世界史

アジアの歴史

  • 縄文時代の気候変動 ~約7万年前の寒冷化から弥生時代への転換点まで~

    約7万年前、世界規模の寒冷化が始まるおよそ7万年前、それまで温暖だった地球の気候は世界的に寒冷化し、ウルム氷期と呼ばれる氷河時代が約1万年前まで断続的に続きました。氷期は長期間続きますが、2万年前頃からは次第に温暖へ向かう兆しが見え始めます。ただし実際には、2万年前から1万5000年前にかけては「寒の戻り」と呼ばれる時期にあたり、非常に厳しい寒さが続きました。当時の日本付近の平均気温はマイナス7℃ともいわれ、シベリアに匹敵するほどの寒冷さでした。本格的に暖かさを実感できるようになったのは、1万5000年以降のことです。氷期には陸地に大量の氷が蓄積される氷期には、陸地上に大量の氷が蓄えられます。

  • 弥生文化の始まりは紀元前10世紀にさかのぼる?日本古代史を塗り替える新説

    弥生時代は、大陸や朝鮮半島から水稲農耕の文化が日本列島にもたらされたことを起点として始まるとされています。日本における稲作文化は北部九州で始まったとされ、従来は紀元前5世紀頃と考えられてきました。しかし近年の研究では、その始まりはさらにさかのぼり、紀元前10世紀後半とする説が有力になりつつあります。炭素14年代測定が示す新しい年代観北部九州で出土した弥生時代早期から前期にかけての土器を、放射性炭素(炭素14)年代測定法で分析したところ、紀元前900年〜800年頃に年代が集中するという結果が得られました。この結果に基づけば、日本列島の住民が本格的に水田耕作を開始した時期は、紀元前10世紀にまでさ

  • 本能寺の変で明智光秀は犯人ではなかった!?実行犯別人説を徹底検証

    下剋上が常態化していた戦国時代とはいえ、主君・織田信長への謀反はあまりにも衝撃的でした。日本史上最大のミステリーとも呼ばれる本能寺の変については、明智光秀の動機や背景をめぐって数々の謎と諸説が残されています。そもそも歴史は当時の権力者の都合によって書き換えられるもの。残された文献がすべて真実であるとは限りません。明智光秀の本能寺への進軍ルート2007年にNHKで放送された番組によれば、明智光秀は丹波亀山城を出発し、老ノ坂峠を越えて京都に入り、桂川を渡って本能寺へ到着した――これが各種史料に基づく定説とされるルートです。このルートの場合、亀山城から本能寺までは約20kmあります。光秀が6月1日午

  • 本能寺の変で織田信長の遺体はなぜ発見されなかったのか?

    日本史上最大級の謎とされる「本能寺の変」。明智光秀による謀反の動機や背後にいた黒幕の存在など、さまざまな説が語られていますが、もうひとつ大きな謎として知られているのが、織田信長の遺体が最後まで発見されなかったという事実です。謀反人の本人である明智光秀はもちろん、山崎の合戦で光秀を破った羽柴秀吉ですら、信長の遺体を見つけることはできませんでした。捜索したのに信長の遺体は見つからなかった天正10年6月2日(1582年)、明智光秀は早朝6時頃に本能寺を包囲しました。まさに典型的な奇襲作戦といえます。本能寺は城郭寺院とされ、ある程度の防御力を備えていたともいわれますが、1万とも3万ともいわれる大軍を前

  • 張作霖爆殺事件とは?関東軍の謀略から満洲事変への流れを解説

    前回の記事からは大きく時代が変わりますが、今回は1928年、日本の関東軍によって中国・奉天派(ほうてんは)の首領であった張作霖(ちょう・さくりん)が爆殺された事件に焦点を当てて解説します。 「この事件を仕組んだのは日本ではないのか?」という疑問を持つ方もいるかもしれません。確かに諸説ありますが、一般に関東軍が犯人とされているため、本記事ではその通説に基づいて説明を進めていきます。 張作霖爆殺事件以前の国内外の情勢 1914年から1918年にかけての第一次世界大戦が終結すると、関東軍は関東州都督府から分離されました。同時に、世界規模の戦後恐慌が始まります。 さらに1921年には四カ国条約が調印さ

