世界史

古代の歴史

  • ローマ王国を振り返る――王政から共和政ローマへ移行するまでの歴史

    共和政ローマ(ローマ共和国)について調べる前に、まずはその前段階にあたる「王政ローマの始まり」と「なぜ不満が高まり共和政へ移行したのか」を確認しておきましょう。共和政ローマの前に、王政ローマをひもとく紀元前753年、ロムルスによって建国されたとされるローマ。以後、7人の王がローマを統治しました(初代から5代目までは伝説の時代とされています)。初代王ロムルスは領土拡大のため、積極的に多くの人々を受け入れていきました。しかし、受け入れたのは男性がほとんどで、ローマの人口は大きく男性側に偏っていたといいます。「このまま男性だけの状態では、ローマは長く続かない」。そう判断したロムルスは、周辺諸国に「女

  • 古代ローマ共和国とは?王政から共和政、帝政への歩みを徹底解説

    紀元前509年、ローマはそれまでの王政を打倒し、共和政(共和国)へと移行しました。イタリア中部の一都市国家にすぎなかったローマは、やがて地中海全域を支配する大国へと成長します。その後のローマ帝国の繁栄は、「パックス・ロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれるほど圧倒的なものでした。今回は、そんな共和政ローマについて、政治体制の変化から領土拡大、内乱に至るまでの歩みを詳しく見ていきましょう。古代ローマの領土変遷王政ローマから共和政ローマへ王政ローマの時代、独裁的な権力を振るっていたのは、北方の勢力エトルリアと深い関係を持つ王でした。紀元前509年頃、その王が追放されたことを機に、ローマは共和政ローマへ

  • 帝政ローマの繁栄と危機――五賢帝の黄金時代から3世紀の動乱へ

    養父カエサルが内乱を鎮めると、紀元前27年、その養子オクタウィアヌスがローマの全権を掌握しました。元老院から「アウグストゥス」の称号を与えられ、事実上の皇帝となったことで、約200年にわたる平和な時代――帝政ローマが幕を開けます。 ドイツ語で皇帝を意味する「カイザー」は「カエサル」に由来する言葉として今も残っています。また、カエサルの生まれた月は「ユリウス」から「7月」へ、アウグストゥスにちなんで「8月」へと改名され、現代にまで影響を及ぼし続けています。 この記事では、ローマ帝国の繁栄と危機についてまとめていきます。 ローマ帝国の繁栄 五賢帝の時代 西暦96年から180年にかけてのローマ帝国は

  • ペリー来航前に日本へ来たのはなぜ?18~19世紀の外国船来航の理由【ロシア編】

    江戸幕府の終焉(ペリー来航)より前、交易を目的として日本へ来航した国は、ロシアとアメリカの2か国です。 ※イギリスもたびたび来航していますが、調べた限りでは中継地点としての寄港が中心だった印象が強いため、今回は対象から除外しています。 この2か国が日本を目指したのには、それぞれ理由があります。前回は大航海時代に焦点を当ててその理由を探りました。今回は、ロシアが実際にどのような状況に置かれていたのかを見ていきましょう。 ロシアの置かれた状況 ヨーロッパ諸国が着実に富を積み上げていた頃、ロシアはまだツァーリ(君主)の権力が弱く、国内が不安定な状態にありました。とりわけ1598年から1613年にか

  • 18〜19世紀に外国船が頻繁に来航した理由【アメリカ編】

    アメリカ船の来航が相次いだ背景には捕鯨ブームがあるという見方が一般的ですが、その背景を詳しく見ていくと、捕鯨以外にもさまざまな要因が隠れていることがわかります。そこで今回は、「18〜19世紀に外国船が頻繁に来航した理由」シリーズの第3回として、アメリカ編をお届けします。アメリカの転機現在のアメリカ合衆国の国土の大部分は、大航海時代以降、イギリス・フランス・スペインによって植民地化されてきました。しかし、イギリスとフランスが覇権を争う中で、先住民のインディアンを巻き込んだ戦争(=七年戦争)へと発展します。この戦争に勝利したイギリスは、北米におけるフランス植民地の多くを自国の領土へと組み込みました

