世界史

古代の歴史

  • ヤシの木の赤信号――コタバル上陸作戦、激闘の夜

    コタバル沖に停泊する滝部隊コタバルに接近した部隊は、いうまでもなく「滝部隊」であった。同部隊の記録によれば、到着は午後11時。「コタバル付近に小さな漁村が見え、その灯りがまだ輝いていた。土曜の夜だから、敵は酒を飲んで踊りでもしているのだろうと思った」という。午後11時40分、船団は錨を下ろした。しかし指揮官にとって不幸なことに、その位置は予定地点から約2キロもずれていた。海岸沿いを南へ流れる海流に流されたのである。こうして船団は、敵陣地のほぼ正面に停泊することになってしまった。限界に達した波「真夜中、楕円形の月の青白い光が東の海から昇った。強い風が吹き、無線のアンテナを鳴らす音が聞こえた。波は

  • 発動されなかった「マタドール」作戦――優柔不断が招いたマラヤ開戦

    イギリス極東軍司令官ブルック・ポパムとパーシバル中将を最も悩ませたのは、兵器の貧弱さと同じくらい、ソンクラー(シンゴラ)周辺の情勢であった。敵から主導権を奪うには、日本軍がこの航空・海軍基地に到達する前に先制占領するしかなく、そのために「マタドール」と呼ばれる作戦が準備されていた。ところが9月17日、ロンドンの参謀本部は「対日戦争を回避することが政策である」と回答し、タイが敵に侵攻される前に同国へ進入することは論外だとする態度を示した。イギリス極東軍司令部にとって、この状況は混乱を通り越して呆れるほかなかった。 一時的な楽観と、その崩壊 しかし、戦時内閣特使ダフ・クーパーが到着すると、再び

  • チャーチルと参謀本部――マラヤ防衛をめぐる攻防

    イギリスは、1931年の満洲事変の頃から、日本軍によるマラヤ攻撃の可能性を検討していた。翌年にはシンガポールの防衛態勢が発動されたものの、海軍基地の運命がマラヤ半島全体の運命と密接に結びついていることに軍当局が気づいたのは、ようやく1937年になってからであった。ドビー将軍の先見的な分析その年、マラヤ駐留軍司令官ドビー将軍は、この新しい視点から問題の研究に着手し、敵が東海岸に上陸する可能性を検討した。10月、彼は従来の通説に反して、北東モンスーン期であっても上陸作戦は十分可能であることを陸軍省に報告した。さらに彼は、悪天候による視界不良が航空偵察を著しく制限するため、敵はむしろこの時期(10月

  • 「金と銀の波に乗って――マレー作戦、第25軍の運命の出航」

    山下中将と三人の師団長幸いなことに、山下奉文中将は麾下三名の師団長のうち、二人とは良好な関係を保っていた。一人は第5師団を指揮する松井太久郎中将、もう一人は第18師団を率いる牟田口廉也中将である。第5師団は極めて訓練度の高い部隊だった。日中戦争で強行上陸作戦の豊富な経験を積み、機械化も進んでおり、日本陸軍屈指の精鋭と目されていた。第18師団はやや経験が浅く、自動車化も立ち遅れていたものの、こちらも優れた評価を受けていた部隊である。その指揮官・牟田口中将は短気で気性が荒いことで知られ、飽くなき野心の持ち主としても名を馳せていた。彼は「サマー港を第5師団より後に出発しても、シンガポールへは必ず先に

  • 「……全滅の危険があっても」――マレー作戦を決めた小沢治三郎の決断

    第25軍の各師団には工兵連隊が1個ずつ増強されることになった。さらに山下奉文の直轄として4個目の工兵部隊が置かれ、新型の橋の採用と、その架設に必要な器材の量も決定された。こうして工兵たちは台湾(フォルモサ)のジャングルで、猛烈な勢いで訓練に打ち込んだのである。 急速に変化する政治・戦略情勢 軍の準備が進む一方で、政治的・戦略的な状況は目まぐるしいスピードで動いていた。7月、日本軍は南部仏印(フランス領インドシナ)に進駐し、マラヤ攻略に向けた前進海・空軍基地としてサイゴンを手中に収めた。続いて9月23日、帝国陸軍は北部仏印に進駐する。その4日後、東京はベルリンおよびローマとの間で三国同盟に調印し

