世界史

古代の歴史

  • ハルヒンゴル1939:日本軍の戦略とジューコフの反撃

    1939年7月初め、ハルヒンゴル(ハラハ川)東岸の日本側には、約38,000名の将兵、135両の戦車、225機の航空機が集結していた。一方、ソ連・モンゴル軍の兵力はわずか12,500名だったが、ジューコフの手元には186両の最新鋭戦車と226両の装甲車があった。そして彼は、この戦力を存分に使うことになる。日本軍の包囲構想と開戦日本軍の計画は、大規模な部隊をもってソ連大規模な部隊をもってソ連軍の左翼を迂回包囲し、渡河して戦域最高地点のバイン・ツァガン高地を奪取するというものだった。主力が戦車を先頭に正面の敵陣へ攻撃をかける間に、迂回する一翼が背後から敵を突き、東岸の突出部を殲滅する構想である。日

  • ノモンハン事件1939年:ジューコフ、自らの手で危機を解決する

    この頃、モスクワには深刻な不安が広がっていた。東京で活動するスパイ、リヒャルト・ゾルゲから日本の長期的な戦略計画に関する正確な情報がもたらされていたにもかかわらず、スターリンは当然ながら、ドイツと日本を相手とする恐るべき二正面作戦の可能性を思い悩み始めていた。バイカル湖以東のシベリア全域が脅かされる前に、日本の軍事的冒険を芽のうちに摘み取ることが不可欠であった。そこで下されたのが二つの決定だった。第一に、国内奥地の部隊をこの任務に投入すること。第二に、第一級の実力を備え、信頼でき、野心に満ちた新しい人物を指揮官に任命することである。スターリンの選択は、当時軍団長であったゲオルギー・コンスタンチ

  • ノモンハン事件1939――ハルハ河国境紛争の発端

    1939年5月11日――国境を越えた騎馬の群れ1939年5月11日、内モンゴル(占領下の満洲)から数百人の騎兵が、第23師団(小松原師団)所属の日本軍「顧問」たちに付き添われ、国境を越えてノモンハンの村へと駆け抜けていった。住民たちには、西岸8キロ先の丸太造りの砦に駐屯する国境警備隊へ知らせる余裕すらなかった。翌日、侵略者たちは再び国境を越えてきた。それは20世紀の二大国同士の対決というよりも、むしろ伝統的な部族間抗争に近い動きだった。絶叫しながら突撃する騎兵の大群は、日本軍に率いられた宿敵バルグト族の周囲を全速力で駆け巡ったのである。空襲がもたらした「20世紀」5月14日、侵略者たちは今度こ

  • ノモンハン事件(ハルヒンゴル)1939――開戦の背景

    ハルハ河(ハルヒンゴル)のほとりに広がる荒涼とした草原は、日本がアジア大陸で膨張できる限界点となった。1937年に日中戦争が勃発しても中国はなお抵抗を続けていたが、1931年以来日本が支配する満洲の統治体制には、もはや揺らぎはなかった。こうしたモンゴル人民共和国の辺境の地で、ソ連軍の真の実力が試されることになる。35年前、日本はツァーリの軍隊に痛烈な敗北を与えて世界を驚かせた(日露戦争)。ならば今こそ、国境紛争を口実に深く攻め込み、シベリア鉄道まで一気に進撃する好機ではないか――そんな構想が浮上したのも無理はない。ソ連という巨人の背骨を折ってしまえば、ウラジオストク港をはじめとする極東ロシアの

  • 硫黄島の戦い:最後まで降伏しなかった日本兵たち

    1945年3月14日、アメリカ軍は組織的な抵抗はすでに終わったと判断し、硫黄島を正式に攻略したと宣言しました。しかし実際には、地下壕やトンネルの中に潜み、数百人の日本兵がなお抵抗を続けていました。栗林忠道中将の最後の訓示3月17日、総司令官の栗林忠道中将は、生き残った将兵に向けて次のような訓示を送りました。「戦闘もいよいよ終末に近づきつつある。生存せる将兵は、出撃して敵を攻撃せよ。これは私の命令である。諸君は既にその身を天皇に捧げたのだから、自らを顧みることはない。私は必ず先頭に立つ」 残存兵力の一掃と最後の突撃散在する抵抗拠点の掃討作戦は、火炎放射器で武装した戦車および爆破部隊に任され、3月