  • 教科書で世界史を学ぶ前に|年号の暗記から脱却する「数珠つなぎ」勉強法

    世界史はなぜこんなにも混乱しやすいのか正直に言えば、世界史は非常に混乱しやすい科目です。その理由を、この記事ではできるだけわかりやすく解説します。そもそも、なぜ世界史は「年号を暗記する」のではなく、「数珠つなぎ」のように出来事をつないで学ぶべきなのでしょうか。その理由がわかれば、授業への心構えができ、記憶の定着も格段にしやすくなります。地域を行ったり来たりする授業の流れまず、人類が最初に現れ、文明が誕生したあとの展開を思い浮かべてみてください。中東で文明の話が始まったと思ったら、そのまま中東の歴史を学び続け、次にヨーロッパの学習に入った途端、今度はインド文明のはじまりの時代まで時間が巻き戻る—

  • 人類の進化と国家の誕生

    ```html アフリカで誕生したとされる人類は、さまざまな系統が生まれては消えていく中で、おおむね猿人 ⇒ 原人 ⇒ 旧人 ⇒ 新人という段階を経て進化したと考えられています。※ただし、2018年にダーウィンの進化論を否定する証拠を示す論文が発表されたとも言われており、今後、教科書の内容が変わる可能性もあります。環境変化によるアフリカからの脱出その一方で、地球規模で大きな環境変化が起こりました。寒冷化と乾燥化によって、かつて豊かに広がっていたアフリカの森林面積は縮小していきます。私たちの祖先である現生人類(新人)も、寒冷化や乾燥化に苦しむことになりました。そこで現生人類は、食料や水を手に入れ

  • 古代文明はどのように誕生したのか?農業革命から国家の成立までをわかりやすく解説

    前回の記事でもお伝えしたように、人類は進化を重ねながら世界中へと広がり、狩猟採集の生活から農耕・牧畜の生活へと移行することで、人々の暮らしは大きく変化しました。そしてやがて国家としての構造が整い、文明が誕生します。今回は「国はどのようにして作られたのか」「古代にはどんな文明が生まれたのか」という点に焦点を当てて、具体的に見ていきましょう。世界最古の古代文明とは?文明の誕生に必要な条件古代文明が生まれるためには、多くの人々が集まって生活できる環境が必要不可欠です。そのためには、安全な土地・水・食料という3つの条件を満たす場所でなければなりません。アフリカで誕生し世界各地へ移住していった人類は、長

  • 古代オリエントの世界:地形と気候から見る文明発祥の地

    オリエントとは?「オリエント」とは、ヨーロッパから見て「太陽が昇る場所」、すなわち「東方」を意味する言葉です。現在でいう「中東」周辺にあたります。「中東」と聞くと、石油、ラクダ、砂漠……そんなイメージを抱く方も多いのではないでしょうか。実際、この地域は雨が非常に少ない乾燥地帯です。イスラム教を思い浮かべる人もいるかもしれません。本記事では、数々の古代文明が誕生したオリエントの地形、地名、気候について見ていきます。※ちなみにイスラム教が登場するのは、古代文明の誕生から約4000年後のこと。教科書では第4章以降の扱いになります。オリエント世界の位置と周辺の地形オリエントは、アフリカ大陸北東部から西

  • メソポタミア文明の興亡――世界最古の文明はどう発展し、滅んでいったのか

    世界最古の文明を育んだチグリス・ユーフラテス川流域 人類最古の文明が花開いた地域として知られるのがメソポタミアです。これはチグリス川とユーフラテス川に挟まれた流域一帯を指します。紀元前8000年頃には農業革命が始まっており、世界で最初に農耕と牧畜が行われた土地でもあります。 水の少ないこの地域では、灌漑農業が考案されました。灌漑農業が普及して以降、人口は爆発的に増加します。特にメソポタミア南部では、紀元前3500年頃から急激な人口増加が見られたとされています。 シュメール人が築いた世界最古の文明の始まり 灌漑農業によって定住生活が広まると、人類は血縁関係で結ばれた小さな集団から、大規模な集団に