  • 大佐に昼寝なし――シンガポール攻略へ挑んだ台湾軍研究部の激闘記録

    自信を取り戻した第25軍の将校たちマレー侵攻の延期を真剣に考える者は一人としていなかった。むしろ一部の将校たちは、準備のこの段階で「もしも」という条件を付け加えること自体を批判し、それは部隊の士気に悪影響を及ぼしかねないと考えていた。翌朝、山下奉文中将が若手将校たちを召集し、軍司令官として最初の命令を下すと、自信はたちまち戻ってきた。将校たちの感動は頂点に達し、涙を流す者さえ現れた。彼らにとってその日は、1914年のプロイセン将校たちにとっての「Der Tag(その日)」のようなものだった。長年夢見て、備えてきた日――ひとことで言えば、英国を打ち倒す機会を神々から授かった日なのである。彼らは指

  • 初穂──マレー侵攻前夜、第25軍出航の記録

    三亜港、船団到着を待つ緊張の48時間 1941年12月2日の午後、海南島・三亜(サムアー)港に置かれた日本軍第25軍の司令部では、参謀たちと、部隊輸送を担当する気良中佐が、絶えず海の彼方を見つめていた。タイおよびマレー侵攻に投入される部隊を運ぶはずの輸送船は計20隻。ところが、予定時刻になっても入港したのはわずか3隻にとどまっていたのである。 船団は日本本土の各港のみならず、上海、広州、そして台湾(当時の呼称はフォルモサ)からも集結する手はずだった。各船の士官たちが命令を誤解したのか、それとも航海中に何らかの困難に遭遇したのか、岸からは知る由もない。しかも無線通信は一切禁止されていたため、気

  • 真珠湾攻撃――日本海軍の奇襲がアメリカを第二次世界大戦へ引き込んだ日

    真珠湾攻撃以前の数年間、日本の帝国政治・軍事勢力は中国大陸への侵攻を進め、沿岸地域や満洲の豊かな内陸部の支配拡大を図っていました。アジアにおける征服の拡大を検討していた日本の指導者たちは、アメリカとの戦争は「短期的であれば勝算がある」と認識していました。もし戦争が1年を超えれば、アメリカの巨大な工業生産能力が最終的に圧倒的な優位に立つことは明白だったのです。 日本の構想はシンプルでした。軍事力と海軍力のすべてを集中し、石油や資源が豊富な東南アジア諸国(タイ、マラヤ、フィリピン、オランダ領東インド)を征服する。この計画は「東方電撃戦」として知られるようになりました。その目的は、東南アジアに日本

  • ストラグラーズ――終戦後も戦い続けた「残留日本兵」たちの記録

    ストラグラーズ(残留日本兵)とは「ストラグラーズ(stragglers)」とは、1945年8月の日本の降伏によって第二次世界大戦が終結した後も、戦闘行動を続けた旧日本軍の兵士を指す言葉である。日本語では「残留日本兵」と呼ばれ、太平洋戦争の歴史において特異な存在として知られている。なぜ彼らは戦い続けたのか終戦後も戦闘を続けた背景には、大きく二つの要因がある。第一に、当時の軍人教育が「降伏は恥」とする価値観を深く植え付けていたため、日本の敗北そのものを信じられなかったケース。第二に、米軍が進めた飛び石作戦(レープフロッグ作戦)により守備隊同士の連絡が遮断され、終戦の事実が伝わらないまま孤島に取り残

  • タイ・フランス戦争(1940~1941)――忘れられた死者たち

    タイ・フランス戦争(1940年~1941年)は、プレック・ピブーンソンクラーム将軍(通称ピブーン)率いるタイ王国と、ヴィシー政権下のフランスとの間で、インドシナ半島を舞台に行われた戦争である。開戦の背景1940年のフランス敗北後、タイ首相ピブーンは、チュラーロンコーン大王(ラーマ5世)の時代にフランスへ割譲した領土を回復する絶好の機会と捉えた。すなわち、1904年に失ったメラウ・プレイ州およびトンレ・プー州、1907年に失ったバタンバン州、シソフォン州、シエムリアップ州(いずれも当時カンボジアに帰属)であり、同時に1893年(ラオスのフランス領インドシナへの併合)や1904年に受けた屈辱への報

