世界史

古代の歴史

  • 独ソ戦の幕開け:ドイツ国防軍の電撃的襲撃と1941年の危機

    ここでは、戦争をいくつかの時期に区分し、それぞれの主要な出来事について、とりわけ特徴的な場面に焦点を当てながら見ていくこととしよう。 ソ連国民にとって最も過酷な第一期 戦争の第一期は、ソ連国民にとって最も厳しい時期であった。赤軍の一時的な後退と挫折に伴う、大きな試練と困難に満ちた時代だった。 とりわけ1941年の夏から秋にかけて、極めて深刻な事態が発生した。開戦の最初の数時間から、ドイツ軍は戦略的主導権を掌握し、空においても地上においても、文字どおり赤軍にその意志を押しつけてきたのである。 奇襲により壊滅的打撃を受けたソ連空軍 ドイツ空軍によるソ連各地の飛行場への最初の奇襲攻撃は、ソ連空

  • 爆弾はすでに落ちていた――独ソ開戦前夜、ソ連軍はなぜ無備だったのか

    侵略への無備はなぜ生まれたのかドイツの侵攻を前にしたソ連武装勢力の無備を、どのように説明すればよいのだろうか。もちろん、ソ連政府と最高司令部は、侵略の可能性を示す重大な兆候を十分につかんでいた。ドイツ・ソ連国境沿いやポーランド領内におけるドイツ軍の大規模な集結にも、気づいていなかったわけではない。それにもかかわらず、開戦の時期について重大な判断ミスを犯したのである。スターリンとその側近たちは、ドイツが1942年の夏以前に攻撃を仕掛けることはありえないと考えていた。つまり、赤軍には再編成と再装備を完了するための猶予がまだ1年ほど残されていると信じていたのだ。さらに当時の政府は、戦争そのものを回避

  • 「戦火の学校」を卒業したドイツ国防軍と、準備不足のまま開戦を迎えたソ連赤軍

    量だけではないドイツ軍の優位 開戦当時、ドイツ国防軍(ヴェーアマハト)がソ連赤軍に対して持っていた優位は、単なる兵力や装備の数にとどまらなかった。最大の違いは、ドイツ軍が侵略のために完全な準備を整えていたという点にある。 ドイツ軍の部隊は、作戦遂行に必要なあらゆる物資と装備を備えたコンパクトな集団として、国境沿いに集中的に配置されていた。さらに将兵の多くはすでに実戦を経験していた。西欧でのポーランド侵攻やフランス戦、南東ヨーロッパでのバルカン戦役など、いわば「戦火の学校」をくぐり抜けてきた錬磨された軍隊だったのである。 戦略的展開も終わっていなかった赤軍 一方、赤軍の状況は対照的だった。部隊

  • スペイン戦争の教訓を経て――独ソ開戦前夜、ソ連軍とドイツ国防軍の戦力比較

    1939年から1940年にかけて、ソ連の軍需産業は生産規模を大きく拡大させていた。1940年だけでも8,331機の軍用機が製造されたが、その大多数は旧式機であった。とはいえ、まさにこの時期に、ラヴォーチキン、ヤコブレフ、ミコヤン・グレヴィッチ各設計局の戦闘機、イリューシン設計局の名高い地上攻撃機「シュトゥルモヴィク(Il-2)」、そしてペトリャコフ設計局の急降下爆撃機といった、後に大戦で卓越した性能を発揮することになる機体群が誕生している。 航空機生産――転換は間に合わず 1941年の上半期には、これら新型機がすでに2,650機製造されていた。しかしそれでも、旧式機から新型機への交代を完了さ

  • バルバロッサ計画とソ連の戦争準備――独ソ開戦前夜の実像

    ドイツの長期にわたる侵略準備 ドイツは侵略を長期にわたり入念に準備していた。ヒトラーの数多くの声明や著書『我が闘争』からも明らかなように、総統はソ連を最大の敵とみなし、ヨーロッパ支配、ひいては世界支配への本質的な障害と捉えていた。 第二次世界大戦勃発の経緯により、ドイツ軍は最初の一撃をチェコスロバキア、ポーランド、そして西欧諸国へと加えることになった。しかし第三帝国の最終目標は変わることがなく、1940年7月には国防軍最高司令部が対ソ侵攻計画の策定に着手した。同年秋には、ドイツ軍部隊の東方ポーランド領内への移動が始まっている。 そして1940年12月18日、「バルバロッサ計画」はヒトラーによ