  • ロシア・バルチック艦隊を撃破した日本艦隊の作戦とは?~日本海海戦と「東郷ターン」の秘密~

    近代戦争史に燦然と輝く激戦のひとつが、日露戦争です。なかでも日本海海戦(バトル・オブ・ツシマ)は、日露戦争の勝敗を決した決戦とされ、その後の日本海軍の転換点となった海戦として知られています。極東へ向かうロシア・バルチック艦隊1905年1月1日、日本軍は旅順を占領してロシア太平洋艦隊を撃破し、当初の目標を達成しました。しかし、それより前の1904年10月15日、ロシアは増援としてバルチック艦隊を極東へ派遣する航海をすでに開始していました。バルチック艦隊は、旅順陥落の報を受けた後も、極東海域の制海権を掌握し、満洲方面の陸戦を支えるために極東へと向かいました。「バルチック艦隊来襲」の情報を得た日本軍

  • 毛利元就の「三本の矢」は後世の創作だった!?史実「三子教訓状」が語る真実

    戦国時代を代表する智将・毛利元就といえば、誰もが「三本の矢」の逸話を思い浮かべるでしょう。しかし、この有名な故事は史実ではなく、後世に創作されたものだとされています。とはいえ、こうした伝説が生まれるほど、当時の毛利元就の存在がいかに大きかったかを物語る証左とも言えるでしょう。ただし、この逸話は完全な架空の話というわけではありません。その元となった文書が、現代までしっかりと残されているのです。毛利元就が遺した「三子教訓状」安芸の国人から身を起こし、中国地方と九州の一部を支配する大大名へとのし上がった毛利元就。石高にして170万石超を誇る毛利氏の当主として、合戦と謀略を駆使して半世紀を過ごした元就

  • 徳川家康が描いた江戸の街づくり〜埋め立てと大名屋敷が生んだ巨大都市〜

    1590年(天正18年)、小田原征伐により北条氏が滅亡すると、関白・豊臣秀吉は徳川家康に関東への移封を命じました。当時の江戸周辺には、太田道灌が築いた江戸城こそあったものの、広大な湿地が広がり、人口も小田原に及ばない土地でした。天下人に肩を並べる大大名となった家康にとって、決して恵まれた環境とは言えません。さらに、関東には鎌倉幕府の中心地であった鎌倉があるため、家臣の中には「鎌倉を中心に街づくりをすべきだ」と進言する者もいました。しかし家康は、小田原でも鎌倉でもなく、江戸という土地の将来性を見越し、新たな拠点として選んだのです。大坂の町を参考に造られた江戸まず家康が着手したのは、江戸城の改修工

  • 江戸幕府の主な役職とは?大老・老中・三奉行など幕府組織をわかりやすく解説

    徳川家康が征夷大将軍に就任すると、約260人の大名と主従関係を結びました。徳川氏の政権を「幕府」、大名が治める領国を「藩」と呼びます。このように、将軍と大名がそれぞれ強い支配権をもって土地や領地を統治する体制は「幕藩体制」と呼ばれ、3代将軍・徳川家光の時代に確立されました。江戸幕府では、この幕藩体制を軸に政治が運営されていました。家康が幕府を開くと戦乱の時代が終わり、人々は安定した生活を取り戻します。しかし平穏になる一方で、家臣たちの忠誠心を確認しにくくなったため、将軍は各藩に参勤交代や城の普請(修築)、治水工事などを課すようになりました。さらに公家や朝廷の権威を抑えるため、「禁中並公家諸法度

  • 小氷河期の江戸時代、人々はどうやって寒さを生き抜いたのか?

    近年、戦国時代の始まりについて新しい説がささやかれています。世界的には、14世紀半ばから19世紀半ばにかけて「小氷河期」と呼ばれる寒冷期が続いたとされています。特に15世紀から17世紀初頭にかけて気温が顕著に低下しました。気温差はわずか2〜3℃程度ですが、農作物にとっては生死を分けるほど重大な問題でした。そのため日本では、戦国時代から江戸時代にかけて、稲の不作による飢饉が頻発しました。現在でも不作は起こりますが、輸入米があるため深刻な社会問題にはなりません。しかし当時は、まさに命に関わる切実な問題だったのです。実は、合戦の多くは秋から翌年の春にかけて行われることが多かったのです。これには理由が