  • メルセルケビール事件の真相――アレクサンドリアではなぜ流血を避けられたのか

    1940年7月3日に実行されたメルセルケビール作戦は、イギリス本国の港湾に停泊していたフランス軍艦の接収作戦と同時に行われるよう綿密に計画されていた。当日午後3時40分、武装したイギリス水兵の部隊は、ポーツマスとプリマスに停泊する艦船へと静かに接近した。奇襲効果を狙って入念に準備されたこの作戦は概ね成功を収めたが、ただ一つ、プリマスに停泊していた大型潜水艦「シュルクーフ」でトラブルが発生し、イギリス士官2名が負傷、フランス人将校1名が死亡するという犠牲を出した。フランス艦の士官や水兵たちは、マン島およびリバプール近郊の別々の収容所に抑留され、事実上、捕虜として扱われた。自由フランス軍に志願した

  • 気の進まない提督たち――メルセルケビールの最後通牒と悲劇

    ダルランの密命 早くも6月20日、フランス海軍総司令官ダルラン大将はすべての艦船・港湾司令官宛てに暗号電文を送り、次のように指示していた。「いかなる命令を受けようとも、無傷の艦艇を敵に渡すことは決して許されない」。休戦協定調印の4日後、彼はこの命令を再確認し、艦艇が拿捕の危機に瀕した場合には自沈の準備を整えるよう付け加えた。しかし、たとえこの指令がロンドンに知られていたとしても、イギリス内閣の確信――ドイツが艦隊奪取を企てれば必ず成功するだろうという信念――を揺るがすことはなかっただろう。 H部隊の編成と四つの選択肢 こうして6月27日、フランス艦艇が本国の港へ戻るのを防ぐ措置を講じることが

  • 1940年休戦協定とフランス艦隊の運命 ― ダルラン提督の誓約と第8条をめぐる攻防

    1940年6月、フランスの敗勢が決定的となるなか、ルブラン大統領はペタン元帥に組閣を要請した。この新内閣において、ダルラン海軍大将が海軍大臣に就任し、同時に艦隊総司令官の職務も兼ねることとなった。 ダルラン提督という人物 ダルランは野心的でありながら有能な海軍軍人で、その経歴を通じてフランス海軍を極めて高い水準まで効率化させた人物だった。また、家系を通じて政界にも精通していた。国家の危機に際して彼がペタン元帥に忠誠を誓ったことこそが、軍事・政治の両面で彼一人の指揮下に置かれた艦隊の、悲劇的な運命を説明する鍵となった。 当時のフランス艦艇の多くは、極めて近代的でありながらレーダーやソナーを装備

  • 悲劇への道──ダンケルク後のフランス崩壊と英仏の攻防

    フランス本土への侵攻と停戦交渉の開始ダンケルクでの撤退劇の後、ドイツ軍は一瞬たりとも無駄にすることなく、フランスの心臓部へと突き進んだ。6月中旬までにフランス軍は組織的な抵抗を続ける能力を完全に失い、ポール・レノー首相はドイツに休戦条件を問うため、イギリス政府の同意を求めざるを得なくなった。6月16日の午後に届いたチャーチルの回答は、きわめて事務的なものであった。「交渉開始までの間、フランス艦隊を直ちにイギリスの港湾へ回航させることを条件として――そしてその場合に限って――、陛下の政府は、フランス政府が休戦条件を確認するために行う一歩に同意する」艦隊を巡る戦略的思惑この回答の背後には、極めて重

  • 魚雷とカトラス――マタパン岬海戦、イタリア艦隊の最期

    イギリス海軍が後に知ることになった真実 イタリア艦隊が、逃走する自軍の大部隊から離れていった理由を、イギリス海軍が知るのはずっと後になってからだった。その説明は実に単純なものである。夕暮れ時のイギリス軍の空襲の後、イタリア艦艇は静かに自基地へ向かっていた。そして午後8時過ぎ、ヤーキーノ提督はザーラからポーラ宛ての信号を傍受した。「位置を報告せよ」。その少し後、ザーラは旗艦に向けてこう伝えた。「ポーラは艦尾に魚雷を受け、航行不能となったと報告しています」。それまでヤーキーノは、この艦の運命を一切知らされていなかったのである。 麾下の巡洋艦の指揮官たちと同じように、このイタリア海軍提督は、プリダ

