世界史

アジアの歴史

  • 誰も知らなかった縄文人の恋愛事情――出会い、出産、子育ての実像

    みなさんは今、恋をしていますか?これまでの人生で、誰もが一度や二度は恋をしたことがあるのではないでしょうか。時代や文化によって、恋愛に対する価値観は大きく異なります。貴族社会であった平安時代には、家柄の上下が恋愛の大きなポイントでした。合戦が絶えなかった戦国時代には、大名同士の政略結婚が当たり前のように行われていました。また、優れた子孫を残して家を存続させるため、有力者は一夫多妻制をとり、側室を持つことも許されていました。そんな日本の恋愛事情ですが、はるか昔の縄文時代はどのようなものだったのでしょうか。今回は、縄文人の暮らしと恋愛について書いていきたいと思います。なお、本記事は発掘調査によって

  • 日本初の本格的な奴隷解放を実現した豊臣秀吉

    戦国時代、戦争に敗れた人々は財産を奪われ、抵抗すれば殺され、生き残っても奴隷として売られるのがごく普通のことでした。こうした奴隷制度は世界的にも広く見られましたが、実は日本でも数百年前まで非常に一般的に行われていたのです。この時代の足軽は、たとえ戦場で武功を立てても領地を与えられることはなく、特別なことがない限り、主人である武士からの報酬しか得られませんでした。そのため、足軽たちは乱暴狼藉や略奪(乱取り)を黙認されており、敵の集落から金品を奪い、人を人身売買して私腹を肥やすことも珍しくなかったのです。戦国武将も奴隷の売買を行っていたこのような奴隷取引は足軽だけの話ではありません。有名な戦国大名

  • 美しき義経と醜き義経 ~“二人の源義経”の謎~

    平家を滅ぼし、鎌倉に幕府を開いた源頼朝の弟・源義経は、数々の逸話に彩られた人物です。ところがその容貌については、美少年だったとする記述と、醜かったとする記述が混在しており、評価が大きく分かれています。二人の義経『源平盛衰記』では、義経は「肌は白く、顔立ちが美しく、立ち居振る舞いも優雅」と称えられています。また『義経記』には「眉目秀麗で比類なき美貌」と記されています。さらに、義経を襲った盗賊たちが、義経を絶世の美女・楊貴妃になぞらえたという話も残っており、多くの女性が憧れた人物であったことがうかがえます。一方、『平家物語』では「堂々たる貴族たちに比べると見劣りする」「背が低く、出っ歯である」と厳

  • 蒙古襲来に「神風」は吹かなかった!? 元寇の真実を史料から読み解く

    13世紀、モンゴル帝国の皇帝クビライ・ハンが君臨する元(げん)による日本侵攻――元寇(げんこう)。1274年の文永の役、1281年の弘安の役と、二度にわたって日本へ攻め込んだ元軍を撃退したのは「神風(かみかぜ)」だと語り継がれてきました。しかし、当時の史料を丁寧に読み解くと、「神風が元軍を滅ぼした」という通説には疑問が残ります。この記事では、二度の蒙古襲来における「神風」の実態を、史料に基づいて検証していきます。文永の役(1274年)――そもそも台風の時期ではなかった最初の侵略である文永の役は、1274年に起こりました。時期は新暦の11月下旬。日本列島に台風がほとんど発生しない季節であり、船が

  • 第二次世界大戦中の日本政治──天皇・政府と軍部の関係をわかりやすく解説

    明治時代以降、日本は数多くの対外戦争を経験してきました。近代史をたどると、軍隊や軍人が歴史の表舞台に立つ場面が何度も登場します。戦争に関する出来事を正確に理解するには、「軍部と政治がどのような関係にあったのか」を押さえておくことが重要です。本記事では、大日本帝国憲法下における天皇の権限を起点に、政府と軍部の関係を整理して解説します。大日本帝国憲法下における天皇の権限明治維新直後の政府は太政官制を採っていましたが、各地で自由民権運動や議会開設の要求が高まるなか、1885年(明治18年)についに内閣制度が発足しました。この内閣制度を基盤として官僚機構や地方制度が整備され、続いて制定されたのが大日本