  • いつの間にか変わっていた!?足利尊氏の肖像画をめぐる謎

    歴史の授業で一度は目にしたことがあるあの肖像画——黒い馬にまたがる武者の絵です。室町幕府初代将軍・足利尊氏の肖像として、昔から歴史を学んできた人なら誰もがご存じの一枚でしょう。 将軍だけあって、いかにも強そうな佇まい。ところが、この肖像画はいつの間にか「足利尊氏の肖像」ではなくなっていました。いったい何があったのでしょうか。 あの肖像画は高師直だった!? この肖像画が足利尊氏のものとされたのは、1919年、歴史学者・黒板勝美が論文で紹介したことがきっかけです。以来、半世紀にわたり「馬上の尊氏像」として広く受け入れられてきました。 ところが1968年、古文書学の専門家・萩野三七彦が「これは尊氏で

  • 桶狭間の戦いは奇襲ではなかった?新説が浮上

    織田信長はどのようにして今川義元を破ったのか――以前、このテーマで記事を執筆しました。その記事の中では、桶狭間で休息していた今川軍に対し、少数の織田軍が山の裏側から奇襲を仕掛けて勝利した、という定説に基づいて解説しました。信長公記と甫庵信長記における桶狭間の解釈の違い桶狭間の戦いを調べるうえで基本となる史料が、『信長公記』と『甫庵信長記』です。『甫庵信長記』は、『信長公記』をもとに独自の調査と解釈を加えて江戸時代に出版されたものです。信長の公式記録に基づいているため、桶狭間の戦いに関する描写には多くの共通点が見られます。しかし、似ている描写の中にも、いくつか重要な相違点があります。それが、奇襲

  • 豊臣政権はなぜ崩壊したのか?秀長の死・官兵衛の冷遇・秀次切腹事件を徹底考察

    織田信長が天下統一への道を切り開き、豊臣秀吉がそれを成し遂げ、徳川家康が泰平の世を築いた——戦国の終焉から江戸幕府成立までの流れは、多くの方がご存じの通りです。 織田信長の子孫は、次男・信雄の系統が旗本や大名として江戸時代を通じて存続しました。徳川家康の子孫も御三家をはじめとする諸家に分かれ、大きく繁栄したまま明治維新を迎えています。 ところが、豊臣秀吉の血筋だけは、大坂の陣において徳川家康によって断絶させられてしまいました。 豊臣政権が崩壊した理由 織田信長や徳川家康と違って、豊臣秀吉はもともと農民出身でありながら、一代で天下人へと駆け上がった人物です。 華々しいサクセスストーリーとは対照的

  • 【人間力】豊臣秀吉の天下統一の秘密は「最強の人心掌握術」にあった!

    日本の歴史を振り返ると、農民出身から関白まで上り詰めた豊臣秀吉ほど、大きな成功を収めた人物はほかにいません。なぜ秀吉はここまでの成功を収めることができたのでしょうか?誰よりも優れた軍隊を持っていたから?莫大な経済力があったから?その条件であれば、織田信長も徳川家康も秀吉に引けを取りません。むしろ上回っていた部分もあるでしょう。しかし、この二人にはないものが秀吉にはありました。それが「人を味方につける才能」、いわゆる「人心掌握術」です。今回は、秀吉の人心掌握術がどれほど凄かったのか、そして何が信長や家康と違っていたのかを見ていきましょう。「人間力の塊」だった豊臣秀吉とは?ゲーム、歴史小説、時代劇

  • 千利休はなぜ豊臣秀吉に切腹を命じられたのか?武士ではない茶人の死の真相

    千利休は、豊臣秀吉の時代に活躍した茶人です。わび茶を大成させた人物として知られ、「茶聖」とも呼ばれています。当時、茶人として名を馳せた津田宗及・今井宗久とともに「天下三宗匠」の一人に数えられていました。豊臣政権下における千利休の立場天正19年(1591年)2月28日、千利休は豊臣秀吉の命により切腹しました。武士でもない一介の茶人である千利休が切腹を命じられた理由については諸説ありますが、最も有力とされるのは、利休が政権内で絶大な権勢を誇っていたという点です。利休は秀吉から3000石を与えられ、織田信長が創設した「御茶頭御用達」の職に就くなど、政治的・経済的な影響力に加え、文化的な側面からも秀吉

