世界史

古代の歴史

  • トルーマン・ドクトリンとギリシャ内戦――アメリカの「新しい戦略」が戦局を決めた

    トルーマン大統領は、「武装した少数派による支配や外部からの圧力に屈することを拒む自由な諸国民を、合衆国は支援しなければならない」と宣言した。この発言は事実上、アメリカが従来の勢力圏の枠を超え、共産主義との闘いにおいて西側世界の先頭に立つという政策へのコミットメントを意味していた。具体的な政策面では、議会がギリシャに対して約2億5000万ドルの経済・軍事援助を承認するという形で現れた。 内戦へとエスカレートするパルチザンの攻勢 トルーマン大統領の声明と議会の採決を受け、共産党パルチザンの攻撃は本格的な内戦へと発展した。彼らは、アメリカが約束した援助が実際に届く前に勝利をつかもうとしたのである。7

  • 疑惑を招いた熱意――冷戦前夜のギリシャとトルーマン・ドクトリン

    1946年9月27日、ゲオルギオス2世国王が亡命先からギリシャに帰還すると、国王は自由派の閣僚を起用してツァルダリス政権を拡充するよう働きかけたが、これは失敗に終わった。北部諸県における政府の統治権限は崩壊しつつあり、散発的な戦闘が再び同国を内戦の瀬戸際へと押し戻していた。 遊撃戦の再開と周辺共産国の支援 同年8月、ギリシャ共産党(K.K.E.)政治局は、戦時中を通じて北東ギリシャでE.L.A.S.(民族人民解放軍)部隊の指揮を執っていたマルコス・ヴァフィアディスに対し、山岳地帯(マキ)に入って遊撃部隊を再編成するよう命じた。同じ月、政府は憲兵隊に代えて、共産系パルチザンとの戦闘に正規軍を

  • 王政か共産主義か――1946年、ギリシャが直面した運命の選択

    ヴァルキザ協定がもたらした新たな混乱ヴァルキザ協定は、ギリシャの政治抗争の終結を意味するものではなかった。むしろそれは、国家を襲う長い動乱期の幕開けであった。争点はたちまちのうちに、国家が採用すべき統治形態の問題へと移っていった。1946年3月31日の総選挙1946年3月31日に総選挙が実施されると、共産党およびその関連諸政党はこれをボイコットした。その結果、コンスタンティノス・ツァルダリス率いるポピュリスト(君主主義)党が投じられた票の60%を獲得し、議会354議席のうち231議席を制したのである。ツァルダリスは同年4月に政権の座に就いた。前年12月の蜂起の際、共産党側は多くの人質を奪い、北

  • アテネ大主教ダマスキノスの摂政就任――1944年ギリシャ危機の転換点

    外国勢力の反応を見誤った共産党指導部今となってみれば明白なことだが、ギリシャ共産党(K.K.E.)指導部が犯した最大の判断ミスは、列強の反応を誤って解釈したことにあった。彼らはチャーチルとスターリンの間で交わされた密約についてほとんど知らず、モスクワが自らに有利な形で介入してくれるものと期待していた可能性が高い。イギリス軍が武力を用いるなどとは、おそらく信じようともしなかったのだろう。さらに、ギリシャ国土の大部分を支配下に置いている以上、アテネに集中していたイギリス軍相手でも十分に戦えるはずだと考えていたのかもしれない。12月3日、憲法広場から始まった蜂起彼らがチトーから後押しを受けていたこと

  • 火薬庫に落とされた火種――1944年秋、ギリシャ内戦再燃の舞台裏

    1944年9月、ドイツ軍はギリシャからの撤収を開始した。ドイツ軍が去った直後に共産主義勢力がクーデターによって国家を奪取する――そうした脅威は、ギリシャ情勢を追っていた多くの人々にとって明白なものだった。カゼルタ協定――パルチザン部隊の指揮権をめぐる密約同じく9月、ゲオルギオス・パパンドレウ首相はナポリ近郊のカゼルタにおいて、共産系最大の抵抗組織E.L.A.S.(ギリシャ人民解放軍)およびE.D.E.S.(ギリシャ国民共和同盟)の軍事指導者たちと会談し、パルチザン部隊をすべてギリシャ政府の権限の下に置く協定に調印した。政府はさらに、これらの部隊の指揮権をロナルド・スコビー将軍へ委譲した。パパン