  • 「ヴィットリオ・ヴェネト」を追え――マタパン岬沖海戦、運命の夜戦

    空母フォーミダブルの攻撃 決定的なこの瞬間、空母フォーミダブルから発進した航空機がイタリア艦隊を攻撃した。イタリア側はこれを撃退し、双方ともに目立った損害を受けることはなかった。戦艦ヴィットリオ・ヴェネトは離脱を図ったが、カニンガム提督率いる英艦隊は執拗に追撃を続けた。 フォーミダブル所属の雷撃機5機が再びヴィットリオ・ヴェネトに襲いかかった。さらに午後3時30分には、同艦は高高度から英国空軍(RAF)機の攻撃も受けた。こちらは命中弾こそなかったものの、対空砲火の注意を引きつけることに成功し、その隙にフォーミダブルの雷撃機が波すれすれの超低空で突入することができたのである。 魚雷が命中 ヴィ

  • スーツケースとゴルフクラブ――カニンガム提督の奇策とマタパン岬沖海戦

    ドイツの圧力とイタリア艦隊の出撃 ドイツは同盟国イタリアに対して十分な圧力をかけ、イギリス船団への攻撃を促すことに成功した。ドイツ空軍は、3月16日に東地中海で雷撃機がカニンガム提督麾下の3隻の戦艦のうち2隻を行動不能にしたと発表してイタリア側を鼓舞した――もっとも、これは虚偽であった。しかし、いったんドイツ空軍がイタリアへの支援を約束した以上、枢軸国のパートナーの意向に背くことは難しくなっていた。 イタリア艦隊司令長官イアキーノ提督が指揮するこの作戦では、本国の港湾から東へ向かう2波の巡洋艦部隊が出撃し、クレタ島の北と南の海域を掃討することになっていた。北方部隊は島の東端のできるだけ近くま

  • マタパン岬の戦い ― 地中海の制海権を決めた英伊海軍の攻防

    1941年2月中旬、ドイツ海軍総司令官エーリヒ・レーダー元帥は、イタリア海軍参リア海軍参謀総長アルトゥーロ・リッカルディ提督と会談し、イタリア水上艦艇によるイギリス輸送船団への攻撃の可能性について協議した。しかし、両者は合意に至る根拠を見出せなかった。ところが3月5日、ギリシャに展開するイギリス軍が着実に増強されるに及んで、ドイツ側は再びイタリアに支援を求めた。だがイタリアには、その要請に応じる意思がほとんど残されていなかった。 イタリア海軍を悩ませた三つの制約 航空掩護の欠如 第一の問題は航空支援の不足だった。ムッソリーニは早くから「イタリアに航空母艦は不要」との判断を固めており、空母の整備

  • エル・アラメインの戦い:ドイツ軍は異変に気づき、反撃を開始した

    地雷原の回廊突破と夜明けの苦戦地雷原に二本の回廊を開削する任務は、迅速かつ見事に遂行された。しかし夜明けまでに、戦車部隊はそれ以上前進することができなかった。一晩中、ミテイリヤ稜線では激しい戦闘が続き、敵も我慢比べで正気を取り戻すや否や、砲兵と迫撃砲の火力を回廊に集中させ始めた。そこへ第15装甲師団が反撃に打って出たのである。10月24日の夜明け、軍司令官は状況を再検討した。作戦は順調な出だしを見せたものの、あらゆる努力を尽くして主力部隊を通過させることが不可欠であると判断。そしてニュージーランド師団に対し、直ちに敵の陣地防御への「かじりつき(ニブリング)」攻撃を開始するよう命じた。南正面:第

  • エル・アラメイン――千門の砲声が轟いた夜

    突如として空が光り輝き、凄まじい轟音が大気を切り裂いた。千門を超える火砲が一斉に射撃を開始した瞬間である。それは圧巻の光景だった。北から南まで、砂漠の至るところで砲口の閃光が絶え間なく明滅し、西側の敵陣の空は、折にふれて赤い爆発の炎に照らし出された。そのたびに、第30軍団の砲兵を指揮する准将は満足げに低いうなり声をもらした。敵の砲兵隊がまた一つ、沈黙させられたのだ。続いて歩兵が躍り出た。ボフォース対空砲の曳光弾が歩兵たちに進撃の方向を示し、後方に配備された探照灯は、空へ向かって光の柱を立ち上らせた。第一線の各部隊はこの光を目印に方位を定め、目標地点に達した時を知った。この一帯の砂漠では、地形上

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