  • エジプト文明の歩み――ナイル川の恵みが育んだ古代国家とその文化

    メソポタミア文明とほぼ同じ時期、あるいはやや遅れて誕生したのがエジプト文明です。エジプトといえば、国土の大部分が砂漠地帯というイメージを持つ人が多いのではないでしょうか。実は、このイメージは決して間違いではありません。 砂漠だからこそ、人々はナイル川の水辺に集まり、そこで文明が築かれたのです。ナイル川の周辺以外は水の確保が難しく、生活するのが困難だったためです。 今回は、そんなエジプトの動向について探っていきましょう。 文明勃興前のエジプトをのぞいてみよう 文明を成立させるには、人口を支えるための食料確保の手段が不可欠です。エジプトの場合も、その手段は農耕と牧畜でした。とはいえ、ここは砂漠地帯

  • わかりやすい古代エジプト史:三大王国の興亡と王朝の変遷

    はじめに古代エジプトは、メソポタミアの国家と同様に、王の権威と宗教を用いて集団を統合しました。むしろ、王による統一国家の成立はメソポタミアよりも早かったとされています。エジプトでは、太陽神ラーを中心とする宗教が古くから信仰されてきました。今回は、古代エジプトに登場した王朝の歴史を、時代順に見ていきましょう。エジプト最初の国家――ファラオの神権政治エジプトの王は「ファラオ」と呼ばれ、王を現人神(生ける神)として崇拝する神権政治が行われていました。王は国土を所有し、その一部を少数の神官や官吏に与えて国を運営していましたが、その他の大多数の住民は課税の対象であり、無給の労働力として扱われていたのです

  • 東地中海の古代史:シリア・パレスチナ地域に栄えた民族と文化

    地中海の東側に位置する地域は、シリア・パレスチナ地方と呼ばれます。これまで学んできたように、東地中海のシリア・パレスチナ地方は、「メソポタミア」と「エジプト」という古代の先進地域にはさまれた土地でした。今回は、この東地中海でどのような人々が活躍し、どのような文化が築かれたのかを見ていきましょう。最初に東地中海で活躍したのはどんな人々?シリア・パレスチナ地方は、古くから陸と海の交通の要衝として繁栄してきました。紀元前3000年頃にはすでに人々が集住していたと考えられています。しかし、紀元前2300年頃から紀元前2145年頃にかけてのアッカド支配期が終わった後も、東地中海に統一王朝が現れることは長

  • セム系三民族(アラム人・フェニキア人・ヘブライ人)の功績とは?

    エジプト新王国がパレスチナやシリアへの影響力を大きく弱めた後、歴史の表舞台に登場したのがアラム人、フェニキア人、ヘブライ人の三民族です。本記事では、東地中海情勢の流れに沿って、それぞれの民族の特徴と、周辺地域にどのような影響を与えたのかを詳しく解説します。 アラム人とは? アラム人はもともと古代オリエントの遊牧民でした。 紀元前11世紀頃まではユーフラテス川上流域に定住していましたが、紀元前1200年頃からシリア地方へ移動し、ダマスカスを中心に多くの都市国家を築き上げます。彼らはラクダを使った隊商(キャラバン)を組織し、内陸都市どうしをつなぐ中継貿易に従事しました。 イメージとしては「砂漠の商

  • キリスト教・イスラム教の源流!ユダヤ教の歴史と教えをわかりやすく解説

    世界三大宗教といえば、キリスト教、イスラム教、仏教が挙げられます。その中でもユダヤ教は、キリスト教とイスラム教という二つの世界宗教を生み出した源流となる宗教であり、現在も続く中東情勢にも深く関わっています。だからこそ、しっかりと押さえておきたい存在なのです。今回は、そんなユダヤ教についてわかりやすくまとめてみました。ユダヤ教の教えとは?エジプトやメソポタミアで生まれた多くの宗教が多神教だったのに対し、ユダヤ教は唯一神ヤハウェへの信仰を頑なに守り抜いた点に大きな特徴があります。その始まりは、紀元前13世紀の「出エジプト」にさかのぼります。預言者モーセは、新王国時代のエジプトで奴隷として虐げられて