  • 「ゴルゴポタモス作戦」――ギリシャ抵抗運動の頂点と内戦への序章

    初めて、そして最後の共同作戦E.L.A.S.(民族人民解放軍)とE.D.E.S.(民族民主ギリシャ軍)が初めて、そして最後に協力したのが、華々しい「ゴルゴポタモス作戦」である。パラシュートで降下したイギリス将校たちの指揮のもと、160人のギリシャ人パルチザンが、ギリシャを南北に縦断する鉄道が通る高架橋を爆破したのである。この快挙は他のレジスタンス闘士たちを行動へと駆り立てたが、同時にE.A.M.(民族解放戦線)に対しては、権力の掌握には闘争が不可欠であることを痛感させた。この瞬間から、枢軸軍に対する作戦はE.A.M.とその武装組織E.L.A.S.の関心の中心から退き、優先されたのは政敵となる政

  • 冷徹にして厳格な小男――ギリシャ・レジスタンスの誕生と共産党

    戦間期のギリシャに現れた第三の勢力:共産主義1920年代までに、ギリシャ政治には第三の政治勢力が登場していた。それが共産主義である。戦間期を通じて、「K.K.E.」の略称で知られたギリシャ共産党は大衆的な支持を獲得するには至らなかったものの、当時最も組織化され、規律の取れた政党であった。おそらくまさにその理由ゆえに、同党は広く人気を得ることができず、また確実にその同じ理由によって、独裁国家の治安機関にとって最大の標的となったのである。第二次世界大戦が勃発すると、共産党はメタクサス独裁政権の弾圧によってほぼ壊滅状態に追い込まれた。しかし皮肉なことに、この弾圧は逆効果をもたらした。党は地下へと潜り

  • イア・ドランの戦い:ヘリコプターが救った包囲された大隊

    1965年11月、ベトナム戦争において米軍と北ベトナム正規軍が初めて大規模に正面衝突したのが、イア・ドラン渓谷の戦いである。ハロルド・ムーア中佐率いる第7騎兵連隊第1大隊は、ヘリボーン作戦によって故の拠点地域のど真ん中に投入され、圧倒的多数の敵に包囲されながら戦い抜いた。ここでは戦闘終盤の攻防と、この戦いが後世に残した教訓を振り返る。 孤立した小隊の救出と夜明けの総攻撃 タリー大尉の部隊は妨害を受けることなく前進を続け、ついに孤立していた小隊を発見した。救出された兵士たちは、救援に駆けつけた仲間を涙ながらに迎えたという。彼らは戦死者と負傷者を担いで整然とゆっくりと着陸地帯へ後退し、この撤退で失

  • 激しい戦い――着陸地点X-RAYでの死闘

    防御線を襲う激しい砲火1965年、ベトナム戦争における初の本格的な正面衝突となったイア・ドランの戦い。中央高地の着陸地点「X-RAY」では、ムーア中佐率いる第7騎兵連隊が北ベトナム軍との攻防を繰り広げていた。C中隊の左翼に展開していたD中隊が攻撃を受けると、防御円陣(ペリメーター)に降り注ぐ砲火はさらに激しさを増し、午前7時45分には着陸地帯全体がロケット弾、迫撃砲、自動小銃による集中射撃に覆われた。これに対し第7騎兵連隊は全力の火力で応戦し、敵側に甚大な損害を強いた。しかし午前7時55分には事態が極めて危険な水準に達したため、ムーア中佐は各小隊に対し、彩色煙幕で自らの位置を示すよう命じた。こ

  • 包囲網は固められ、夜明けを待つ――イア・ドランの戦い

    防御態勢の再編と待望の補給 1965年11月14日、ベトナム戦争初の本格的なヘリボーン戦闘となったイア・ドラン渓谷の戦い。着陸地点「Xレイ」では、午後5時から7時にかけて、ハロルド・ムーア中佐が防御態勢を可能な限り緻密に組み直していた。防御砲撃と迫撃砲の射撃は綿密に調整され、万一の際の最終拠点として、2機のヘリコプターが収まる規模の予備着陸地帯が選定された。 不整地へのヘリコプターや空挺部隊の誘導を主任務とする第229航空大隊のパスファインダー班は、爆薬を用いて着陸区域を塞ぐ樹木を撤去し、夜間用の照明信号を設置していった。作業の間、彼らは敵の砲火に絶えずさらされたが、損害ゼロで任務をやり遂げ