  • 本能寺の変は明智光秀の単独犯行だった!?黒幕説を徹底検証

    天正8年(1580年)、石山本願寺との長年にわたる戦いに決着がつき、佐久間信盛親子は織田家から追放されました。 このとき織田信長は、信盛に対して19か条からなる「折紙」を書き渡しています。その一部を現代語訳でわかりやすく紹介すると…… 一、佐久間信盛父子は天王寺に五年在陣しながら、本願寺攻めにおいて何らの功績を挙げられず、世間から疑いの目を向けられている。まことに気の毒なことである。 まず丹波国における明智光秀の働きはめざましい。数か国を任されている羽柴秀吉の活躍もまた比類がない。池田恒興は小柄な男ではあるが、花隈城を瞬く間に攻略し、その名誉を天下に轟かせた。これを聞けば、信盛も奮起して手柄を

  • 明智光秀はなぜ信長を討ったのか?本能寺の変の動機を探る

    前回の記事では、本能寺の変が明智光秀による単独犯行であり、好機を捉えた奇襲であったという説について書きました。※あくまで一つの説です。 今回は、なぜ光秀は信長に反逆したのか。その動機について考えてみたいと思います。 明智光秀の狙いは織田信长ただ一人!? 本能寺の変の時点で、織田家の家督はすでに嫡男・織田信忠に譲られていました。 もちろん実権は信長が握っていましたが、名目上の当主は信忠です。 もし光秀が天下を狙っていたのなら、本能寺で信長を討った後に立ちはだかる強敵を排除するはずです。つまり、妙覚寺に駐屯していた織田信忠を同時に攻撃する必要があったはずなのです。 有能な光秀がそのことを忘れるはず

  • 豊臣秀吉は朝鮮出兵の際も奴隷を解放していた!?文禄・慶長の役の知られざる側面

    豊臣秀吉は1592年(文禄元年)の文禄の役、そして1598年(慶長3年)の慶長の役と、二度にわたって兵を朝鮮半島へ進めました。 この朝鮮出兵は、秀吉の傲慢さが生んだ無謀な思いつきとして語られることも少なくありません。しかし実際には、周到な準備がなされた壮大な構想だったことが分かっています。 たとえ秀吉が天下人であったとしても、当時の日本は各大名がそれぞれ半ば独立した国家のような存在でした。いくら秀吉が「よし、朝鮮へ攻め込むぞ!」と宣言しても、自ら進んで従う大名はほとんどいなかったはずです。 さらに当時の日本経済は、商業を通じた貨幣経済によって相当な富を蓄えていたと考えられており、食うに困るほど

  • 織田信長の有名な政策は実は「二番煎じ」だった!? 先人から学び徹底実行した天下人の真価

    織田信長の政策や戦術は、どれも時代に先駆けたものとして高く評価されています。鉄砲の活用、楽市楽座、関所の廃止、石垣による城造り、天守の建設、兵農分離、本拠地の移動――信長の政策は挙げればきりがありません。しかし実は、その多くはすでに他の大名が先に行っていたものばかりだったのです。鉄砲の導入、実は武田信玄の方が早かった?織田氏は鉄砲を早期に導入したことで知られていますが、特に早かったわけではありません。たとえば武田信玄といえば騎馬隊のイメージが強いものの、1555年頃には国境の城に鉄砲300丁を配備した記録が残っています。この頃の信長は、家督を相続して清洲城へ移ったばかり。鉄砲の本格的な活用にお

  • 日本人にはネアンデルタール人の血が流れていた!? 遺伝子に残る痕跡と絶滅の謎

    ネアンデルタール人は現代人の直系の祖先ではない ネアンデルタール人は、約40万年前に出現し、およそ4万年前に姿を消したとされるヒト属(ホモ属)の一種です。かつては現生人類であるホモ・サピエンスの古いタイプ、すなわち祖先の一つとみなされていましたが、近年の研究により「直接の祖先ではなく、まったく別の系統」という見方が有力になっています。 両者の遺伝子の違いは、別個の種とみなせるほど大きく、「混血はあり得ない」という考えが長らく主流でした。ところがゲノム解析技術の進歩により、現代人のDNAの中にネアンデルタール人由来の遺伝子が確かに組み込まれていることが明らかになったのです。 私たちの祖先はどの

  • 豊臣秀吉が朝鮮出兵した本当の理由――スペインの東アジア侵攻を防ぐためだった?