  • 干ばつで水面下から現れたミタンニ王国の宮殿遺跡、イラク・モスルダムで発掘調査が始まる

    イラク北部のクルド人自治区。深刻な干ばつによって水位が大きく下がったモスルダムの貯水池から、ミタンニ王国の宮殿とみられる遺跡が姿を現しました。発見から約10年、ようやく実現した発掘調査実はこの遺跡の存在自体は、2010年にはすでに確認されていました。しかし、その後は水位が十分に下がらず、発掘調査を行える状態にはなりませんでした。発見からおよそ10年の時を経て、ようやく本格的な調査が始まったのです。戦乱で失われゆく古代遺産ミタンニ王国に限ったことではありませんが、このような古い時代の遺跡は、内戦や戦争によって遺跡そのものが破壊されたり、貴重な文化財が略奪されたりするケースが少なくありません。研究

  • 古代オリエントの統一──アッシリア王国からアケメネス朝ペルシアへ

    紀元前2000年代初頭、メソポタミア北部の一部にアッシリア王国が興りました。アッシリア王国は一時期、ミタンニ王国に属する小さな勢力にすぎませんでした。しかし、そのアッシリア王国はやがてエジプト新王国やヒッタイトと覇を争うオリエント世界の二大勢力の一つへと成長し、激しい攻防を繰り広げるまでに発展していきます。やがてアッシリアも衰退し、その領土から新たな王国が分離しました。さらに、分離した王国たちを征服したのがイラン系(ペルシア人)のキュロス2世です。これがいわゆるアケメネス朝ペルシアの建国です。本記事では、アッシリア王国からアケメネス朝ペルシアに至る古代オリエント統一の流れを解説します。アッシリ

  • 韓国併合と満州進出――帝国主義へ向かった日本と東アジアの変動

    1904年、日露戦争開戦直前の日本は、韓国の独立と領土保全を掲げて韓国政府との間で日韓議定書を締結しました。続いて、韓国の外交権を制限し、財政面での主導権を確保することを内容とする第一次日韓協約を結んでいます。 これは、韓国をロシアに対抗するための保護国と位置づけると同時に、日本自身が帝国主義国家としての道を歩み始めたことを意味するものでした。 日本による韓国支配の強化 日露戦争に勝利した日本は、大陸へ勢力を拡大するための足場として韓国を確保しようとしました。先行して締結された第一次日韓協約によって韓国の外交権は制限され、保護国化が進められていましたが、日本が実際に韓国を植民地として支配する

  • 大航海時代の鍵となった出来事——ペスト・宗教改革・海洋進出の背景

    タイトルこそ世界史ずくめですが、この記事は18世紀から19世紀にかけて頻繁に来航するようになった外国船の話にもつながる内容です。外国船の度重なる来航は、水戸藩から生まれた尊王攘夷思想を経て薩長へ受け継がれ、明治維新へとつながっていきました。そう考えると、大航海時代を理解せずにはいられません。 江戸時代末期までに本格的な交渉を行っていたのはロシアとアメリカです。今回は両国の状況について触れますが、まずロシアについてはヨーロッパとの関係に焦点を当て、アメリカについては建国の始まりに関わる大航海時代を見ていきましょう。 ヨーロッパ諸国が世界を目指した大航海時代 大航海時代につながった出来事として、次

  • 尊王攘夷運動の勃興と吉田松陰 ― 幕末を動かした思想と志士たち

    嘉永6年(1853年)のペリー来航以降、相次いで外国船が日本へ押し寄せました。さらに清国がアヘン戦争やアロー戦争(第二次アヘン戦争)で敗北したという衝撃的なニュースは、日本の外交姿勢を根本から変える出来事となりました。 幕末の政局は、公武合体路線を軸に、開国を進める幕府(開国派)と、鎖国の継続と外国排斥を掲げる朝廷(攘夷派)との対立として展開していきます。 尊王攘夷論のはじまり そもそも「尊王攘夷」は、「尊王=王(天皇)を尊ぶ」という思想と、「攘夷=夷(異国人)を斥け追い払う」という思想が、それぞれ独立した形で存在していたものです。尊王論は朱子学を基盤とし、攘夷論はそれとは別個に成立していまし

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