  • 増援要請――Xレイ着陸地帯の死闘(イア・ドランの戦い)

    増援要請――Xレイ着陸地帯の危機旅団長のブラウン(Brown)大佐は戦闘現場の上空に飛び、ムーア(Moore)中佐は、自らが対処しているのは約600名の北ベトナム軍であり、彼らは間違いなくまもなく増援を受けると伝えた。ムーアは1個中隊規模の増強を要請した。この要請はブラウンも予期していたもので、第7騎兵連隊第2大隊のB中隊は、着陸地帯の状況が好転し次第、直ちに介入できるよう待機していた。前回の飛行で2機のヘリコプターが深刻な損傷を受け、二度と離陸できない状態となった。その残骸は着陸地帯の縁に取り残され、乗員たちは他のヘリコプターで撤収していった。この時点でブラウンが提供できる最良の支援は、Xレ

  • 露出した陣地――イア・ドランの戦い、Xレイ着陸地帯の死闘

    露出した陣地――Xレイ着陸地帯の危機1965年11月14日、ベトナム戦争において米軍と北ベトナム正規軍が初めて正面から激突した「イア・ドランの戦い」。中央高地チュポン付近の着陸地帯「Xレイ」に降り立ったハロルド・G・ムーア中佐指揮下の第1大隊・第7騎兵連隊は、圧倒的な数の敵に包囲され、文字どおり「露出した」絶体絶命の陣地での戦闘を強いられることになった。マーム少尉の前進と最初の接触A中隊所属の少尉ウォルター・J・マーム(Walter J. Marm)は、着陸後ただちに自らの小隊を散開させ、戦闘地域へ向けて前進した。到着してまもなく捕虜2名を確保し、引き続きB中隊の予備小隊の位置に達した。マーム

  • 「偶然の」認識――イア・ドランの戦い、Xレイ上陸作戦の序章

    着陸地点の偵察と選定 1965年11月14日の朝、ムーア中佐と主要な参謀将校たちは、一見何の変哲もない偵察飛行を行った。その真の目的は、候補となっていた3つの着陸地帯を視察し、そのうち最大のものを選定することだった。そこには一度に8機から10機の航空機が着陸できる規模があった。上空から見ると、地形は適度に開けており、高さ30メートルの樹木の下に、丈高い茶色のナピエ草が一面に生い茂っていた。地面は起伏に富み、高さ約2.5メートルのシロアリの塚が点在していた。樹木はチューポン山に近づくほど密になり、乾いた川床が、後に「Xレイ」と呼ばれることになる着陸地区の縁を走っていた。 ムーアは基地キャンプに

  • イア・ドラン渓谷 ―― ベトナム戦争最初の大規模戦闘の舞台

    1965年10月19日、チュ将軍率いる北ベトナム軍は、省都プレイクから南へ約30キロに位置する特殊部隊キャンプ、プレイ・ミーへの攻撃をもって攻勢を開始した。ベトナムにおける米軍事援助の責任者ウィリアム・ウェストモーランド大将は、ハリー・W・O・キナード少将に対し、第1騎兵師団(空中機動師団)を投入して、南ベトナム軍によるキャンプの奪還と敵の追撃を支援するよう命じた。しかし、第1旅団が現地に到着したときには、攻撃側の姿はすでになかった。キナード少将と情報将校たちは、敵が安全地帯へ退却したものと推測し、師団直轄の偵察部隊に捜索を命じた。樹木と谷あいの間を縫うように飛ぶ軽観測ヘリコプターは、キャンプ

  • 「大統領からの追放」――テト攻勢が引き起こしたジョンソン退陣とベトナム戦争の転換点

    メディア報道が迫った退陣の決断テト攻勢に対するメディアの報道の仕方は、ハト派評論家や政権内の一部文民高官からの圧力を一気に高め、ついにジョンソン大統領を屈服へと追い込んだ。大統領は新たな爆撃停止を発表し、北ベトナム側に改めて交渉の場を呼びかけた。さらにこの提案に重みを持たせるため、1968年秋の大統領選挙には立候補しないことを自ら宣言したのである。この決断は、健康の悪化と家族の願いが主な理由であり、すでに1967年末の時点でウェストモーランド将軍にも伝えられていた。それでも平和主義ロビーは即座に、「我々が大統領を辞任に追い込んだ」と勝利を宣言した。「今日、何人の子どもを殺した?」実のところ、そ