  • 圧倒的な物量で挑んだエニウェトク攻略戦――「キャッチポール作戦」の全貌

    フリントロック作戦の成功から始まった次の一手 「フリントロック作戦」の成功を受け、アメリカ軍は中部太平洋における作戦計画を一段と推し進めることとなった。リッチモンド・K・ターナー提督は、1944年2月17日にエニウェトク環礁への攻撃を実施することを決断する。これが「キャッチポール作戦」と呼ばれる一連の戦いである。 攻略目標は環礁40島のうちのわずか3島 主な攻略目標は、環礁を構成する約40の島々の中から選ばれた3島だった。すなわち、北部のエンゲビ島、そして南部のエニウェトク島とパリー島である。 守備していた日本軍は約3,500名。塹壕や地下掩体を増設して防御を固めていたものの、コンクリート製

  • クェゼリン環礁の戦い――ロイ・ナムル島制圧作戦の全貌

    LVT不足がもたらした遅延 1944年2月1日の作戦開始が遅れた原因は、水陸両用車(LVT)の数が足りなかったことにあった。前日、第25海兵連隊の上陸に使用された車両は、そのまま第24海兵連隊がロイ島で使う予定のものだったからである。部隊の再編成のため何度か出撃が延期された末、H時(零時)はようやく午前11時12分と定められた。 その瞬間、第一波が動き出した。幸いにも前日に投入されなかった大隊の水陸両用車に乗った第23海兵連隊の二つの突撃群がロイ島へ向かい、まもなく第24海兵連隊の部隊がそれに続いた。先頭中隊はLVTに乗り込み、残りは舟艇で進んだ。 ロイ島――「ガスだ!抵抗なし」 駆逐艦、そ

  • 提督全員反対――クェゼリン環礁攻略作戦の実録

    トラックの連合艦隊とマーシャル防衛の限界司令部をトラック島に置く古賀峯一提督率いる日本海軍の連合艦隊は、マーシャル諸島の総合防衛を担っていた。しかし、前年11月のラバウル上空での戦いで機動部隊の航空戦力が壊滅していたため、島嶼部の守備兵力に追加できるものはほとんどなかった。飛行甲板が空のままの空母でアメリカ艦隊に立ち向かうことは不可能であり、新たな増援が望めない以上、諸島配備の陸上機による防空にも期待は持てなかったのである。守る者9,000人、攻める者63,000人実際、スプルーアンス提督麾下の航空隊は、地上で破壊し損ねた敵機約150機をすべて撃墜していた。こうしてクェゼリンの防衛は、87の島

  • 心臓への打撃――ニミッツ提督が仕掛けたクェゼリン環礁強襲作戦

    1943年後半、アメリカ軍は中央太平洋の反攻作戦「フリントロック」(マーシャル諸島攻略作戦)の検討を進めていた。当初の計画では、目標はマーシャル諸島東部列島の環礁群に置かれるはずだった。しかし同年12月7日、主要幹部が顔をそろえた会議の席上、ニミッツ太平洋艦隊司令長官は出席者を驚かせる提案を行う。それは、世界最大級の礁湖を有する西部マーシャルの要衝・クェゼリン環礁へ、まさに「心臓」を突くような直接攻撃を仕掛けるというものだった。 指揮官たちの強い反対 この大胆な構想に対し、スプルーアンス、ターナー、スミスの各指揮官は一斉に反発した。問題は、キリ、マロエラップ、ウォッジェといった東部の航空基地

  • マーシャル諸島攻略作戦「フリントロック」──タラワの教訓を生かした米軍の反攻

    タラワ攻略の先へ──マーシャル諸島作戦「フリントロック」 苦戦の末にタラワを占領したアメリカ軍は、ニミッツ提督の計画の第二段階、すなわち「戦争を前進させる唯一の道」と考えられたマーシャル諸島への攻撃へと、ただちに移行することとなった。この作戦には「フリントロック(Flintlock)」というコードネームが与えられ、アメリカ軍は日本の支配下にある島々への攻撃を開始しようとしていた。 第五艦隊と上陸部隊の編成 艦船と航空機は中央太平洋艦隊に配属され、同艦隊は1944年初頭に「第五艦隊」という栄えある名称を与えられることになった。上陸用舟艇部隊は第5水陸両用軍団を構成する。統合参謀本部によって2個