  • 硫黄島の戦い:島の制圧を象徴する摺鉢山と星条旗掲揚の激闘

    摺鉢山――硫黄島攻略の象徴標高約170メートルの荒々しい火山、摺鉢山。海側へ切り立つ急斜面を持つこの山は、硫黄島防衛上の要というわけではなかった。しかし砲兵にとって絶好の観測点であり射撃陣地でもあり、その威容から、これを支配する者がすなわち島全体を制することになる象徴的な存在でもあった。早晩孤立することを見越していた栗林中将は、この山の防衛にわずか1,860名しか配属しなかった。それでも山麓には数百のトーチカ、コンクリート製掩蔽壕、偽装された火砲が設置され、斜面には縦横無尽に入り組んだ坑道と洞窟の迷宮が張り巡らされていた。星条旗が掲げられた瞬間いつものように、各陣地は迫撃砲、戦車、ロケット弾、

  • 硫黄島の戦い:上陸初日の激闘と、海兵隊が握った主導権

    上陸初日:静寂に包まれた海岸線日本軍守備隊は命令に忠実に、上陸作戦の間一切発砲しなかった。第一波で撃破された水陸両用トラクターはわずか5台だった。突撃が段丘によって足止めされ、弾幕が海兵隊から離れて移動したその隙を突いて、海岸に最も近い位置にいた日本兵たちは、放棄された武器を回収し、自軍の陣地へと運び込み始めたのである。砂浜の火山灰は銃弾の衝撃を和らげてくれたが、砲弾の威力までは打ち消せなかった。「あれほど無残に引き裂かれた死体は、どこでも見たことがない」と、ある従軍記者は証言している。やがて明らかになったのは、海岸にとどまり続けることはある意味で自殺行為であり、かといってそこを離れれば、完璧

  • 硫黄島の戦い――本土の玄関口に立った日本人たち

    太平洋反攻の二正面作戦太平洋奪回作戦の次の段階は、二方向から同時に仕掛けられた攻撃だった。ダグラス・マッカーサー大将はニューギニア北岸沿いに跳躍しながら南西太平洋へ進出し、ソロモン諸島を制圧して、ニューブリテン島のラバウルを孤立させた。一方、チェスター・ニミッツ提督率いる中部太平洋部隊は、ギルバート諸島、マーシャル諸島、マリアナ諸島を次々と攻略し、カロリン諸島を孤立させた。米軍の攻勢は圧倒的で、1944年10月20日にはフィリピンの奪回が始まった。この反撃を前に、日本軍はレイテ沖海戦の敗北後、散発的な抵抗を行うのが精一杯となっていた。海兵隊の決定的な役割太平洋横断の攻勢において、海兵隊は特に中

  • 硫黄島攻略の背景 ― 米軍がこの小さな島を執拗に狙った理由

    硫黄島を占領することで、アメリカ軍は東京からわずか約1,200キロの地点に航空基地を確保できるはずだった。それまで、日本本土への爆撃任務は日本から5,000キロ以上離れたマリアナ諸島から発進しており、この距離では戦闘機による護衛が不可能だった。そのため、B-29「スーパーフォートレス」は日本軍の迎撃によって甚大な損失を被っていたのである。さらに硫黄島は、マリアナ諸島の防空網において不可欠な要衝でもあった。したがって、この島を占領し、恒久的に確保することが求められていた。最後に、もう一つ重要な考慮点があった。硫黄島は伝統的に東京から直接管轄される日本の領土であり、その陥落は日本側の士気に深刻な打

  • ガダルカナル島の戦い:「血の尾根」攻防戦と第17軍の撤退

    血の尾根への夜襲――1942年9月12日9月12日の正午、ヴァンデグリフト海兵隊少将は自分の判断が正しかったことを確信した。日本軍爆撃機の狙いはヘンダーソン飛行場の滑走路ではなく、その南に連なる尾根(のちに「血の尾根」と呼ばれる)だったのだ。日没後まもなく、日本軍の巡洋艦1隻と駆逐艦3隻が尾根に向けて砲撃を開始し、砲撃が止むや否や川口支隊が突撃を仕掛けた。彼らは海兵隊の1個小隊を包囲することに成功したが、この小隊は激戦の末に味方の陣地まで突破して戻ることができた。夜明け時点で米軍は、前夜の攻撃は自軍の配置を探る威力偵察だったと考えていた。もし川口少将がその晩こそ決戦を計画していたことを知ってい

