らの実力を試してはいたものの、大きな成功を収めるには至っていませんでした。開戦への道日本が最初に成功

  • スペツナズとは?ソ連・ロシア特殊部隊の歴史、組織、装備を徹底解説

    スペツナズ(ソ連)の概要 ロシア特殊作戦部隊 所属国:ソビエト連邦(1991年まで)種別:特殊部隊役割:特殊作戦 スペツナズ(ロシア語:Спецназ)は、警察(ポリツィヤ)、ロシア司法省および内務省、FSB(旧KGB)、SVR(対外情報庁)、そしてロシア軍に属する複数の特殊介入部隊の総称です。 「スペツナズ」という名称は、「SPETSïalnogo NAZnatchéniyé」(ロシア語正式名称:Войска специального назначения=特殊任務部隊)の略称に由来しています。 歴史 スペツナズの起源は、スペイン内戦中に数多くの破壊工作を実践したイリヤ・スターリノフ(「ス

  • ロシア海軍歩兵の歴史:創設から現代まで

    概要 海軍歩兵(ロシア語:Морская пехота)は、ロシア海軍の水陸両用武装部隊である。1705年の創設以来、ナポレオン戦争、クリミア戦争、日露戦争、第一次・第二次世界大戦で戦った。ソ連時代にはゴルシコフ提督の決定により、ソ連海軍に海軍歩兵が編制され、世界各地で介入任務を遂行した。ソ連崩壊後、ロシア海軍部隊はソ連軍全体と同様に困難な時期を経験し、装備と兵力が大幅に減少した。 18〜19世紀 1705年11月、ピョートル1世の勅令により、バルト艦隊の艦船から上陸・揚陸作戦を行うため、「海軍乗組み」連隊が帝政ロシア海軍の装備・補給のもと初めて編成された。 18世紀はロシア海軍歩兵の初陣の

  • 第82空挺師団(アメリカ陸軍)

    アメリカ陸軍第82空挺師団(82nd Airborne Division)は、アメリカ陸軍に所属する空挺師団である。ノルマンディー上陸作戦で大きな功績を挙げ、マーケット・ガーデン作戦やバルジの戦い(アルデンヌの戦い)にも参加した。2003年にはイラク戦争にも投入されている。 第一次世界大戦 もともとこの部隊は歩兵師団として出発した。第82歩兵師団は1917年8月、ジョージア州キャンプ・ゴードンで編成され、アメリカ全州から兵士を集めたことから「オール・アメリカンズ(All-Americans)」という愛称を持つようになった。1918年にフランス戦線に投入され、戦死1,298名、負傷6,248名

  • キルディン島沖潜水艦衝突事件――冷戦後も続いた米露の静かな攻防

    キルディン島沖潜水艦衝突事件とは、1992年2月11日、アメリカ海軍の原子力潜水艦「バトンルージュ(USS Baton Rouge)」とロシア海軍の原子力潜水艦「K-276 コストロマ」が、ロシアのセヴェロモルスク海軍基地近郊の海域で衝突した事件である。当時、バトンルージュは極秘任務に従事しており、その目的はロシア軍の通信傍受にあるとみられている。多くの資料では米潜水艦が密かに侵入していたとされるが、衝突の時点ではコストロマ側もバトンルージュ側も互いの位置を把握できていなかったと考えられている。 事件の背景 1991年秋、ソ連崩壊の直後、米情報機関の間には旧ソ連軍、とりわけロシアの指揮下に残

  • コラ半島事件――米露原子力潜水艦衝突事故の全貌と政治的余波

    コラ半島事件とは1993年3月20日、ロシア海軍セヴェロモルスク基地の北方約100マイル(約160キロ)のバレンツ海において、アメリカ海軍の原子力潜水艦「グレイリング(USS Grayling)」と、ロシア海軍の弾道ミサイル搭載原子力潜水艦K-407「ノヴォモスコフスク」が衝突しました。これがいわゆる「コラ半島事件」です。衝突の経緯は次の通りです。ロシア潜水艦を追跡していたグレイリングは一時的に目標を見失いましたが、再びソナーでノヴォモスコフスクの反応を捉えたときには、両艦の距離はわずか0.5マイル(約800メートル)まで迫っており、衝突はもはや避けられない状況となっていました。しかもこの事件

  • 沈没した原子力潜水艦――説明されなかった喪失の記録

    原子力潜水艦の歴史において、実際に失われた艦は三隻あるとされています。それぞれの事故には技術的な要因や不可解な謎が絡み合い、深海における開発と運用の危険性を物語る出来事となりました。 スレッシャー号――1963年の悲劇 最初に失われたのは、アメリカ海軍の攻撃型原子力潜水艦「スレッシャー」です。1963年、乗員全員とともに大西洋に沈みました。原因は、海水配管の継手の破損にあると考えられています。配管から噴出した海水が電気系統をショートさせ、深い潜航深度で操縦不能に陥ったものと推測されています。この事故は後の潜水艦安全設計の在り方に大きな影響を与えました。 スコーピオン号――公式な説明のない喪