    農民出身ながら織田信長の後継者として天下統一を成し遂げ、関白・太政大臣まで昇りつめた豊臣秀吉。その功績は歴史に輝くものであり、高く評価されるに値します。しかしその華々しい功績とは対照的に、晩年に行った朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は、出兵の目的が歴史上明確にされていないため、「配下の武将たちに活躍の場を与えるため」「領土欲のため」など、さまざまな憶測が飛び交っています。本記事では、出兵当時の国際情勢をひもときながら、その「本当の理由」に迫ります。16世紀後半の世界情勢当時の世界では、スペインとポルトガルが1494年に締結したトルデシリャス条約により、西アフリカ・セネガル沖を通る子午線(西経46度3

  • 戦国時代最強の軍師ランキングTOP5!歴代の名将たちを徹底解説

    軍師とは?その誕生の背景武将といえば、主君に仕えて戦略や戦術を献じる参謀のようなイメージがありますが、こうした「軍師」の姿は、実は戦国時代の中期になって現れた新しい形態でした。それまでの武士たちは、陰陽道などの占術を得意とする軍配者だったと言われています。占いによって吉凶を判断し、出陣の日時や作法などを助言するのが仕事で、現在のような戦術を考える立場ではなかったのです。参謀型軍師の登場戦国時代も中期に入ると、従来の軍配者とは異なる、作戦立案を担う参謀型の軍師が現れます。将の数が数百〜数千人程度であれば、軍配者の見立てだけでも戦えたかもしれません。しかし、大規模な合戦が増えた戦国中期にはそれでは

  • 日露戦争の戦費負担が招いた国民の不満と桂園時代

    日露戦争で日本は勝利を収めましたが、その勝利は決して余裕あるものではありませんでした。戦争による損害は甚大で、戦費の国民的負担は限界を超えるほどの重さになっていたのです。 ポーツマス条約の内容と賠償金問題 一方、敗れたロシアでも革命運動が高揚し、国内政治は危機的な状況にありました。ヨーロッパ諸国も革命の波及を恐れる中、アメリカの仲介によって日本とロシアはポーツマス条約を締結します。 ポーツマス条約のおもな内容は次の通りです。 韓国における日本の指導権・利益の承認 ロシアが清国から獲得していた旅順・大連の租借権と、長春以南の鉄道権益の日本への譲渡 北北緯50度以南の樺太および付属諸島の

  • 大正政変と第一次護憲運動

    ```html 明治後期、資本主義の発展に伴い、労働問題は次第に深刻さを増していきました。明治30年代前半には製鉄業や鉄道業などで労働組合が結成され、労働争議が発生するようになりました。これに対抗するため、政府は1900年(明治33年)に労働者の団結を制限する治安警察法を公布します。この法律によって、日本初の社会主義政党である社会民主党は、結成直後に禁止されてしまいました。明治政府への不満の高まりその後も社会主義者たちは、機関誌などを通じて反戦運動を展開するなどの活動を続けました。日露戦争後になると労働争議は一層激化し、1906年(明治39年)には日本社会党が結成されますが、翌年には解散命令を

  • 日本も権益強化を目的に参戦した第一次世界大戦

    年表で振り返る第一次世界大戦第一次世界大戦は、1914年に起きたサラエボ事件を発端として始まり、1919年のヴェルサイユ条約調印によって終結しました。まずは全体の流れをつかみやすいよう、主要な出来事を年表にまとめました。本文を読み進める際にも、ぜひ参考にしてください。年主な出来事1914年6月サラエボ事件が発生オーストリアがセルビアに宣戦布告ロシア・ドイツ・フランスなど各国が相次いで参戦同年8月日本がドイツに宣戦布告オスマン帝国も参戦同年10月日本海軍がドイツ領南洋諸島を占領同年11月日本軍が膠州湾の要衝・青島を占領1915年1月袁世凱政権(中華民国)へ対華21カ条要求を提示1916年7月第4