  • 小京都の起源は室町時代|全国に広がった京都への憧れと45の小京都

    室町時代の京都は、各地の大名や国衆にとって誰もが憧れた華やかな都でした。 京都から国元へ戻った大名たちは、京都を模した地名を付け、寺社を建てて、「小京都」と呼ばれる城下町づくりを始めたのです。 そこには「京都こそ中心」という意識のもと、幕府に倣って自らの権威と力を誇示する狙いだけでなく、自分の領国に「都(みやこ)」をつくりたいという思いも込められていました。 各地に残る「小京都」 小京都と呼ばれる街は全国各地に数多くあります。高知県四万十市もその一つで、1468年、関白・一条教房が応仁の乱の戦火を避けてこの地に移り住み、京都を模して土佐の都にふさわしい街をつくりました。 街は碁盤目状に広がり、

  • 第二次世界大戦の開戦から太平洋戦争へ――日本の「総力戦」体制と国民の暮らし

    前回の記事「世界恐慌から第二次世界大戦へ」では、大戦勃発のきっかけとなった出来事に触れながら、第二次世界大戦開戦までの歴史を解説しました。今回は、開戦から太平洋戦争に至るまでの流れをたどりながら、当時の日本社会がどのような状況に置かれていたのかを見ていきます。総力戦体制とは1941年(昭和16年)12月8日、日本はハワイの真珠湾を攻撃し、ここから連合国との本格的な戦闘が始まりました。アメリカをはじめとする連合国と対峙する日本は、まさに「総力戦」と呼ぶにふさわしい状態にあったのです。そもそも太平洋戦争開戦に先立つ1938年(昭和13年)、政府は国家総動員法を制定していました。これは「戦争を遂行す

  • 原爆投下と太平洋戦争の終結 ― 日本はいかにして敗戦へ至ったのか

    これまで二回に分けて第二次世界大戦と太平洋戦争の歴史を綴ってきましたが、今回は太平洋戦争において日本がどのように敗戦へと向かったのか、その過程をたどっていきます。 アメリカによる本土空襲の始まり 1942年(昭和17年)4月18日、アメリカ軍による日本本土初の空襲が実行されました。B25爆撃機16機による東京への爆撃です。その後しばらく空襲は途絶えますが、長距離爆撃機B29の量産が完成すると、1944年11月から本格的な本土攻撃が開始されることになります。 アメリカ軍の動き アメリカは日本が占領していたサイパン・テニアン・グアムを奪還すると、この三島を日本本土への航空攻撃の拠点として整備しまし

  • 毛利氏は本能寺の変を知りながら秀吉を追撃しなかった!?その深い理由

    羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、主君・織田信長の命を受け、毛利氏が支配する中国地方へ遠征していました。備中高松城の戦いでは、清水宗治が守る高松城を水攻めにするなど、戦況は中盤に差し掛かった頃のことです。そして天正10年(1582年)、あの本能寺の変が勃発します。明智光秀に討たれたという知らせを受けた秀吉は、直ちに毛利氏との講和を成立させ、城主・清水宗治の切腹を見届けた後、仇・光秀討伐のため姫路へと引き返しました。このとき秀吉は、信長死亡の事実を毛利氏に知られないよう隠し通しました。信長の死によって後ろ盾を失ったことを悟られれば、毛利軍に追撃される危険があるからです。ところが、毛利氏は秀吉撤退の翌日には

  • 戦国三大無能大名とは?大内義隆・今川氏真・細川政元の実像に迫る

    応仁の乱に端を発する約150年におよぶ戦国時代には、実に多くの武将が名を連ねていました。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らは卓越した能力によって数々の偉業を成し遂げ、後世に名を残す英雄として語り継がれています。しかし歴史の常として、英雄がいれば反面教師となる存在も存在します。今回は、戦国時代における「三人の無能」と呼ばれる大名たちについて取り上げます。細川政元 ― 手に入れた権力を自ら手放した男タイトルにある通り、細川政元・大内義隆・今川氏真の3人は、戦国時代における「三大愚将」として知られています。この3人は活躍した時代こそ異なるものの、実は有能な部分も持ち合わせていました。それでも影の部分があ

Total 2321 -世界史  FirstPage PreviousPage NextPage LastPage CurrentPage:106/117  20-世界史/Page Goto:1 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112