  • ハンターの意義――攻撃型潜水艦が担う抑止の役割

    静粛性を高めたソナー運用と「ハンター」の使命 ソナーを潜水艦に搭載すると、送信波の角度ははるかに広く開き、ほぼ水平に進む音波は温度躍層(サーマルレイヤー)による拡散や反射の影響を受けにくくなります。 核動力攻撃型潜水艦(通称・ハンター)の有効性について、ある艦長は次のように述べています。自らの艦もまたポラリス搭載原子力潜水艦と同様に、核戦争に対する抑止力の一翼を担っている、と。その任務とは、潜在的に敵対的な潜水艦の捜索、潜水艦発射ミサイルの追跡、そして敵の弾道ミサイル原子力潜水艦の発見にあるのです。 巡航ミサイルの先駆け、レグラスの誕生 当時のソ連海軍は、水中発射戦術ミサイルを大規模に運用し

  • 恐るべきソ連のヤンキー級原子力潜水艦

    フランス潜水艦との比較 フランスが就役させている、あるいは建造中の5隻の潜水艦に搭載される核ミサイルは、外見こそアメリカの「ポラリス」に似ているものの、その射程は約3,000キロ(1,900マイル)にとどまる。 独自路線を歩んだソ連の初期戦略 一方、ソ連は当初、アメリカとはまったく異なる方針を採っていた。ソ連初の弾道ミサイル潜水艦はディーゼル・エレクトリック式で、ミサイルを発射するには部分的に浮上しなければならなかった。当時のミサイルの射程もわずか300〜500キロ(200〜300マイル)程度だった。このタイプの潜水艦はその後数年間にわたってソ連で建造され続けたが、最初の原子力推進艦は195

  • 海から発射される核ミサイル――原子力潜水艦とポラリスの物語

    冷戦期、核抑止の主役は地上のミサイルサイロや戦略爆撃機だけではありませんでした。敵の攻撃を受けずに洋上深く潜み、いつでも核打撃を加えられる「海からの核ミサイル」。その実現には、原子力潜水艦という新たなプラットフォームと、水中発射可能な弾道ミサイルという二つの革新が必要でした。 イギリス初の原子力潜水艦「ドレッドノート」 イギリスでは1950年代後半まで原子力推進に関する研究が続けられていましたが、その進展は決して速いものではありませんでした。そこで1958年、イギリスはアメリカとの間に原子炉一式の供給に関する協定を締結します。こうして供給された原子炉を搭載して建造されたのが、イギリス初の原

  • 今日のドレッドノート――原子力潜水艦が海戦史を変えた日

    丸い艦首の秘密――アルバコアの教訓 アルバコアのように丸みを帯びた艦首を持つ潜水艦は、一見すると操縦が難しそうに思える。水面航行では、水を切り裂くというより押しのけて進むためだ。ところが水中では話が別である。初期のアメリカ原子力潜水艦の艦長の一人はこう語っている。「我々がまだやっていないのは、360度の宙返りだけだ!」――もちろん、垂直面での話である。 ノーチラス――ドレッドノートに匹敵する革命 世界初の原子力潜水艦は、1954年に完成したアメリカのノーチラス号である。アルバコアの設計思想を取り入れるには、時期が早すぎた。それでも公平に評価すれば、ノーチラスの出現は、ほぼ50年前に全主砲装備

  • ドイツ発の技術がもたらした恩恵――戦後潜水艦の進化

    連合国に広まったドイツのシュノーケル イギリスとアメリカの海軍は、ほどなくフランス、ポルトガル、そしてスカンジナビア諸国もこれに続いたが、ドイツ製の「シュノーケル(Schnorchel)」を採用するに至った。イギリスではこれを「スノート(Snort)」、アメリカでは「スノーケル(Snorkel)」と呼んだ。この装置の導入により、ほぼ完全に水没した状態のままバッテリーを充電できるようになっただけでなく、作戦行動中においてもディーゼル機関を使用できるようになった。これにより、目標付近でより静粛な接近が必要となる瞬間まで、バッテリーを満充電の状態に保つことが可能となったのである。 「ガッピー」改装