  • 江戸時代の服装は実はこんなに変わった!初期・中期・後期で見る庶民の着物事情

    江戸時代は、徳川幕府による徹底した管理と統治のもとで始まりましたが、5代将軍・徳川綱吉の時代を境に、少しずつ変化していきます。 幕府の慢性的な財政難も影響し、江戸幕府は徐々に衰退への道をたどっていきました。それでも約260年間続いた江戸幕府の歴史は、前期・中期・後期の3つの時期に分けることができます。 前期:初代・家康から5代将軍・綱吉まで 中期:6代将軍・家宣から10代将軍・家治まで 後期:11代将軍・家斉から15代将軍・慶喜まで 260年の間に15人の将軍が交代し、さまざまな政策が実施されました。同時に、町の様子や食文化、暮らしのスタイルも時代とともに変化していきました。 今回は、その

  • なぜ帝国主義はこれほど広まったのか?――経済と政治の視点から解説

    明治時代以降、相次いで起こった数々の戦争の背景には、「帝国主義」という思想・政策がありました。これは日本だけでなく、世界中の多くの国々で推し進められたものです。本記事では、どのような状況が帝国主義を生み出し、それを蔓延させたのかを紐解いていきます。帝国主義とは何か?帝国主義とは、自国の経済的・軍事的な力を背景に、他国への支配や影響力の拡大を目指す思想および政策のことです(参考:コトバンク「帝国主義」)。帝国主義を最初に体系的に分析したのは、レーニンの帝国主義論です。レーニンは著書の中で、帝国主義を資本主義の発展段階の一つとして捉え、巨大な独占資本が国家権力と結びつき、海外へ進出していく構造を指

  • 織田信長による楽市楽座の目的とは?天下布武を支えた経済改革

    1541年、土岐頼芸が斎藤道三によって美濃国から追放されると、美濃は斎藤氏の支配下に入りました。織田信長の父・織田信秀も1547年に美濃へ侵攻しましたが、稲葉山城の鉄壁の守りを前に敗退しています。その後の和睦の際、斎藤道三の娘・濃姫と織田家嫡男・信長の縁談がまとまりました。正徳寺での信長と道三の会見では、道三は信長の才を見抜き、「美濃はいずれ信長のものとなる」と語ったと伝えられています。美濃攻略と天下布武への道1554年頃から斎藤道三と息子・斎藤義龍の対立が深まり、1556年には道三が義龍に敗れました。敗れる前に道三は「美濃を婿の信長に譲る」と遺言し、これを受けた信長は「舅の敵(しゅうとのかた

  • 北条早雲が育んだ城下町・小田原|下剋上の名君が築いた難攻不落の城

    戦国時代といえば「下剋上」。その代表格として知られるのが、一介の浪人から身を起こし、相模一国を支配下に置いた北条早雲(ほうじょうそううん)です。早雲を祖とする後北条氏は五代・約100年にわたって関東に覇を唱え続けました。 同じく下剋上の典型として名高いのが斎藤道三です。道三は無名の身分からスタートし、僧侶や油売りを経験したのち美濃国へ。やがて守護・土岐氏を追い出し、戦国大名へのし上がりました。 ところが、この二人の末路は対照的でした。後北条氏が約100年・五代にわたって栄華を極めたのに対し、道三は実子・義龍との長良川の戦いで討ち死に。その後、美濃は娘婿の織田信長の手に渡り、斎藤氏はあっけなく滅

  • 独特の経済感覚で莫大な遺産を子孫に残した徳川家康──埋蔵金伝説の正体

    かつてテレビ番組で「徳川埋蔵金」を探す企画が放送され、大きな話題を呼びました。しかし歴史を紐解いてみると、長年財政難に苦しんできた江戸幕府に、隠された財産があったとは考えにくいというのが大方の見方です。 それでも埋蔵金伝説が消えないのは、その発生源とされる徳川家康の莫大な遺産が実在したからこそ。今回はその遺産の規模と、家康ならではの「儲けの技術」に迫ります。 徳川家康が遺した莫大な遺産 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、徳川の天下を確立させた家康は、翌元和2年(1616年)、駿府で75歳の生涯を閉じました。 このとき遺された遺産は極めて巨大で、現金だけでも100万石以上、

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