  • 藪から飛び出した日本軍500人――タラワ・ベシオ島攻防戦の最期

    物資は長い桟橋の比較的安全な保護のもとで少しずつ上陸し、先遣隊に続き増援部隊が到着を重ねていった。彼らの勇気は並外れたものであり、日本軍にはその上陸を食い止める術がなかった。 潮が味方した11月21日 終わりのない昼は、石油貯蔵所の炎に照らされた終わりのない夜へと移り変わった。日本軍が海兵隊を海へ追い返す最後の好機を失ったのは、まさにこの夜であった。反撃は実行されなかったのである。艦砲射撃によって通信網は破壊され尽くし、柴崎恵次少将は配下部隊との連絡を取ることができず、アメリカ軍が確保した二つの小さな橋頭堡へ一斉攻撃を仕掛けることができなかった。 11月21日、潮の干満は守備隊にとって致命的

  • 地獄の激しさ――タラワ上陸作戦、堡礁に散った海兵隊員たち

    地獄の激しさ 桟橋が制圧されると、突撃部隊の波が接近を始めた。水陸両用車(アムトラック)に随伴できる少数の艦船を除き、火力支援は打ち切られた。まもなく日本軍の迫撃砲弾が散発的に舟艇群に降り注ぎ、砲兵隊は味方の兵士たちの頭上越しに射撃を開始した。機関銃も直ちに火線に加わり、混乱はさらに深まった。水陸両用車は次々と行動不能に追い込まれていった。 しかし午前9時10分までに、多くの海兵隊員が海岸線の全長にわたってLVTから飛び降り、高さ1メートル余りのヤシの幹で築かれた柵の陰に身を潜めていた。右翼では、「首」の部分に構えた日本軍の拠点からの縦射を受けて、アムトラックたちは島の「嘴(くちばし)」へと

  • 鉄と火の雪崩――タラワ環礁ベシオ島、艦砲射撃の夜明け

    鉄と火の雪崩、タラワの夜明け1943年11月20日の夜明け、ヒル提督の艦船がタラワ沖の配置地点に到達したとき、日本軍守備隊はすでに自らの日数が限られていることを悟っていたはずである。だが、戦艦と輸送船による圧倒的な展開をもってしても、彼らが勇気を示すことは阻めなかった。午前5時7分、日本軍は20.3センチ砲2門で射撃を開始し、環礁から約10キロ離れた乗継海域への攻撃を試みたのである。これに対し、旗艦メリーランドが40.6センチ主砲すべてを轟かせて先頭に立ち、支援部隊の戦艦3隻、巡洋艦6隻、駆逐艦9隻がベシオ島へ集中砲火を浴びせた。日本軍の沿岸砲台は、まさに鉄と火の雪崩の前にたちまち沈黙した。や

  • 鉢と小石の真ん中で――マキン環礁上陸作戦

    ヒル提督は部隊を集結させ、ニューヘブリデス諸島のエファテ島での予行演習を終えると、目標へと針路を向けた。数百マイル離れた海域では、ターナー提督率いる部隊がマキンへ向かいつつあった。二つの環礁の間にはわずか100マイル(約160km)しかなく、両攻撃部隊はほぼ平行する二つの航路を進んでいった。 マキン環礁の日本軍防衛体制 マキン環礁には、石川中尉のもと約800名が配備されていた。しかし海軍陸戦隊員はその一部だけで、残りは整備要員や設営隊の隊員たちだった。これらの部隊は、ターナー提督が攻撃目標とするブタリタリ島に展開しており、強固な塹壕陣地、トーチカ、対戦車壕、そして80mm砲3門によって守られ

  • 「米軍100万人でも100年かけても落ちない」——タラワ島ベシオ、日本軍最強の要塞

    太平洋の小島に築かれた難攻不落の要塞 ギルバート諸島のタラワ環礁に位置するベシオ島では、日本軍による陣地構築が1年以上にわたって続けられていた。ここにはギルバート方面の日本軍司令部と、諸島唯一の飛行場が置かれ、さらに驚異的なまでの防御施設が積み重ねられていたのである。 島の大きさは全長5キロ、幅は最大でも500メートルほど。しかしその海岸線一帯には、半ば土中に埋め込まれた砲座、ブロックハウス、そしてトーチカ(コンクリート製の機関銃掩体)がぎっしりと張り巡らされていた。島内では、滑走路の建設で残された空き地にも物資庫や地下壕が縦横無尽に掘られ、無数の抵抗拠点を形成していた。 これらの陣地の大部