  • ガダルカナル島の攻防:海兵隊は持ちこたえられるのか?―ヘンダーソン飛行場とテナル川の戦い

    ターナー提督が撤退した後、ヴァンデグリフト少将の立場は決して恵まれたものではなかった。彼の第1海兵師団が確保していたのは、密林に覆われたガダルカナル島の中にあって、建設途中の飛行場とその周囲わずか数ヘクタールの土地だけだった。しかもそのジャングルには、日本軍の占領部隊や工兵隊の残党が潜んでいたのである。さらに悪いことに、ガダルカナル周辺海域の制海権は帝国海軍が握っていた。その後数日のうちに、日本の軍艦は毎日のように沖合に現れ、砲撃射程外から哨戒を行うのが常となった。ある日など、日本の潜水艦が海岸の海兵隊陣地の真正面に浮上し、好き放題に砲撃を加えてきた。また別の日には、巡洋艦が真昼間っから先遣隊

  • ガダルカナル島上陸作戦

    準備と遅延 1942年7月26日、フィジー諸島コロ島での上陸演習が4日間にわたり実施された。D-Dayは8月4日から8月7日へと再延期された。航空爆撃、艦砲射撃、ビーチ上陸、航空支援、艦船から陸上への攻撃、空対地攻撃など、あらゆる準備演習はかなり混沌としたものだった。 8月7日:ガダルカナル島への上陸 8月7日早朝、ガダルカナル島の丘陵に陣取ったオーストラリア軍の哨戒兵たちは、歴史上最大規模の上陸部隊が沖合に集結するのを目撃した。36人乗りの上陸用舟艇に分乗した数千人の海兵隊員が、次々と波状的に海岸へ向かった。 誰もが驚いたことに、日本軍の抵抗は皆無だった。攻撃側は完全な奇襲を達成していたの

  • ガダルカナル島の戦い:背景と戦略的意義

    作戦の目標となったのは、南太平洋ソロモン諸島に位置するガダルカナル島である。高温多湿の気候と起伏に富んだ険しい地形を持つ小さな島だが、その地味な外見とは裏腹に、誰の手に落ちるかによって計り知れない戦略的価値を発揮する要衝であった。1942年5月初旬、日本軍部隊はガダルカナル島と、隣接する小島ツラギ島を同時に占領した。ツラギは優れた泊地であり、この海域全体を掌握しうる拠点として絶好の場所だった。しかし、連合軍の観測員が注目すべき報告を行ったのは6月に入ってからである。それは、約3,000名の日本軍兵力がツラギ島から移動し、ガダルカナル島で飛行場の建設を開始したというものだった。ヘンダーソン飛行場

  • テーブルを囲んで――シンガポール陥落、降伏調印の舞台裏

    1942年2月15日午後2時、山下奉文中将のもとにイギリス軍降伏の報せが届いた。彼はその日の日記にこう記している。「あらゆる欺瞞から自らを守りたい一心で、英国軍司令官本人が直接来るよう命じた。使節団は戻り、午後5時15分、パーシバル中将が参謀将校2名と通訳のワイルド少佐を伴って到着した。」対面する二人の司令官ブキ・ティマのフォード自動車工場。日本側通訳の菱刈少佐による紹介の後、両司令官は握手を交わし、テーブルを挟んで向かい合う形で着席した。そこで(日本側の記録によれば)次のような場面が展開された。「簡潔に答えよ。無条件降伏を受け入れるか?」「日本兵の捕虜はいますか?」「いない。」「日本人の民間

  • 木々の間に白旗が上がった日――シンガポール陥落前夜の記録

    1942年2月10日、ウェーヴェル将軍は島を最後に訪れ、ジャワへの帰還後、チャーチル首相へ次のように報告した。「シンガポールの戦いは困難を極める。将兵の士気は非常に低い。降伏を一切考慮せず、部隊は最後まで戦うよう正式な命令を下した。」しかし、降伏という選択肢はすでに多くの人々の心の中にあった。崩壊しつつある防衛線2月13日、イギリス軍は市街周囲約45キロメートルの包囲網の中に完全に閉じ込められた。反撃はおろか、日本軍に対する組織的な抵抗すら困難な状況となっていた。兵士たちは指揮官への信頼を失い、脱走兵たちが市内にあふれ、地下室に潜んでは夜になると商店や住宅を略奪するために姿を現した。市内は避難