  • テト攻勢後のアメリカの反応――増派論争とジョンソン政権の岐路

    兵士たちにも広がる動揺 この動揺は、前線の兵士たちにも例外なく波及していた。統合参謀本部議長のアール・ウィーラー将軍は、サイゴン(滞在中、宿舎が敵の砲撃にさらされた)から帰国すると、深い憂色を漂わせていた。ウェストモーランド司令官自身はテト攻勢の帰結については楽観的だったものの、敵が今後も別の作戦を仕掛けうる力を保持していることは認めていた。 ウィーラーと参謀たちの頭痛の種は、ベトナムだけにとどまらなかった。北朝鮮がアメリカ海軍の情報収集艦プエブロ号を拿捕したのはつい最近のことであり、ベルリンと中東の情勢は一触即発、いつ再燃してもおかしくない状態にあった。陸軍の戦略予備兵力はわずか1個師団に

  • 報道と現実の乖離――ケサン攻防戦が暴いたベトナム戦争報道の実像

    1968年、ベトナム戦争の転換点となったテト攻勢。その最中、メディアが伝えた「報道」と、戦場の「現実」との間には、驚くほど大きな溝が横たわっていました。ここでは、ケサン包囲戦をめぐる報道を中心に、当時のジャーナリズムがいかに現実とは異なる物語を作り上げていたのかを検証します。ケサンに生まれた「ディエンビエンフー症候群」ケサンでは、記者たちがいわゆる「ディエンビエンフー症候群」を作り出しました。1954年、フランス軍がベトミンに壊滅的な敗北を喫したディエンビエンフーの戦いになぞらえ、彼らは米海兵隊と南ベトナム・レンジャー部隊からなる守備隊の「悲惨な末路」を絶えず予言し続けたのです。場合によっては

  • ジャーナリストは間違っていた――テト攻勢報道が生んだ歴史的誤解

    1968年1月末に始まったテト攻勢。開始から最初の2週間で、共産軍は甚大な損害を被った。戦死者約3万2,000人、捕虜5,800人に上り、これは積極的に戦闘に投入された兵力のほぼ半分に相当する。一方、南ベトナム軍(ARVN)の損害はわずか2,800人、アメリカ軍も約1,000人にとどまった。共産軍の敗北は明白だった攻撃側が目標を一定期間占拠できたのはフエだけである。このことが、北ベトナム軍が予備兵力を投入して戦果を拡大できなかった一因だと考えられている。テト(旧正月)の休暇で戦列を離れた兵士が多かったとはいえ、戦いの矢面に立った南ベトナムの民兵や正規兵は、効率と勇気をもって職務を果たした。そし

  • 大使館を襲撃せよ!──テト攻勢、サイゴン米大使館への突入

    1968年1月31日未明、わずか15名のベトコン工兵部隊(サッパー)による奇襲攻撃が実行された。この小規模な作戦は、その規模に不相応なほど大きな歴史的意味を持つことになる。標的となったのは、大統領官邸や、アメリカ人記者・テレビカメラマンが宿泊するダウンタウンのホテルから数ブロックしか離れていない、サイゴンのアメリカ大使館だった。大使館は新築の堅固な建物で、頑丈な塀に囲まれ、屋上にヘリポートを備えた、世界でもおそらく唯一の大使館であった。未明の突入、6時間に及ぶ攻防1月31日未明、私服姿のサッパーたちは塀に爆破孔を開けた。最初に敷地内へ侵入した2人のベトコンは、警備に当たっていた憲兵2人によって

  • 仕掛けられた罠――テト攻勢前夜、ハノイの欺瞞作戦

    欺瞞作戦の舞台裏 1967年末までに、ハノイ側が描く陽動作戦の第一幕はすでに上演されていた。それがソンベー、ロクニン、ダクトーにおける国境地域の戦闘である。そして1968年1月中旬には、欺瞞作戦のもう一つの要となる「ケサン陽動」のための兵員と火砲が配置についた。 作戦は1月21日、米軍基地に対する迫撃砲・ロケット弾・榴弾砲による激しい砲撃で幕を開け、その後およそ11週間にわたり、強弱をつけながら執拗に続けられた。米軍の注意をケサンに釘付けにすることが、この作戦の目的だったのである。 高まる警戒とチュー政権の判断 南ベトナムではテト(旧正月)が近づくにつれ、ウィリアム・ウェストモーランド司令官

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