  • タラワ環礁の戦い――「呪われた海岸」が米国民に見せた戦争の現実

    米国世論を震撼させた「呪われたタラワの海岸」 この戦いはアメリカの報道機関の第一面を飾り、「呪われたタラワの海岸」は従軍記者たちが最も好んで取り上げたテーマの一つとなりました。タラワ環礁ベティオ島の血に染まった珊瑚の砂浜へ、波がゆっくりと海兵隊員の遺体を打ち寄せるあの一連の写真ほど、戦争という過酷な現実をアメリカ国民の心に刻み込んだイメージは他にありません。 ベティオ島への上陸作戦は、太平洋戦争における新たな局面、すなわち「環礁攻略戦」の幕開けを意味していました。幸いにも、この局面は短期間で終息することになります。 中部太平洋への跳躍台、ギルバート諸島 1943年初夏、アメリカ統合参謀本部

  • ミッドウェー海戦――太平洋戦争の運命を分けた転換点

    太平洋中央の要衝、ミッドウェー太平洋のほぼ中央に位置するミッドウェー環礁は、アリューシャン列島西部とともに、戦略上きわめて重要な拠点でした。1942年6月初頭、日本軍はこの地を主要な攻撃目標と定め、空母8隻、戦艦11隻、重巡洋艦13隻、軽巡洋艦11隻、駆逐艦60隻に加え、多数の兵員輸送船や補給船からなる大艦隊を編成して差し向けました。この巨大な集結兵力を覆う航空戦力は約400機に上り、苛烈な戦闘が予感される状況でした。敵の企図を察知したアメリカ軍は、ニミッツ提督の指揮の下、空母ヨークタウン、エンタープライズ、ホーネットの3隻を同海域へ急行させます。一方、ミッドウェー島の防衛部隊は、VMF-22

  • 提督「トム・サム」の艦隊――航空支援を失ったZ部隊の苦悩

    1941年秋、ロンドンの海軍本部では数週間にわたり激しい議論が交わされ、誰も譲ろうとしなかった。最終的にチャーチル首相が強行策を押し切り、戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスは、できる限りの自力で防衛せよという条件のもと、極東へと送られることになった。シンガポールでは、この決定を歓迎する声が大半を占めたが、一部には悲観的な評価もあった。航空支援をまるで欠いた、あまりにも偏った艦隊編成だからである。本来ならZ部隊には新型航空母艦インドミタブルが加わるはずだったが、同艦は西インド諸島での試験航海中に損傷し、修理中であった。そもそもマレーのイギリス空軍(R.A.F.)には近代的な爆撃機が

  • 1939年ノモンハン事件:独ソ条約の衝撃、辞任に追い込まれた日本の首相

    1939年9月1日、ヒトラーの装甲師団がポーランドへ侵攻した。そして数日後、ノモンハン(ハルハ河)で圧倒的な勝利を収めたソ連軍の装甲部隊は、シベリア鉄道沿いに新たなソ・ポーランド国境方面へと移動を開始する。あくまで「予防措置」としての動きではあったが、その余裕は歴然としていた。信義を裏切られた日本の衝撃昭和天皇が直面したのは、単なる軍事的敗北のショックにとどまらなかった。突如締結された独ソ不可侵条約は、何よりも日本人を驚愕させた。ドイツとの同盟を信じていた日本にとって、それは信義を一方的に踏みにじられたも同然の、にわかには信じがたい出来事だったのである。責任を痛感した平沼騏一郎首相は、屈辱の中

  • ハルハ河畔の決戦 1939年:ジューコフの勝利とノモンハン事件の終焉

    静寂の中の準備、嵐の前触れ 1939年8月20日、日曜日。満蒙国境のハルハ河(ハルヒン・ゴル)沿いの前線では、異様な静けさが支配していた。それまで終日、マフラーを外した少数の戦車が前線付近を走り回り、その轟音を日本軍に聞かせ続けていた。それは聴覚的な欺瞞であり、敵を騒音に慣れさせるための巧妙な偽装工作だった。ゲオルギー・ジューコフは部下に『ソ連兵が防御について知るべきこと』と題した公式マニュアルを配布し、徹底的な準備を進めていた。そしてこの日早朝、日本軍が全く気づかぬうちに、35個歩兵大隊、20個騎兵中隊、戦車498両、装甲車346両、全口径の火砲502門が、零時(攻撃開始時刻)を静かに待って

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