  • 潜水艦の進化――シュノーケルからヴァルター機関への挑戦

    第二次世界大戦と潜水艦の台頭 第二次世界大戦において、潜水艦は戦争の行方に与えた影響の大きさゆえ、あらゆる海軍兵器の中で頂点に立つ存在となった。特にドイツ海軍はUボートの戦術を極め、イギリスと北米間、あるいは食料・燃料・その他の原材料を供給する補給源との海上交通線を切断できれば、勝利はもはや疑いないところまで連合国を追い詰めたのである。 しかし、航空部隊と水上護衛部隊の協同作戦といった対潜対策が次第に成果を上げるにつれ、真に必要とされていたのは「本物の潜水艦」――すなわち、一度潜航すれば数週間にわたって水中に留まり続けられる艦であることが明らかになっていった。 シュノーケルによる部分的な解決

  • ベルリンの壁は「良い投資」だったのか――冷戦下、西ベルリンをめぐる米ソ攻防の記録

    雨の中、50万人が待ち望んだ「希望」 ジョンソン副大統領とクレイ将軍が西ベルリンに到着したのは、日曜日の午後であった。彼らを待ち受けていたのは、強い感情に駆られた密密とした群衆だった。実に50万人近くの人々が、多くは涙を浮かべながら、土砂降りの雨のうちに街路を埋め尽くし、二人を歓迎したのである。 ジョンソンは新たな具体的な約束こそ掲げなかったものの、この短い訪問はベルリン市民にとって何よりも必要なもの――すなわち「希望」――をもたらした。彼は演説の中でこう述べている。「我々は、あなた方の自由を、そして人類の自由という神聖な大義を守り抜く決意である」と。 アメリカの覚悟を示した訪問 日曜日には

  • 黒い傘が届いた日──1961年8月、ベルリンを二分した壁の夜

    1961年8月13日の夜明け すべては1961年8月12日から13日にかけての夜に始まった。真夜中を過ぎて間もなく、東ドイツ通信社のテレタイプ端末が、ワルシャワ条約機構加盟国による共同声明の配信を開始した。声明は、NATO諸国が東ドイツ経済を妨害しようと、不安定な分子を扇動して住民に故郷を捨てさせ、そのために虚偽や買収、恐喝に訴えていると非難するものだった。こうして東ドイツは、「秩序を回復」するための必要な措置を講じることになったのである。 一時間足らずで国境は封鎖された 深夜から1時間も経たないうちに、装甲車が国境へ向かって進軍を始めた。警察と軍の部隊は、80あった連絡路のうち12路線を残

  • ボリショイ劇場のボックス席から告げられた核の脅し――ベルリンの壁はこうして生まれた

    1958年11月、フルシチョフの大攻勢1958年11月、フルシチョフは大規模な攻勢を開始した。米国、フランス、英国に宛てた覚書の中で、彼は西側諸国がドイツに混乱を引き起こし、ベルリンを拠点としてあらゆる社会主義国に対する破壊工作を企てていると非難した。そして「6か月以内にベルリン占領を終わらせよ。さもなければソ連は東ドイツと単独条約を締結し、いずれにせよ占領体制を終焉させる」と要求したのである。後に撤回されることになるこれらの過剰な要求は、まさに彼が期待した通りの結果をもたらした。危機を創出し、西側同盟各国の政策における弱点を浮き彫りにしたのだ。フルシチョフは、アメリカの政治家たちに妥協への傾

  • フォークランド紛争:イギリス軍、サン・カルロス湾に夜間上陸

    「いつでも、どこでも。ただし損害は最小限に」 「上陸の時期と場所は自由に選べ。ただし物的損害は最小限に、そして何よりも人的損害を最小限にとどめよ」――フォークランド諸島(マルビナス諸島)遠征の総指揮を託されたウッドワード提督(愛称「サンディ」)に、ロンドンから下された指示は明快だった。しかし、それを実行に移すことは容易ではなかった。4月中旬から5月中旬までの約1か月間、敵の空襲に常にさらされる英国機動部隊の艦上で、ウッドワード提督を中心とする参謀たちは、考えうるあらゆる選択肢を検討し続けたのである。 上陸地点はサン・カルロス湾に決定 橋頭堡を築く――その方針は固まっていた。だが、どこに? イ

  • ギリシャ内戦の終結――国境を越えて連れ去られた子どもたち

    指導者の交代と政府軍の反攻1948年11月、当時「マルコス将軍」として知られていたヴァフィアディスは、ゲリラ部隊の指導権を、経験豊富な共産主義闘士ニコス・ザカリアディスに譲らざるを得なくなりました。その1〜2か月後には、1940年から41年にかけてのアルバニア戦役で名声を得たアレクサンドロス・パパゴス元帥が、ギリシャ政府軍の指揮を執ることになります。ティトーの離反が決定打にパルチザンはもはや勝ち目のない苦しい戦いを強いられていました。とはいえ、北部の山岳地帯ではもうしばらく持ちこたえることができたかもしれません。ところが1949年7月、チトー大統領がユーゴスラビア・ギリシャ国境を閉鎖し、パルチ

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