  • シンガポール陥落前夜――チャーチルの死守命令と崩れゆく英連邦軍の防線

    チャーチルからの「一寸たりとも渡すな」電文1月20日、チャーチルはウェーヴェル宛てに個人的な電文を送り、自らの意志を疑う余地なく示した。「この点は絶対的に明確にされたい。すなわち、一寸(いっすん)たりとも土地を敵に明け渡さず、あらゆる装備・施設を破壊して敵の手に落ちることを防ぐこと。降伏が問題となるのは、シンガポール市街の瓦礫の中における長期にわたる戦闘の後のみである」と。パーシバルが描いた三防区体制翌21日、ウェーヴェルはパーシバルに対して自らの防衛計画を提示したが、パーシバルはこれを拒否した。代わりに彼が選んだのは、島(約32キロ×17キロ)を三つの防区に分割する案であった。オーストラリア

  • 追い詰められた「ウエストフォース」――ジョホール防衛線崩壊の日々

    撤退計画とウェーヴェル上将の到着戦局が悪化するなか、パーシバル中将はヒース中将、ならびにジョホール東部の防衛を担うオーストラリア第8師団を指揮するベネット中将と協議を行った。ベネットには秩序ある撤退が命じられ、1月16日にスランダー、21日にポート・ディクソン、24日にタンピンへ到達することが求められた。パーシバルは、2月中旬まで敵を陸上で食い止められれば、その頃到着するはずの第18師団とベネット師団を交代させ、反攻に転じられると考えていた。1月8日、シンガポールに空路で到着したばかりのウェーヴェル上将は、セガマットでの会議に出席し、第3軍団のオーストラリア軍との交替とジョホール防衛について協

  • 意気消沈したオートマトンたち――マレー半島で崩れゆく英軍防衛線

    グヌンの戦いとペナン島の放棄12月14日から15日にかけてグヌンで戦闘が行われ、16日にはペナン島が放棄された。同じ日、マレー=ライオン中将はクリアン川の背後へと撤退している。この時点でイギリス軍はもはや航空支援を失っており、戦車による増援の到着も諦めざるを得なかった。12月17日、パーシバル中将はペラ川の防衛線で戦うことを決断し、師団を強化するため第12旅団をマレー=ライオンに引き渡した。第15旅団は第6旅団の残存部隊を吸収している。シンガポールでの緊急会議翌18日、シンガポールではダフ・クーパーが軍首脳会議を開催した。会議では、状況の深刻さをロンドンに伝達し、戦闘機4個飛行隊と同数の爆撃機

  • 「英国人は在庫を用意していた……」ジャイトラの戦い、英印軍崩壊の序曲

    日本軍の総攻撃と英印軍の疲弊まもなく自信を取り戻した佐伯部隊は、全戦力を正面中央に集中させ、イギリス軍の陣地を突き破った。レスター連隊と第22グルカ連隊は、両翼の間に隙間が生じていたにもかかわらず持ちこたえ、カーペンデール司令官は依然として日本軍を撃退しうるとの希望を捨てていなかった。しかし、第5師団の歩兵を指揮する川村将軍が増援として到着し、状況は一変した。彼は第41連隊に道路の東側、すなわち側面へ回り込むよう命じ、第11連隊には西からの攻撃を準備させた。両連隊ともまだ戦闘に投入されていない生力であり、出撃への意欲に満ちあふれていた。その一方で、インド第11師団の疲弊と混乱は深刻化する一方だ

  • ゴムの木の陰に消えた砲手たち――ジトラ防衛線崩壊の記録

    散開した防衛計画マレー=ライオン少将の当初の計画では、第15旅団を道路沿いに配置し、左翼を第6旅団が支援、第28旅団を予備として温存するはずだった。しかし彼はあらゆる接近路をカバーしようと無謀にも部隊を分散させてしまった。第15旅団だけで、ジャングル、水田、ゴム園が入り混じる6キロに及ぶ正面を守らねばならず、第6旅団の任務はさらに過酷で、その行動範囲は海岸まで17キロに及んだ。両旅団は互いに支援し合える距離になかった。こうしてマレー=ライオンは、戦いの始まる前に予備兵力を失うことになった。チャンルンでの初戦ジトラ北方の防衛を担ったのは、第15旅団所属の第1/14パンジャーブ連隊であり、12月1

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